第一話 謎多き調香師(パフューマー)(1)

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第一話 謎多き調香師(パフューマー)(1)

「私の人生、どこかで間違ったのかな……」  だらだらと続く坂道を上りながら、私は大きなため息をついた。駅から父の店までは十分ほども坂を上らなければならず、あの時、アメリカに留学していたらとか、習い事のピアノを続けていたらとか、益体もない妄想が、湧き上がっては消えていく。ただでさえ悲鳴を上げている私の足は、さらにずっしり重くなった。  ようやく商店街の入り口が見えてきて、私はふうと息を吐く。左手には児童公園があり、春になれば桜が見られるはずだが、今はまだ硬い幹と枝をさらしている。空っ風の吹く平日の朝、人影はなかった。  買い物を終えて商店街から出てくる自転車とすれ違いながら、アーケードへと足を踏み入れる。古い店と新しい店が混在するこの商店街は、ちぐはぐなパッチワークみたいだ。お茶屋さんの隣に、全国チェーンの古本屋。肉屋、八百屋、魚屋ときて、百円ショップ。買い物しやすいかどうかはともかく、私はこの混沌とした並びがわりと好きだったりする。  居酒屋と金物屋の間に、見逃してしまいそうなほど慎ましやかな、通りの入り口がある。  その先に、入り口に見合う、軽自動車でも躊躇するような幅の狭い道。そこを入った突き当たりに、父の店がある。端っこなので、その敷地の半分はアーケードの屋根からはみ出ている。後からアーケードができた時、なぜか寸足らずだったからだという説と、台風で屋根が攫われてしまったという説があったが、どちらにせよ大家ですらもう覚えていない昔のことだという。父はその立地を大層気に入って、そこに店を構えた。一階は店舗で、地下は香水作りのための工房。父の店は、香水店だった。  父の店、といったが、それは一年前までのことだ。私の父は一年前に失踪した。店には休業中の紙が貼られ、そっくり中身を残したまま、父はいなくなった。テナントが店を投げ出して失踪したら大家は激怒しそうなものだが、家主である老婦人は聖母のような慈愛で、しばらくはそのまま、父の帰りを待とうと言ってくれた。テナント料は、店の庭で収穫したハーブの一部を彼女に奉納すること。そして彼女とお茶を飲み、話し相手になること。私はそんなおままごとみたいな約束を守るため、主に週末にひとり暮らしのアパートから店を訪れ、庭の世話をしていた。  この奇妙なやりとりに変化の兆しが見えたのは、先月のことだった。  あの場所で香水店を開きたいという人物が現れた。父の店をほぼそのまま、居抜きのような形で使わせてもらえないか、という提案だった。大家の葉山(はやま)さんは思わず、なぜあんな寂れた場所で、と本音を漏らしたらしいが、彼─その奇特な人物は男性だった─はこう答えたという。尊敬する調香師と同じ場所で、店を開きたいのだ、と。尊敬する調香師とはもちろん、私の父のことだ。そして名乗りを上げた彼もまた、調香師だった。  調香師。一言でいえば、香料を調合するプロだ。香水をはじめとした化粧品、最近では柔軟剤なども話題だけれど、そういった食品以外の香料を作る専門家は特にパフューマー、調香師と呼ばれる。父はオーダーメイドの香水を作ることを主な仕事にしており、それなりに評判のパフューマーだった。そのさらに昔は世界で活躍していたらしいが、私が物心ついたころには既に、父は〝町の香水屋さん〟になっていた。  ともかく、今までに何件かあったテナントの申し出を断ってきた葉山さんが、父を知る人なら、と心を動かされたらしい。しかも同じ調香師で、香水店。彼女は私に電話で、貸し出してもいいかと尋ねた。  父の失踪後に知ったことだが、父は自分に万一のことが起きた時、店の備品や商品などの一切の所有権を私に譲ると決めていたらしい。父の書いた念書が、葉山さんの下で保管されていた。  所有権のことを知った時、薄情だけれど、面倒なものを託されてしまったと思った。機器類はメンテナンスしなければガラクタになってしまうし、商品の香水や原料だって私には必要のないものだ。父の代わりに香水店を開くつもりも、毛頭ない。  