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「助けて!」
いつのまにか、心の中で手の届かないはずの人を思い浮かべていた。
すると突如、暗い部屋に声が響いた。
「お客様。その子は振袖新造。まだお客を取れないのです」
そしてその声の主はお客の着物を勢いよく掴むと、部屋に放り出した。
部屋の外からはガヤガヤと男衆(吉原で働く男性)達の声が聞こえた。
──ああ、助かったんだ。
私は助かった安堵で視界が潤みだした。
その時、雲が晴れ満月が顔を覗かせた。
私は、部屋に差し込む月明かりに照らされたその人を見た。
「ありがとうございんす、歌翁様」
助けてくれた声の主、歌翁様は何も映さない瞳で私を見た。
吉原にいる限り、近いうちにいずれ似たような事になる。そう、叱られそうで俯くと歌翁様は袖で私の涙を拭い、そっと襖を閉めた。
「大丈夫か、初」
囁いたその声はあの頃と変わらない、優しいものだった。
「歌翁、様?」
「何を驚いている。約束しただろう、ずっと初と呼ぶと」
「……かおうさま。かおうさま」
あの優しい人は消えてはいなかった。
声を震わせ、私は歌翁様に抱きついた。
歌翁様は、少し考えるように躊躇らって、そっと私の背中に手を回した。
トン、トン、と赤子をあやすように私を叩く。
「怖かったよな。済まない、初」
謝る理由は、もっと早く助けたかった事か、それとも地獄から抜け出せない事か。
それから歌翁様は私が落ち着くまでずっと側に居てくれた。
あれから私達は会話を交わしていない。
只、私が目で歌翁様を追ったり、歌翁様が何かを言いかけて止めたり。
それだけだった。
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