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詩織は思考を無意識のうちに停止させた。淀んだ脳裏を洗い流すように、思案の浅瀬が波立った。
今日のところは実家に帰るのをやめて、ホテルにでも宿を取ろうかな。
ここまで新幹線と在来線、そして懐かしのムーバスを乗り継いできただけでかなり精神を消耗した。
普段は彼女に遠慮して飲まないお酒でも引っかけてみようか。こんな気分だからこそガヤガヤした活気に呑まれたい。
この街にいたころはほとんど縁のなかったハモニカ横丁に行き先を変更しよう。帰省の小手調べに、街の風景の変化を確かめながら駅前まで戻る時間も悪くなさそうだ。
「わたしと同じく大荷物ねぇ。旅行かしら。でもこの時間だから今から出発じゃなくて帰っていらしたのかしら」
存在を忘れかけていた前の座席のおばあさんが前触れもなく話しかけてきて、詩織は急速にバスの中の現実へと引き戻された。
おばあさんは愛想の悪い詩織をものともせず、顔を覗き込んでくる。
答えないわけにもいかず、詩織は上辺でなんとなく返事をした。
「はい、久しぶりの帰省で……今はとりあえずハモニカ横丁に行こうかなと思ってますけど」
「そう。あの辺りは昔、闇市だったのよねぇ」
にこやかだったおばあさんが、急に声のトーンを落とした。その変化に責任を感じた詩織は会話を繋ごうとする。
「そうか、もとは戦争の……。大変だったんでしょうね」
「いえ、わたしは戦後生まれだから。実際は何も知らないのよ。でも今思えば、みんな破れかぶれで苦しい中、育ててもらった」
おばあさんの目が皺で細くなり、思わずその目の奥に吸い寄せられそうになった。
中身のない自分を見透かされそうな気がして、詩織は慌てて目をそらした。
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