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「いらっしゃい、お友達」
黒髪に黒い瞳の利発そうな少年が、シルバーのティーポットを手に目を見開いていた。口角がきゅっと上がっていて、親し気な笑みを浮かべている。
(「お友達」……?)
なんのことかしら、と不思議に思いつつ、ディアドラは一歩前に踏み出す。やわらかな赤いシューズが城の床とは違う感触を踏みしめて、驚きに目をみはった。
土くれと草。どう見ても「地面」だ。
自分のドレスの裾も目に入った。コットンのような生地の、ふんわりとしたスカート。ぐるりと首を回して腕や身頃を確認すると、子どもが着るようなシンプルなエプロンドレスだとわかった。就寝時に身に着けていた絹の寝間着ではない。
「ここは?」
「僕の庭だよ。見て、あそこの薔薇、ちょうど今日が一番綺麗なんだ」
ティーポットを古ぼけた木のテーブルに置いて、少年はディアドラを両手で手招きをする。ところどころ土に汚れたシャツとズボン。十歳にも満たない幼さに見えるが、庭師見習いといったところだろうか。
(僕の庭、と言ったわね。一人前に。薔薇を咲かせるなんて、緑の指の持ち主?)
きらきらと輝く瞳に引き寄せられるように、ディアドラは歩を進める。その瞬間、自分が杖を手にしていないことに気付いて動揺し、「きゃっ」と悲鳴を上げた。
少年が、素早く駆け寄ってきてディアドラの手を取る。
「どうしたの!? 何もないところで転びかけたの!?」
ぐいっと手を引かれて、もつれるように少年の胸に飛び込む。
子どもに見えていた少年と、自分の身長がたいして変わらないことに、そのとき初めて気づいた。
「足が悪いの。何もなくても転ぶのよ!」
間近で見つめ合ってから、ディアドラは思わず言い返す。
「どっちの足? 痛い?」
右手でディアドラの左の手首を掴んだまま、少年はディアドラの足元に目を向けた。
「右足。子どもの頃、怪我をして……」
言いながらディアドラも自分の足を見下ろす。真っ赤なシューズをきちんと履いた爪先が見えた。
「今よりもずっと小さい頃? 掴んでごめんね、君から僕に掴まってくれるかな。支えるから」
少年がそうっと手を離す。杖が無いのが不安で、その腕に手をのせながら、ディアドラは小さく呟いた。
「六歳の頃。従者の中に変な気を起こした男がいて、人気のないところに連れ込まれて……。暴れているうちに見つけ出されて、足が変な方向に曲がっていた怪我以上のことはなかったのだけど、わたくしの純潔に関してはそのときから疑いの目が……」
あまりにも素直に告げてしまってから、ディアドラは少年の目を見ないように顔を背けて、苦笑いを漏らした。
王家の力をもって、できうる限り隠蔽されたが、「人の口に戸は立てられない」。こんなの、当時自分に近しかったひとは誰でも知っている。政略の駒としてすら、使い物にならないとされた出来事。
(悪いのはわたくしなのですか。身を守り切れなかった……)
あのとき何をどうすれば良かったというのか、今でもわからない。わからないまま足を引きずり、大人になった。
「薔薇を見て欲しくて、焦ってしまって。ゆっくりなら歩けるかな」
「変な話をしてごめんなさい」
つんと鼻から目の奥まで涙の気配が抜けていき、ディアドラは何度も目を瞬いてから少年を見た。
ディアドラが顔を上げるのを待っていたように、少年は気づかわし気な瞳で見てきていた。
「変じゃない。全然変じゃない。ごめんね、僕はあまり口がうまくない。だけど、君に謝って欲しいなんて思っていない。僕はこの庭で長いこと君を待っていたんだ。薔薇を見たら美味しいお茶を淹れてあげる。ビスケットやマドレーヌ、ハチミツバターに薔薇のジャム。たくさんあるから、好きなだけ食べていって」
エスコートするかのような腕に手をのせて、導かれるままにディアドラは地面を踏みしめる。
(……あら?)
違和感。いつもの不安定さがない。試しに強く踏み込む。ぐっと。
「足大丈夫?」
少年に声をかけられ、ディアドラはちらりとその黒い瞳をのぞきこんだ。
「大丈夫、みたい。歩けるかもしれない」
「無理していない?」
「してないわ」
不思議。
自分の体に何が起きているのだろうと思いながら、少年に掴まったまま、数歩進む。歩ける。
ディアドラはぱっと顔を輝かせて少年を見つめた。
「歩けるみたい。わからないわ、どうしてかしら。でもこの奇跡、いつまで続くかもわからないし、早く行きましょう。あなたの薔薇を見せて。見てみたいわ」
注意深いまなざしで足元を見てから、少年は頷いて「わかった、こっちに」と進む。最初はゆっくり、次第に駆け足で、顔を見合わせて笑いながら。
緑の生垣に開かれた緑の門をくぐる。古代神殿を模した廃墟や洞窟、枯れた噴水が目に飛び込んできた。
空には、朝とも夕とも知れぬ光に満ちている。
まるで理想郷の風景画のような空間。
――……夢。
きっと、寝る前に見た絵の景色が目の裏に焼き付いていて、こんな夢を見ているのだ。
自由に走り回れる足で、行ってみたいと願った薔薇の咲き乱れる庭を訪れる。
ひとしきり散策してから元の場所に戻ると、少年は熱々のお茶に焼菓子を添えてもてなしてくれた。
二人で他愛のない話をいつまでもしているうちに意識が遠のいて、気が付いたら侯爵の城のベッドの上。
朝の光の中で、足はいつも通りうまく動かないままだった。
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