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 デートを早めに切り上げて、山田はワンルームの部屋に帰った。  着替えずにベッドの上に大の字になって、ただ天井を眺めている。  知らないあいだにインストールされていたこの「ありがとう深度アプリ」なるものは、いったい何なんだろう。注意書きにあったとおり、ありがとうの深度を計測しているのだろうか。  だとすると、今の世の中、本当の「ありがとう」というのは有り得るのだろうか。買い物をしても働いても人に物を贈っても、それは得られない。  心の底から感謝しているのは、人を騙すことに成功した詐欺師だけではないか。  しかし、自分のことを顧みると、そうそう強気なことも言えない。普通に生活していれば、日に何度かは「ありがとう」と発するが、そのうち本当に相手に感謝の意を伝えるための「ありがとう」は、いくつあるだろう。  形式的な、あるいは社交辞令の「ありがとう」ばかり。  眠れないまま、いつの間にか午前一時を過ぎていた。  夕食のイタリアンは美味ではあったが、量がちょっと少なかったため、かなり腹が減ってしまった。  いつもならコンビニで弁当かサンドウィッチでも買って食べるところだが、どうもその気になれない。  スマホでこの時間でも営業している近所の飲食店を検索してみると、すぐ近所にある中華料理屋が出てきた。  個人宅と店舗が一体化している典型的な町中華の店で、山田は一度も訪れたことはない。夜中の二時まで営業しているようだ。  飲食店レビューの中身を見ると、いくつか書き込みがあった。 「料理はおいしいのですが、大将が不愛想なのが残念です」などと評価されている。  べつに今さら不愛想など気にしても仕方ないだろう。  横開きのドアを開けて暖簾をくぐり店内に入ると、客は誰もいなかった。ずいぶん古い店のようで、お世辞にも綺麗とは言いがたい。  カウンター向こうの厨房から眼鏡をかけた痩せた店主が山田の姿をちらりと上目遣いで見て、「いらっしゃい」と小さく言った。  店の隅に、音量小さめに設定されたテレビが点いていて、深夜の情報番組が流れている。  山田はカウンター席に座り、ラーメンを注文した。  店主は返事もせずに黙々と調理を始めた。評判通り、不愛想な店主らしい。  まもなく出されたラーメンを、山田は音を立てながらすすった。店のなかにその音がむなしく響く。  濃いかつお出汁のしょうゆラーメンの味は、非常に良かった。  食べ終えると、会計を支払って、 「ご馳走様でした」と山田は言った。  振り返って店を出ようとすると、店主は山田の背中に向かって、 「ありがとう。また来てね」と棒読みの台詞のような調子で、ぼそっと言った。  店の表に出ると、山田はスマホを取り出した。 「ありがとう深度 レベル10MAXです 最高級の感謝が示されました」 了
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