第一話 謎多き調香師(パフューマー)(2)

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第一話 謎多き調香師(パフューマー)(2)

「すみません、驚かせてしまいましたね」  腰丈のエプロンをつけた男性が、申し訳なさそうに立っていた。先ほど後ろ姿だけ見えた彼だ。店の中にいたのに、いつの間に出てきたのだろう。助け起こされて立ち上がった私は、はっと我に返って、コートについた土を払った。 「あの、私、真中茉莉(まつり) です。前の店の店主が私の父で─―」 「ええ、真中一世(いっせい)さんの、娘さんですよね。そろそろいらっしゃるころだと思っていました」  慌てふためく私とは対照的に、彼は落ち着き払っていた。ニコリと笑って言う。 「初めまして、志野(しの)と申します。この場所を貸してくださって、ありがとうございます」 「いえ、それは大家さんが……私は何も……」  彼が葉山さんから何を聞いたかはわからないが、少なくとも私が感謝される理由はない。  しどろもどろに言葉を継ぐ私を、志野さんは微笑むことで遮った。 「ひとまず、中に入りませんか? 今日は特に寒いですから」  冬眠したくなるくらい、とぽそりと呟かれて、私は赤面する。けれど不思議と、からかわれたという不快感はなかった。言葉にならずとも、彼の目が、こんな寒い日はのんびりしたいですね、と賛成してくれたように見えたからかもしれない。  店の中は、開店準備中にしては整っていた。テーブルも棚も、私の記憶のまま。ところどころにダンボール箱や木箱が置かれていて、中に父が商品として並べていた香水やハンドクリーム、石鹸などが行儀よく敷き詰められていた。私の目線に気づいた志野さんが、恐る恐るといった顔で私を窺っているので、また私は慌てた。 「違うんです、不満があるわけではなくて。ただ、綺麗に敷き詰められているなあと感心していただけです」  志野さんは我慢の限界というように吹き出して、それからすみませんと謝った。 「安心しました。葉山さんからは大丈夫だと伺いましたが、娘さんの心の拠り所を奪ってしまうのではと心配だったもので」 「店には確かに父との思い出が詰まっていますけれど、そのままにしているのも心苦しいので。葉山さん、私にテナント料を請求しないし、ガスも水道も止めずにいたんですよ」 「なるほど、茉莉さんは現実的な方なんですね」  志野さんは納得したように頷いた。  見たところ、彼は私と年齢があまり変わらないように見えた。見た目だけなら大学生でも通りそうだが、この落ち着きは、二十代後半だろうか。父を知っていると聞いたが、父が調香師として活躍していた頃はまだ子供だったはずだ。 「現実的ついでに聞きますけれど、利益は見込めるんですか? 父はあまり……その、儲かっているようには見えなかったので」  ぶしつけな質問に、志野さんはなぜだかちょっと悪そうな顔で、にやりと目を細めた。 「実はちょっと、〝当て〟があるんです。うまくいけば、大繁盛しそうなね」  失礼にも私は、二時間サスペンスの脅迫者のようだなと思った。犯人を脅迫して、反対に殺されてしまう残念な役。殺される前に、大金が手に入ると吹聴して回るのが定番だ。  父も夢見がちなことばかり言っていたが、この人もある意味夢見がちというか、見通しが甘い人なのだろうか。 「それで、その当てというのは?」 「ああ、実はですね─―」  カラン、とドアベルが鳴って、志野さんは店の入り口に目を向けた。若い女性がドアに手をかけたまま、あの、と遠慮がちに口を開いた。 「このお店、再開されるんですか」 「店主が変わるので、再開というよりは別の店ですね。御用があったのは、前の店でしょうか」  志野さんの穏やかな問いかけに背中を押されるようにして、女性はこくりと頷き、答えた。 「このお店の香水をつけると、願いがかなうって聞いたんです。来週、婚約者の両親と会うことになっているんですが、今から緊張してしまって……。その香水を、お守りにしたいと思ったんです」  志野さんは私を振り返って尋ねた。 「真中先生が作られた香水はお出しできますが、どうしましょう。確か、あなたに所有権が譲渡されたと葉山さんからお聞きしましたが」 「ええと……」  唐突に判断を求められ、たじろいだ。でも、志野さんの言う通り、父は私に商品の所有権を託したのだ。今決断を下せるのは、私だけ。それなら、遠慮する理由はない。 「大丈夫です。どれでも、ご希望のものをお渡ししてください」  志野さんはカウンターの奥に行き、木箱を抱えて戻ってきた。中に整然と並んでいるのは、紙箱だ。そのパッケージには、私も見覚えがあった。父が一人で手作りしていた、天然香料を使った香水だ。 「ここにあるのは、前の店主だった方が作られた香水です。保存状態も良好なので、品質にも問題はないはずです」  木箱をテーブルに置いた志野さんは、香水を出してテーブルに並べていく。植物がテーマのシリーズらしく、花やフルーツの絵があしらわれていた。これで希望に沿えると私はほっとしたのだが、女性は戸惑いを顔に浮かべていた。 「探しているものは、これではなかったですか?」  心配になって訊ねると、女性は慌てて首を振った。 「ネットの口コミで見たのも、これだと思います。ただ、どう選べば良いのか全然わからなくて」  恥じ入るように俯いてしまった女性に、志野さんはテーブルの前の椅子をすすめた。 「難しく考える必要はありませんよ。基本は、自分の好きな香りを選ぶだけです。─―でも、まず探し方がわからないですよね」  女性はそうなんです、と勢い込んで答えた。
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