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地下10階のエレベーターホールに到着したスイはそこで、この世の地獄を見る思いだった。
辺りは転がったゾンビの死体だらけであちこちに血だまりができ、酷い臭いがする。この血液ですら目や口、鼻、傷口から入ればゾンビ化する。
そんな恐ろしい場所に、一人佇む人がいる。
白衣を赤く染め、周囲には無造作に転がったショットガンが数丁転がり、現在は日本刀を握りしめているその人は音に気づいて此方を振り向き、人懐っこいくたびれた笑みを見せた。
「スイ、くんなよ」
「博士……」
このエレベーターは例え階についても開閉ボタンを押さなければ開かない。そして壁は特殊な透明素材でできている。
博士は父と同期で同じ研究者。そして共同研究者であり、父の親友であり、同じくエリクサに関わった人だった。
父が研究の末にゾンビウイルスに犯されたのがスイが10代の頃。ゾンビとなった父から守ってくれた人の背に庇われてスイは今まで生きてきた。
「……あと10分もすれば俺もゾンビだ。悪いな」
泣きたくなるのは、スイにとってこの人は特別で、大切な人だからだ。いつもはぐらかされてきたが、この気持ちに嘘はないと確信がある。
この人が好きだ。
スイはエレベーターから降りた。それに、博士は目を丸くした後で困った顔で笑う。その首筋が、ドクンと人ではあり得ない盛り上がりで浮き上がった。
「お前ね、聞いてた?」
「聞きました」
「だから」
「試させてください」
伝えたら、博士は今度こそ目を丸くして、次には可笑しそうに笑った。
「俺……死ぬのか?」
「死にたいですか?」
こちらは死なせる気なんてない。まだ間に合う。
それでも時間がない。頭の血管が不自然に浮き上がり、片目が内出血を起こしたように白目が真っ赤に染まった。
「死なせません、絶対に」
「……俺はお前を殺したかないぞ」
「死にませんし、死なせません」
「えらい自信だ。だが、慢心すれば失敗するぞ」
警告じみた事を言われる。けれどスイは負けない。睨み付け、一歩近づいた。これに博士は溜息をつき、日本刀を此方へと放り投げた。
「ダメなら躊躇うなよ。俺はお前を食い殺したくないからな」
「……貴方を殺して研究を成功させたら後追います」
「やめろっての」
苦笑する博士へとスイは近づく。そしてポケットから銀のケースを取り出し、あらかじめ薬を入れておいた注射器を握った。
すぐ目の前にきて立ち止まる。もうゾンビ化は進んでいる。抱きついたスイはそのまま、彼の首の後ろ、背骨の辺りに狙いを定めた。
「好きです、阿東博士」
そのまま、彼の背骨へと注射器を振り下ろした。
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