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「あら、ごめんなさい。当たらなかったかしら」
詩織が起こしてやったカートは軽く、中にほとんど物は入っていないようだった。
街から出て十年、身体の一部にぽっかり穴を残したままの自分みたいだ。
お礼を言うおばあさんに会釈をしたところで、詩織は急に怖気付いた自分に気が付いた。
コミュニティバスに生活を助けられている高齢者はこの街にたくさんいる。私の両親もこの街で老いていくのだ。
その未来に目を瞑り、放り出してしまったことへの罪悪感に詩織は襲われた。
両親を介して付き合ってきた親戚とは地元を出てから没交渉で、詩織が事務の仕事をしている勤め先は若い人が多い。
二人暮らしの生活の中で、老人という存在を意識することはほとんどなかった。
「もう何年かして、詩織ちゃんが子どもを産んだらパパとママも安心だわ。かわいい孫と、頼れるお母さんになった娘に囲まれる日をずっと待ち遠しく思ってるの」
実家にいたころ、何度も言われ続けてきた母の夢を語る言葉が、ぬるい油のようにまとわりつく。
直接言われなくなってからも、いや、直接言われなくなったからこそなのか、いまだに夢の中で苦しめられている。
幼いころは両親の語る未来が、紛れもなく自分のものと信じて疑わなかった。
人に迷惑をかけては駄目よ、何かしてもらったらお礼を言いなさい。そんな言いつけを素直に守っていれば、「詩織ちゃんは良い子ね」と褒めてもらえた。
母は特に、些細な親切に対しても「ありがとう」と言うよう、事あるごとに詩織に言って聞かせた。
連絡帳にサインをしてもらったら、ありがとう。
体操服のゼッケンをつけてもらったら、ありがとう。
夕食が詩織の好物のオムライスだったら、ありがとう。
けれども心身の発達とともに、両親から与えられる以外の何かが、次第に詩織の身に混じり始めた。
自分が心の底から求めるものと両親の意向との不一致に悩み始めてからは、幼少期に母に褒められた幸せな記憶さえも偽りに思えてならなかった。
進学先の女子大のことも、会ったことのない婚約者のことも、母があなたのためにやってるのよと差し出してくる物事に「ありがとう」と言えなくなっていった。
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