今までのありがとう

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今までのありがとう

「ありがとう」 「どうしたんですか急に。貴方らしくないですよ」 「ふん、言ってみただけだ」  妻が困ったように笑い、俺はまた拗らせる。  本当は心の底から思っているのに、妻にこんな顔をされては言うに言えず。  頑固な気質までもが邪魔をして、素直に「ありがとう」すら言えない様だ。  俺は今になって、自分の性格を恨むなど思いもしなかった。 「おい、久々に散歩でもしないか。この公園に来たのは久しぶりだからな」 「いいですよ。なんだか初デートを思い出しますね」 「ああ、そうだな。俺もちょうど思っていた、懐かしいな」  俺はぐるりと公園を見渡して、懐かしさに目を細める。  妻と初デートをした思い出の公園。ここで再開できるのは運命な気がして、少しばかり涙腺が緩む。  だが、男が人前で泣くものじゃない。泣くなら忍んで泣け。それが俺の流儀だ。 「すみません。よろしければ手を繋いでもらえませんか?」 「どうした急に」 「貴方の温もりが恋しくなりました」 「そういうことなら、いくらでも繋いでやる」 「ありがとうございます」  おもむろに妻の手を取れば、いつもとは違う冷たさが手を伝う。  何十年と握ってきたからこそ、気づいてしまう微弱な温度差。  俺は耐えられず、手を離してしまった。 「嫌でしたか?」 「嫌なわけあるか。愛した女の手だぞ。ただな、いつもより冷たすぎるんだ。そうだ、今度は手袋を買ってやろう」 「ふふ、楽しみに待っています。いつまでも」 「いつまでもってことはないだろ。俺の給料なら毎月買ってやれる」 「毎月買われたら、どれを使おうか悩んでしまいます。だから一つでいいですよ。貴方の選んでくれた手袋なら一級品です」 「そうかい。それなら、一つにするか」 「ところで、そちらはどうですか?」 「何も変わってない。強いて言うならお前がいないくらいだ」 「そうですか。私もそちらに行ければいいんですけどね......」 「来れるわけないだろ」 「身支度はすでに済ませているので、来いと言われれば、いつでも行けますよ」 「ばか野郎!」  今日は怒らないと決めていたのに、頭に血が上り、声を荒らげてしまった。  俺はハッとして妻を見るも、妻は嬉々した様子で。俺は変に気が狂わされる。 「例え神様や仏様が許しても、俺が許さないからな。だいたい、俺は他の女にうつつを抜かさないから安心しろ」 「約束ですよ?」 「約束するとも」 「あら、楽しくお話をしていたら着いてしまいましたね。貴方と話していると、この散歩コースを短く感じてしまいます」 「俺もだよ。本当にあっという間だったな」 「まだ話足りないですが......。もう、時間ですものね」 「そうだな。俺ももっと話したいが、時間だな」 「次はいつになるんでしょう」 「さあな」 「もしかしたら次は、貴方と同じ場所かもしれないですね」 「......ああ」 「それでは、私はこれで。貴方、さようなら」 「待ってくれ!」  涙なんて我慢できなかった。最後の最後まで泣かないで、妻の顔を拝むと決めたのに。全てが霞んで見える。  別れが惜しい。けれど、それ以上に伝えなければならないことがある。  百回でも足りない、一万回でも足りない。ずっと頑固な俺に寄り添って生きてくれた。妻への感謝。 「ありがとう......ありがとう......!」 「もう、子供みたいに泣かないでください。急にどうしたんですか?」 「俺はお前がいないと何もできないんだ......。死んでから気づいて、ありがとうも言えなくて。こうやって会っても意地っ張りになって......今の今まで言えなかった。俺は大ばか野郎なんだ......」 「大ばか野郎じゃないですよ。貴方は誰よりも優しくて一途で、私に寄り添ってくれたじゃないですか。だから、顔をあげてください。貴方に涙は似合いません」  頬に触れた妻の手はひんやりと心地よく、自然と俺の涙は止まっていた。  妻の指が俺の涙を払い、俺の視界は瞬く間に晴れる。  妻は泣いていた。そして、美しく笑っていた。 「そちらに行ったら、手を握ってくれますか?」 「掴んで、一生、離さないからな」 「ありがとうございます」  妻はその言葉を最後に、霧のように消えてしまった。  俺は一人になり、悲しさがこみ上げるが、心はスッキリしている。  妻に、今までのありがとうを伝えられたから。  
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