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王都から単騎で10日程もかかる辺境の村から、更に徒歩で森に入る事1時間。そこに、俺の育った家はある。
木とレンガの素朴な家は思い出のままで、離れて7年もの歳月が経っているとは思えなかった。
ただ、ここにはもう養父はいない。小さな俺を育ててくれた優しい人は、俺の知らない間に変わり果ててしまった。
「あれがお前の家か?」
隣を歩くアルフレッドに問われて、俺は静かに頷き歩調を速めた。
ここに来たのは思い出の地で長期休暇を過ごすためではない。養父エドガーが魔王を復活させたことで、この世界は魔物や、その上位種である魔族がはびこるようになってしまった。力を持たない人々は強力な結界を張っている街の外には出ず、結界も張れない小さな村からは人々が去っていく。
かつてエドガーに連れられて訪れた一番近い麓の村も、残っているのは老人ばかりだった。
事情を知っている人は俺を非難した。養父の行いを責め立てた。突如自由な往来を制限された苛立ちが向かっているのは分かっている。だが、俺が一番聞きたいのだ。どうして優しかったはずの人がこんな事をしたのか。
ここに来たのは、何か手がかりがないかと思ったからだった。
家の外観は変わらない。だが、ここにも当然のように国の騎士団が捜索をしにきた。だが彼らの話では家はもぬけの殻。本の一冊も、家具の一つもない状態だったと言う。おそらく自分の痕跡を消して行ったのだろうと言っていた。
それでも来たかったのは、どこかでまだ養父を信じたかったからだろう。こんな大変な事をした事実は変えられなくても、その理由が欲しかったからだろう。
ドアノブを握り、止まってしまった。何もなくなっているんだと思うと勇気が出ない。両親の顔も覚えていないくらい小さな時に森に捨てられ、育ててもらった。そこから魔法学校に入るまでの10年間の思い出が、跡形もなく消えている。その事実を目の当たりにするのが怖かった。
不意に、俺の後ろから手が伸びて一緒にドアノブを握った。驚いて振り向けば、力強い笑みが近くにある。同室で、最初は苦手だった真逆の存在。キラキラ輝くアルフレッドが、俺に勇気を分けてくれる。
「開けるぞ」
「……あぁ」
手に力を込め、ドアノブを回した。ドアは簡単に開く。そうして目の前に広がったのは、出て行った時と何も変わらない、温かい思い出の家だった。
「な……んで?」
何もないと言われていた。でも、今目の前にある光景はついさっきまで誰かがここで生活をしていた、そんな匂いや温かみまで感じるものだ。
信じられず一歩を踏み出すと、僅かな違和感がある。それは同じ魔法士のアルフレッドも感じているようで、辺りをしきりに見回している。
「これ、大がかりな魔法がかかってるな」
「あぁ。多分、許可のない者が侵入した時には何もなくなるんだ。俺は……ここの住人だから」
そう、ここで生活していた。部屋の右手は生活の場で、暖炉があってラグがあって、揺り椅子があって。小さな頃は暖炉に火を入れて、揺り椅子に座るエドガーの膝に乗って本を読んで貰っていた。
左手側はキッチンで、木製の小さなテーブルと椅子。食器棚と、キッチン。
不意に蘇る幼い記憶は残酷だ。失ったものが多すぎる。なのにここは変わらない。俺の記憶は変わらない。
胸や喉の奥が苦しくなる。でもどうしてこうなるのかは分からない。何かを言われる事にも慣れたら心が凪いで、あまり何も感じなくなっていたから。
「なんか、素朴な家だな」
「君の家から見たら、ここは馬小屋以下だろ?」
何せこいつの家は王都の伯爵家で、宮中に影響力を持っている。以前家に招かれた事があるが、屋敷の中で迷子になった。
でもアルフレッドは目を丸くする。そして改めて辺りを見回し、ふと表情を緩めた。
「いや、大きさじゃないな。ここは温かい感じがする。ここに住んでいた人は、きっとこの家が好きだったんだろう」
「!」
ズキッと、また胸が痛くなった。それは刺されたような衝撃と、じわりと広がる震えを伴っている。
「え? うわ! レイ!」
「え?」
「お前、なんで泣いてるんだよ」
「……泣いてる?」
言われて、頬に触れたら濡れた。でも、どうして泣いているのかと問われると分からない。思い返して、痛みをまた感じた。
「……胸が痛い」
「え?」
「ここに立つと、昔を思い出して胸が苦しくて痛くなる。君がこの場所を褒めてくれているのに、刺されたみたいに辛くなるんだ。回復をかけた方がいいだろうか」
伝えたら、凄く驚かれた。目を丸くして、次にはいきなり抱き寄せられた。訳が分からない俺を抱きしめたまま、アルフレッドはポンポンと頭を撫でた。
「それは、寂しいって事だと思う」
「寂しい?」
「哀しいも、かな。この場所には、沢山いい思い出があるんだな。だから、なくなって哀しくて、苦しくて辛いんだよ」
そう、なのか?