葉山さんはそんな私の心のうちも、たぶんお見通しだった。  ─―事情はお伝えしておくから、心配しないで。大丈夫、「あの部屋」は開けないようにお願いしてあるわ。  申し訳ないと思いながら、私は彼女の優しさに甘えた。そしてそれから一週間もたたないうちに話は進み、正式に契約が決まった。店は改装する予定もないから、今月の二十日に早々とオープンするらしい。  今日は二月十七日。開店はもう三日後に迫っていた。私が店を訪れたのは、店主となる人に挨拶をするためだった。せっかくだから会ってみればと葉山さんは言い、何がせっかくなのかわからないまま、私はこうしてやって来た。正直、父を知るという彼に、興味はあった。歳はやはり、父と同年配だろうか。父は芸術家肌で、少々浮世離れしたところがあったが、彼もそうなのだろうか。  店の外観は、看板も含めてどこも変わっていなかった。一見すると、カフェのような佇まいだ。かつて真っ白だった壁は古びてきたけれど、これはこれで趣があって悪くない。  顔を少し上に向けると、二階の窓が見えた。二階は住居部分で、子供の頃は両親と共にあそこで暮らしていたが、新しい店主はどんな風に部屋を使っているのだろう。あまりじろじろ見るのも気が引けて、私は木製のドアに視線を向けた。ドアには休業中と書かれた紙が貼ってあったはずだが、今は【二月二十日OPEN】という紙に代わっている。  店のショーウィンドウ越しに、そっと中を覗いた。レジカウンターの向こうに、人影が見える。今は背を向けているから顔は見えないが、思ったよりずっと若そうだ。黒髪に白髪は見えないし、身のこなしも軽快だった。  今日私がここに来ることは連絡済みなので、このままドアを開け、名乗ればいい。わかっているのに、どうにも気おくれしてしまって、私は逃げるように庭のほうに回った。店舗兼住居の隣にある庭の頭上は、青い空。アーケードの屋根が途切れ、日当たりは良好だ。二畳程度だけれど、好きな植物を自由に育てられる、私だけの秘密基地だった。  最近はハーブに凝っていて、冬の今はミントやベルガモット、レモンバームたちが、腐葉土の下で春を待っている。寒さに強いラベンダーも、冬は生育が鈍くなるので、縮こまっているように見えた。  いつもは庭を見れば心が落ち着くのだが、今日は反対にざわざわとした。原因はわかっている。一週間ほど前に起きた、大学の研究室での一件のせいだ。  その日、用事があって早めに研究室を出た私は、雨が降っているのに気づき、置き傘を取りに引き返した。そして薄く開いたドアの前で、漏れる声を聞いたのだ。  ─―真中(まなか)さんって、暗いよね。ハーブ育てるのが趣味って聞いたけど、もっとヤバいもの育ててそうじゃない?  ─―え、大麻とか? こわーい!  ─―魔女みたい!  続いて聞こえてきた、数人の笑い声。全員、同じ研究室の学生たちだった。  昔から、人付き合いが苦手な自覚はあった。普通に雑談することが、私にとってはすごく難しい。一対一ならまだ良いけれど、グループになるともうだめだ。頑張って喋ろうとして、キツいことやとんちんかんなことを言ってしまう。自己嫌悪で落ち込むことが増えてからは、必要最低限の会話しかしなくなった。良い評価は期待していなかったけれど、〝魔女〟までは想像していなかった。  その日は結局雨の中を濡れて帰り、翌日から大学に行けていない。振り込んだ学費がもったいないとか、大学に行かないのに奨学金で生活する罪悪感とか、自分に言い聞かせてみたけれど、どうにも足が向かなかった。  完全に逆恨みだが、なんだかハーブが憎らしく見えてきた。いっそ燃やしてしまったらすっきりするのでは、なんて考える。しゃがみ込んで、防寒用に敷いた腐葉土を指先でつついた。ハーブはぬくぬくと温かい布団の下で冬を越そうとしているのに、どうして人間はこんな寒い日まで出歩くのだろう。 「もう春まで冬眠したい……」 「ハーブと一緒に、ですか?」  背後から聞こえた声に驚いた私は、振り向く動作と立ち上がる動作を同時にやろうとして見事にバランスを崩した。結果、尻餅をついて声の主を見上げることになった。
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