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夏は、奈津美との関係をいつから知っていたのだろうか。信也にはわからなかった。彼なりに懺悔する思いから、当然夏には知られないように最善をを尽くしてきたし、奈津美はこの関係を誰かに吹聴するような女でもない。それでも、夏は奈津美の存在に気づいてしまったに違いない。いや、奈津美という女を知っているわけではないが、僕自身の心が、他の誰かに向いていると、感じ取ったのかもしれない。
「奥様の精神状態が不安定になったのはいつ頃からですか?」
「不安定になったのは、結婚して2,3年経ったころ、彼女が23才か24才ぐらいのときです。」
「当時のことを、ゆっくりでもいいので、きちんと思い出して話をしてみてもらえますか?」
「・・・」
「彼女は、几帳面な性格で物事を計画通りに進めたがるというか、それがうまくいかないと、落ち込んでしまうようなそんなところがある女性です。」
「僕たちは結婚して幸せな家庭をつくろうと、彼女はそれが夢だったんです。」
「ただ、僕たちには、なかなか子供ができなかった。それで、落ち込むというか、焦っているようなところがあって。」
「不妊治療はされたんですか?」
「僕が忙しいことを理由に、正直、そこまでする必要もないと思って、あまり彼女の話を真剣には聞いていなかったんだと思います。」
「具体的に行動を起こしてはいない?」
「そうですね。ただ、たぶん、彼女は、産婦人科の先生には相談をしていたと思います。」
「具体的には?」
「それは、あまり覚えていません。」
「覚えていない、というか、先ほど言ったように、彼女の言葉にあまり耳を傾けていなかったんですね?」
「まあ、そうですね。今思えば、そういうことになります。」
「子供が欲しいのは、わかるけど、別に計画通りに行かないことなんて、世の中いくらでもあるし、この先、ずっと、計画・計画って言われるのもしんどいな。と僕は思っていました。」
「もちろん、仕事が忙しくて、子作りする時間に帰ってこれない。なんてこともよくありましたし、あの頃は、とにかく、大きな仕事を任されていましたから。」
「彼女にとっては、夫の出世もとても大事なことでした。」
「だから、僕は僕なりに一生懸命に仕事をして、自慢のご主人様になろうと思っていた。」
「原因はそれだけですか?」
「えっ?」
「ご主人が思い当たる原因です。子供ができない。ということ以外には何かありませんか?」
「わかりません。」
「勝手な言い分だとは思いますが、いっそ大声をあげて怒ったり、喚いたりしてくれる方がよかった。徐々に塞ぎ込んでいく彼女といるよりは。」
「女性にとって、子供ができないというのは、とてもとても精神的ダメージが大きいです。」「周りからのプレッシャーがあれば、なおさらです。」
「奥様ご自身が、気に病んでいる以外に、誰かからのプレッシャーがあったようなことは?」
「特に、それは思い当たりません。」「彼女は、まだ若いし、大丈夫って周りは思っていたと思いますが。」
「言いたくても、言えない。だから苦しいんです。ご主人の気持ちもわかりますが、声に出せない彼女の気持ちをどうにかして、理解してあげないと。」
「では、次は、なんとなく、不安定になったような気がするころから、現在までの様子を話てください。」
「もし、奥様が子供ができないことを気に病んでいたとしたら、ご主人としては、早く子供ができるように、なんらかの努力をするか、子供ができなくても大丈夫という話をするか。そういうことはありましたか?」
「もちろん、僕もそんな彼女に最初は優しく接していました。彼女が望む日に、子作りに協力する努力も。だけど、だんだん、僕の方が苦しくなってきてしまって・・・。」
「ご主人は、子供を欲しいと思っていなかったのですか?」
「えっ?」
「ご主人は、子作りに協力、という表現を使われましたよね。ご自身が望むことであれば、協力という言い方はされない。ご主人が積極的にされていれば、そうはならないと思うんです。」
「僕は、責められているんですか?僕が原因ですか?」
「いえ、決して責めているわけではありません。」
「夫婦の形はいろいろです。誰の行動が正しいとか、誰の行動が間違っているということではないのです。」
「ただ、事実を私は知りたいのです。」
「薬を出すことは簡単です。鬱を和らげる薬。ただそれでは、問題の解決にはならないのです。。ご主人が彼女に良くなって欲しいと思うなら、根本的な原因を探り、それを取り除くことです。それが、できなければ、一時的に回復しても、また、悪くなる。悪くなることを繰り返せば、回復するのは非常に難しくなります。」
新しい病院へ通うようになって、半年後、既に出世の道からも外れてしまっている。思い切って信也は夏にこう切り出した。
「夏、引っ越さないか。空気のいいところに。二人で。」
「えっ、でも、信也さん。仕事は?」
「夏、僕は夏と一緒に、これからもずっと夏と一緒に居たいんだよ。」
出世のために、結婚を選んだ僕からすれば、信じられないような思いだった。いつの間にかやせ細ってしまった夏の体を抱きしめ、僕はもう一度言った。
「夏、ずっと一緒に。仕事は引っ越し先で見つけるよ。ちゃんと見つける。大丈夫だ。夏が願ったようなかわいい子供が僕らにはまだいないけど、ほんの少しだけ遅くなっているだけだ。何歳だって関係ない。そうだろう。僕と夏との子供が生まれるのはまだ先かもしれない。もしかしたら難しいのかもしれない。でも夏、夏は僕と一緒なだけじゃあ幸せにはなれないのかな。」
「そんな・・・・」
夏の幸せの風景が頭の中をめぐる。都会の雑踏の中で、勝ち抜き、エリート人生を歩む夫の姿、その姿を誇らしく思い、かわいいわが子と夫を支える私。夏はぼろぼろと涙を流した。信也には、夏が喜んでいるのか悲しんでいるのかわからなかった。
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