でも、そうなのかもしれない。感情があまり育たなかったのか、名前が分からない事が多い。俺の不可解な感情を言葉にして教えてくれるのは、いつもアルフレッドだった。
手を引かれて、俺はラグの所に座らせられる。そこでまた頭をぽんぽんと撫でられ、背を撫でられるとまた涙が出てくる。けれどもう、苦しいという感覚は小さくなっていた。涙と一緒に溶け出したみたいだ。
「平気か?」
「あぁ、落ち着いた」
「まったく、焦るよな。お前本当に自分の感情が分からないんだから。側にいる俺のがパニックになるよ」
「……悪かった」
だって、孤独だったんだ。4年までは大部屋で、4人で生活していた。それでも俺は誰とも話す事がなく、学校の外に出る事がなかった。長期休暇すらも寮で過ごした。
4年の時、2人部屋に移ってアルフレッドと一緒になった。ずっと話しかけられて、面倒にも思えて頑なに拒んだ事もあった。それでもこいつは俺に話しかけてきて、俺に興味を示してくれて、寮の外でも一緒に行動する事が多くなって。
それだけじゃない、俺に嫌疑がかかった時もアルフレッドは親にまで掛け合って俺の無実を証明してくれた。そして今も、こうして何の益もない旅に同行してくれている。
「なぁ、レイ」
「どうした?」
「お前、ここでどんな生活していたんだ?」
「別に、普通だと思うが。……あ」
そうか、俺の普通はこいつの普通じゃない。孤児と貴族の子息だ。
「えっと……森に薪を拾いに行ったり、井戸に水くみに行ったり」
「薪って拾うのか?」
「あぁ。落ちている小枝を拾うんだ。大なのは斧がないと無理だから、エドガー様が……」
言ったら、また少し苦しくなる。でもそれは違和感くらいなものだ。
でもアルフレッドは俺の後ろに回って俺を抱き込むようにしてくる。背中に感じる温かさがとても頼もしく思えた。
「俺だけだし、聞かせてくれよ」
「……あぁ。えっと……料理は、エドガー様が作ってくれた。本を読んでくれて、終わると一緒に寝るんだ。寝室はあっちに一つだから」
「なに! お前、一緒に寝てたのか?」
「? あぁ」
「……許せん」
「?」
小さく呟くアルフレッドに、俺はただ首を傾げるしかなかった。
それからも、俺はここでの生活を話した。最初こそ苦しかったりした違和感は、背中の熱で消えていく。1人でも平気だと思っていた俺は今、他人の熱に安心しているみたいだった。
「なんかさ、そのエドガーって人はどうして魔王を復活させたんだろうな」
聞いていたアルフレッドが不意に、そんな事を言う。その答えが欲しいのは俺の方だ。俺が一番分からないのだ。
「分からない。優しい人だった。あの人がいなかったら俺は、死んでいたと思う」
今のように魔物が多い時代ではないけれど、それでも森には獣が住む。親の顔も覚えていないくらい小さな子供なんて簡単に死んだだろう。いや、獣に襲われなくても食べる物や、危険な場所や、急な寒さや暑さに耐えられたか。
それを、助けてくれたのはあの人なんだ。
「……でも時々、とても苦しそうな時があった」
「ん?」
「あれは……そう、哀しいだ。きっと、何かを悲しんでいたんだと思う。俺が声をかけても『何でもない』と言うけれど」
今日知った言葉に、あの時の養父は重なる。まるで息ができないみたいだった。何かを見て……そう、本だ。
思い出して、俺は本棚へと近づいた。沢山の本がある中で、覚えているのはタイトルがなかったこと。その条件に当てはまる本は沢山の大きな本の並ぶ棚の、奥のほうに押し込めるようにしてあった。
