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1 その日/朝
朝っぱらからかかってくる電話はろくな用件ではない。
大抵は急ぎ。しかもこちらが出る頃を見すましたかのように、その瞬間に鳴り響く。
だから陽奈はその音を無視して出社の準備を急いだ。ここは家、しかも両親がいる。どちらかが出てくれるだろう。それより、早く出ないといつもの電車に遅れてしまう。
……まだ音が続いている。母が何かで手が放せないときはいつもこうだ。ちょっとお父さん定年してヒマなんでしょ早く出てよと苛ついた気分になったところで、やっと音が止んだ。
応答の声。父が出たらしい。やれやれと思いつつ仕事用トートバッグの持ち手を肩に引っかけ、玄関のドアノブを握る。
「え、成司が?」
ふいに高くなった父の声に、一瞬足が止まった。
兄ちゃん? がどうしたの?
ちょっと話を聞こうかとも思ったが、腕時計に目をやり慌てる。六時四十分。
うわ、やばいやばい。
陽奈は電話中の父にも分かるように大声で「行ってきます」と叫び、ドアを開けた。
◇ ◇ ◇
いつもの電車にぎりぎり滑り込めた陽奈は、かなり上がった息を整えながら心の中で、よく間に合った自分! と渾身のガッツポーズをキメた。
今年の四月に入社したばかりの会社までは、最寄駅から一時間半、ただし通勤時間帯は二時間弱かかる。
八月になった現在、仕事をこなすのに日々オーバーフロー気味でよく締切りギリギリになる陽奈にとって、電車に乗り遅れないか否かは一日の幸先を占うかなり重要な「儀式」であり、遅れずに乗れただけでもとても喜ばしいことなのだった。
朝の輝かしい成果に一安心したところで、先程の電話に思考が向かう。
(——兄ちゃん、何かあったのかな)
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