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「侯爵様は、まだお着きではないのです。急用でお出になられていて、姫様をお出迎えできないことをそれはそれは気にされていましたが」
初夏の澄んだ陽射しの下、石造りの城館の正面には、おそらく手すきの使用人たちが一堂に集められていてざわざわと賑わっていた。
その騒がしさを恥じるかのように気にしつつ、家令が切々と言う。
「それほど頑張って出迎えてくれなくても……」
若草色のドレスの裾をさばきながら、ディアドラは慎重に歩き出す。手には杖。
女嫌いと噂の侯爵殿と突然婚約がまとまり、どうにでもしてという気持ちのまま訪れたら、思いがけない歓迎を受けて戸惑っている真っ最中。
自分は王家の厄介者なのだ。それなのに。
ふと、遠くから雷鳴のような足音を轟かせて近づいてくる騎影が見えた。
振り返って、ボンネットの影から見ていると、その姿がすぐにくっきりと見えてくる。
乗馬向きではなさそうな裾の長いジャケットを羽織った青年が、黒髪を振り乱しながら馬を飛ばし、近づいてきていた。
前庭に走り込んできてから、駆け寄った馬丁をみとめて急停止し、ひらりと飛び降りて早足でディアドラの元まで近づいてくる。
ここまで相当飛ばしてきたのだろう、髪も服装も乱れており、額やこめかみに汗まで浮かべている。
(そこまでしなくても……)
ハンカチで拭いてさしあげたい、と思っているディアドラの前で、青年は黒い瞳に炯々とした光を浮かべ、胸に手を当てた。
「ライラ、会いたかった……。ようやく見つけた」
名前。
間違えていますけど?
一瞬悩んでから、はっきりとそれを口にした。
「ディアドラです。女嫌いと噂の侯爵様は、どこの思い人と勘違いされているのかしら。もちろん、わたくしだってこの結婚に愛情なんか求めていませんし、思い人の一人や二人いても構わないのですけれど」
ランズバーン侯爵が、その年齢まで独り身でいた理由。それはおそらく「ライラ」のせいなのだ。
あまりにも甘やかに微笑まれた瞬間、理解してしまった。
同時に、それは自分へ向けられたものではないのだと……。
つんとすましたディアドラのつれない態度など意に介した様子もなく、侯爵はさらに距離を詰めると、唐突にディアドラを抱き上げる。
「!?」
「手がかりが少なくて。最後の決め手になったのはあなたの足のことだった。あなたの兄君が酔って漏らさなければ、一生出会えなかったかもしれない」
間近で、親し気に微笑まれる。
「人違いではなくて?」
どなたかを探していたのだとしても、わたくしの名前は「ライラ」ではないですよ。
喉元まできたその言葉を、飲み込む。
侯爵が、あまりにも嬉しそうな表情をしていたから。
「まったく、その意地悪のおかげで本当に苦労した。ずっと近くにいたのに気づかないし。という恨み言はここまで。いま、良い季節ですよ。あのときあなたにお見せした薔薇がちょうど今日見頃なんです。行きましょう。お茶の準備も整っています」
「あのとき?」
確信を持って語られる内容。わかりそうでわからない。
わかりたい。
その思いから尋ねると、ディアドラを軽々と抱き直して、侯爵は低い笑い声を響かせた。
「レイですよ。この年まで独り身で、趣味は庭いじりです。毎年見事な薔薇を咲かせると評判の庭師で、侯爵は副業。お久しぶりです、ディアドラ」
なぜか初めて会った気がしないほどの、ありったけの親しみを込めて、名を呼ばれた。
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