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「侯爵様はお会いになりません」
銀髪に片眼鏡、お仕着せ姿の家令のにべもない一言に、ディアドラは淑女らしい笑みを浮かべて答えた。
「結構よ、わたくしだってお会いしたいとは思っていませんもの。可能な限り。結婚式当日まで会うことがなくても構わないし、なんだったら、結婚式そのものを欠席してくださってもいいくらいよ。わたくしひとりだけでも、きちんと生涯の愛を誓ってきて差し上げるわ。なにしろわたくしと侯爵様に必要なのは『結婚した』という事実だけなんですもの。心とか、愛情とか、肉体関係だとか、そういったもの、一切期待しておりませんの」
いささか直接的な表現混じりの啖呵であったが、家令は表情筋のひとつも動かすことなく、まるで聞こえていないかのように佇んでいた。
フリルに縁どられた若草色のボンネットから、金色の髪をのぞかせたディアドラは、視線を巡らせて高い天井を見上げる。
美神と天使の入り乱れる宗教画が頭上いっぱいに描かれていた。
視線を少し下ろしてきて、正面。絨毯が敷かれた長い長い階段。上り切った突き当りには羽の生えた妖精を模した銅像が聳え立っており、背面の壁にはタペストリーがかけられ、柱やそこかしこに蔦草のような細かな装飾が浮き彫りにされている。
どこもかしこも贅が凝らされ華麗でありながら、下品にはならない計算し尽くされたバランス。訪れた者に、その威容を見せつけるかのような玄関ホール。
そのくせ、出迎えは家令と従者一人にメイドが二人。当主の婚約者を迎え入れるというイベントが、いかに軽い扱いかがよくわかる。
(構わないわ)
この程度、予想の範囲内よ、とディアドラは皮肉っぽく笑う。
「わたくしの部屋、『女嫌い』の侯爵様とは別棟と聞いているのだけれど。ありがたいことだわ。もしかしたら、死ぬまで顔を合わせることもないかもしれないわね。そうね、噂通りの『女嫌い』か、たんにわたくしのことが嫌いなだけかは存じ上げないけど、婚約期間も、結婚後も、『女遊び』や『男遊び』なさっても、わたくし一向に気にしません。どうぞそのようにお伝えあそばせ」
すらすらと淀みなく話してから、柘榴石のごとく赤い瞳を家令の片眼鏡に向けて、命じた。
「案内して。わたくしの部屋へ。館内を出歩くなと言うのなら出歩かないわ。どうせこの足ですもの」
手袋に包まれた手が握りしめていたのは、ほっそりとした木の杖。
すらりと背筋を伸ばして踏み出すも、動きはぎこちなく、足をひきずっている。
「そのおみ足で、この階段は」
目の前の重厚長大な階段は無理だろうとばかりに言われて、ディアドラはさらに笑みを深めた。ボンネットと揃いで誂えた若草色のドレスの裾を優雅にさばいて歩み、手すりに手をかける。
一段、二段と上って、見ているだけの使用人たちを振り返った。
「見ての通りよ。わたくし、このくらいのこと、ずうっと一人でなんとかしてきましたの。平気よ。後ろに転げ落ちたりなんかしないから。先に立って、部屋へ案内してくれればそれで十分よ」
微笑んだその顔立ちは、くっきりとした目鼻立ちに形の良い唇まで、文句なくうつくしい。
口を開けば何かと棘があるものの、本来なら社交界の話題をさらって注目の的になるにふさわしい美貌であった。
王国の末の姫、ディアドラ。
今はただ、厄介者のように偏屈な侯爵の居城に迎え入れられ、互いを無視する結婚生活を開始しようとしていた。
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