見つけて、手に取って、それが手記である事を知った。生真面目な丁寧な文字で綴られているそれは、エドガーの心の訴えだった。
「……この人、恋人を亡くしているんだ」
相変わらず俺を後ろから抱き寄せるようにしているアルフレッドが呟く。俺は必死に文字を追っていた。そして、養父がどうして魔王を復活させたのかを知った。
養父には若い時、結婚を誓った娘がいた。だがその娘はこの国の貴族の目に止まり、遊び半分に貶められ、命を落としたようなのだ。
苦悶の感情が綴られている。愛した娘の無残な骸を抱え、強い怒りを抱えて貴族の前に出たが逆に酷く打ち据えられた事。その男は娘をボロ雑巾を見るような目で見た事。そこに、罪悪感はなかったこと。
「ひでぇ……」
本当に、酷いものだ。
その後ここに移り住んだ養父はどうにかして娘を蘇らせようと研究に没頭したらしい。だがそれは不可能な事で、絶望し、疲れ果て、最後とばかりに魔王復活を目論んでいた。
俺が来たのは、そんな頃だったみたいだ。
突如転がり込んだ幼い命を、根は優しい養父は捨てられなかった。少し面倒を見て村にと思っていたのが、1年、2年と長引いていく。そしてその間、娘を失った喪失感や憎しみは消えていたようだった。
驚いた。そして、色んな事を思った。ここでの日々に助けられたのは俺ばかりではなかったのかもしれない。養父もまた、俺がいることで幸せだったのかもしれない。
だが、俺の中に魔法士としての才能を見た養父は悩み抜いて、俺を学校に入れてくれた。そしてその後はまた、悲しみと憎しみに囚われてしまったのだ。
後悔した。もしも俺がここで生活し続けていたなら、養父はこんな過ちを犯さなかったかもしれない。それを思うとまた胸が苦しくなった。
「……俺が、悪い」
思わず呟いた言葉。だがそれを否定するように、背後のアルフレッドがコツンと弱く頭を叩いた。
「お前は間違ってない」
「だが、俺がここにいれば養父は道を踏み外さなかったかもしれない。俺が、離れたから」
「そんな事、分からないじゃないか。結局この人の心の中は憎しみがあったんだ。お前で紛らわせていても、いつかはこうなったんだ」
「だが!」
「レイ!」
グッと力のこもる腕が俺を引き寄せる。離れないと言わんばかりの強さだ。細いくせに力のあるこいつがこれをすると、俺は苦しくなってしまう。
「何処にも行かせないからな」
「何の話だ?」
「俺、お前を離す気ないって言ってるの」
「? 俺は今更何処にも行く気はないが」
「それ、エドガーを前にしても言えるかよ」
「……」
それは、分からなかった。
項垂れる俺に、アルフレッドも黙り込む。だが突然、ボソリと耳に声が響いた。
「レイ、約束しよう」
「約束?」
「離れないって約束。何があっても、俺はお前を信じる。お前は俺を信じて、側にいてくれ」
そう言うと、アルフレッドは不意に自分の付けているピアスを外して、それを俺の片耳に付けた。高価なもので、守護の力がある。シャラシャラと耳元で揺れると音がする。
「レイ、早く俺の所に落ちてこいよ」
「?」
この時の俺は、こいつの必死さが分からなかった。俺はまだ自分の価値をゴミ以下と思っていたし、心地よい場所を前にしてもそこにいていいかが分からなかった。
寂しさや悲しみを知ったばかりの人間に、恋という感情はあまりに難解で複雑で、いっそ目眩がしそうだ。そんなものを、この時こいつは俺に寄せていただなんて分かるはずがなかった。
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