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エピローグ
「日下部はん、至急頼みたい仕事があんねん」
今日も今日とてろくでもない仕事が〈なにわシッピング〉から舞い込む。後輩の桃香と二人でやっつけ、通関部長のもとへ馳せ参じる。
「日下部てめえ、もういい加減和泉の野郎との契約切れよ」部長は怒るのも面倒になったのか、呆れたようにため息を吐いた。「あたしもだけど、お前だってたいへんだろうが」
「お気遣いどうも」手をひらひらさせながら席へ戻った。
例によって税関の閉庁時間ぎりぎりになって許可が下りた。許可書をうやうやしく森下さんから回収したとき、ふとある描像が浮かぶ。
もしありがとうが無制限に消費できたらどうなるだろう。いまみたいなよくあるケースでも、俺たち営業は通関部門の人間に(同じ社内であるにもかかわらず)ぺこぺこ頭を下げて、通関をやっていただきありがとうございました、などと毎回平身低頭せねばならないのだろうか。
それだけではない。取引先へのメールはどうなる。本心でないありがとうございますが乱発され、仕事の流れは粘性を帯びたように滞るだろう。
なにより恐ろしいのは、となりで意味ありげに微笑んでくれている桃香と恋人同士になれただろうか、という点である。
彼女は伊吹山でお金を払ってでも俺に感謝してくれた。だからこそその後に続いた告白も真実味を帯びたのである。もしありがとうに予算がついていなかったのなら、俺は素直に後輩の好意を受け止められただろうか? いつもの冗談だと笑い飛ばし、チャンスを逸した可能性は?
俺はありえたかもしれないもしもの世界を頭から締め出した。ありがとうが無制限に消費される世界。これほど身の毛のよだつ社会を、俺はほかに思いつけない。
「小西、手伝ってくれて助かった」
「どうしたしまして」リスみたいに頬を膨らませた。「それだけ?」
「ありがとう」
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