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1 公共の川は汚すべからず
魔の水曜日の午前中を切り抜け、気だるい午後が始まるはずだった。
13:00きっかり、部署内に電話の音が不気味に響き渡る。営業時間開始と同時に鳴る電話というのはほぼまちがいなく、ろくな内容ではない。急ぎとかトラブルのたぐいと相場が決まっている。
当然、誰もが自分の担当顧客からではありませんようにと祈るものだ。無神論者の俺でさえそうした。横目でさりげなくナンバーディスプレイに視線を移す。あにはからんや、例の呪わしい〈なにわシッピング〉の番号である。
観念して3コールめでとった。「はい、三洋物流」
「日下部はん大至急や、大至急やらなあかん仕事があんねん」
予想通り〈なにわシッピング〉の和泉卓郎からだった。彼の会社は海上運賃を販売するNVOCCのなかでも頭ひとつ飛び抜けている。もちろん悪い意味で。
「どうせ今日カットでコンテナ10本とかいうカスみたいな仕事なんだろ」
「おまはんテレパスかいな。中古車輸出、コンテナ10本52台。今日カット船や。書類は全部揃っとるさかい」
「無理に決まってんだろうが。よそに頼め、よそに」
「そんな殺生な。こんな仕事おまはんにしか頼めんのや、人助けやと思って。この通り」
「できんもんはできん。もう切るぞ」
「見るだけ見たってくれや。できひんならそう返事してくれてかまへんから……いまメール送ったで」
意図せず盛大なため息が漏れた。「見るだけだぞ」
F5を連打して複数のメールを受信し、となりに腰かけている後輩に声をかける。「小西、手空いてるよな。ちょっと手伝ってくれ」
「貨物が中古車じゃないなら空いてますよ」
退屈そうにパソコンをぽちぽち触っているのは、2年前にうちの業界に転身してきた小西桃香である。御年26歳華の独身、身長157センチメートル、体重は神のみぞ知る。猫系の顔立ちなのに瞳が大きく、目力は相当のものだ。最近は徐々に生意気な口を利くようになってきたけれども、それがまた……。
「中古車じゃないよ――いま5本分送った。写真のチェック頼む」
しばらくzipファイルを展開しているらしい間が空いたのち、ゆっくりと首をこちらに向けてきた。「真琴さん、嘘つきましたね」
「あとでいくらでも愚痴は聞く。今度飯おごるからさ」
「まったく同じ台詞を2日前に聞いた気するけど」
俺たちは韋駄天も真っ青のスピードで書類を整えていった。荷主はチョードリートレーディングとやらいう名前で、どのコンテナの積みつけも物理的に不可能なラインぎりぎりを攻めている。ワイヤで吊って無理やり2台詰め込んだり、リアハッチを外して少しでもスペースを確保したり、まったく連中のバンニングテクニックには毎度のことながら頭が下がる。
通関用インヴォイスを作り終え、青息吐息で通関部門へバトンタッチ。狭いオフィスをバタバタ走るのはいかにも素人くさいので、あえて優雅に歩いていく。刺激しないよう、ここが月面であるかのようにゆっくりと書類の束を置いた。「姐さん、今日カット1件頼みます」
「日下部てめえ、いま何時だと思ってやがる」
凄んでみせたのは通関部長の森下かすみ女史である。39歳独身、日本人離れした胸と尻を誇る美人であるが、いかんせん性格がきつすぎる。もし彼女と結婚するつもりなら、生涯を奴隷として過ごす覚悟がいるだろう。
「14:33であります、隊長」反射的に不動の姿勢をとった。
「よこせ」書類をひったくられた。「許可切れるかどうか保証できんぞ、いいな」
自席に戻り、長々と息を吐き出す。「おっかないね、どうも」
「お疲れさま。無事許可降りるようあたし、祈ってますね」
B/Lドラフトの作成にいそしんでいると、通関部から雷が落ちた。「日下部、税関から電話! てめえのカス仕事で聞きたいことあるんだと」
税関からの問い合わせは完全に凶兆である。しくじれば現物検査になり、輸出許可は数光年ほども遠のいてしまう。べつに和泉の仕事なんかどうなろうとかまわないのだが、こちらにも受けた手前プロの意地がある。「代わりました、営業担当の日下部です」
税関職員は名乗ってから、疑問点を実にねちっこく説明した。4本めのコンテナに2本ばかりタイヤが写っている、インヴォイスに記載がないので申告外貨物ではないか?
まったくご指摘の通りだった。向こうの言い分を認めたらよくて申告訂正、悪ければ全量デバン検査もありうる。考えろ、考えるんだ、考えるとき――。「よく見たら3台めの前輪2本を外してるようですね。それを4台めのバンニングに使ってるだけのようですよ」
一か八かの賭けだった。写真には3台めの前輪が見切れていて写っていない。ゆえに釈明通りかどうかは証明のしようがない。あとはこのでっちあげを税関職員が信じるかどうかだ。
「……わかりました。それなら同一車両のリムーヴなので、申告しなくてもいいですね」
電話が切れた。賭けに勝ったのだ。全身の力が抜け、液体になったかのようである。
1時間後、税関閉庁の数分前に輸出許可は下りた。森下さんに頭を下げ、許可書をスキャンして和泉へ送りつけた。送信完了した数秒後、間髪入れずに電話がかかってくる。
「ホンマ助かったわ日下部はん。この恩は一生忘れへんで」
「忘れていいから二度と依頼せんでくれ」
「そう言わんと」わざとらしいせき払い。「日下部はん、おおきに」
俺は受話器をまじまじと見つめた。「……驚いたな」
「そんくらい感謝しとるちうこっちゃ。いまサンキュー券(電子版)送ったさかい、承認しといてや。ほなまた」
半信半疑でサンキュー・アカウントを確認すると、本当に受信していた。
「どうしたの真琴さん、ボーっとしちゃって」桃香がモニタを覗き込んできた。「うわっ、あの和泉さんがサンキュー券くれるなんてすっごい意外」
「俺もびっくりしてる」大きく彼女から目を逸らし、小さくつぶやいた。「小西、助かった。ありがとう」
「冗談やめてよ、どうしちゃったんですか急に」
俺は財布から手持ちのサンキュー券(ペーパー版)を取り出し、差出人欄にサイン、束から切り離した。「受け取ってくれ」
「もらえるなら遠慮なくもらうけど、いいのほんとに、こんなことで使っちゃって」
「そのくらい感謝してるってことだよ」
彼女は満面の笑みで応えてくれた。「じゃ、遠慮なくもらっときますね。それとお夕飯ごちそうしてくれる約束も忘れないように」
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