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「ご主人様はこちらへおかけになって、少々お待ち下さい。」
売約済みの赤札を貼り付け、いくつかの書類をもって、奈津美は、信也の前に座った。
「ご購入ありがとうございます。」
「この個展は、残り1週間ございますので、恐れ入りますが、それまでは、こちらの会場に展示をさせていただきたいと思います。」
「ええ、もちろん構いません。」
「ありがとうございます。次に、お支払いに関してですが…」
信也は奈津美の説明的な話を、正直あまり聞いていなかった。彼女が、今なぜここにいるのか、自分と別れてからの、数年間何をしていたのか、結婚はしているのか。結局、信也は、奈津美への興味を完全に断ち切ることができない、聞きたいことがたくさんあって、その時を待つ。
「よろしいですか?」
その言葉に、我に返り、ただ頷く信也。
「奈津美。」
「大変失礼しました。名刺をお渡ししていませんでしたわ。」
そう言われ、差し出された名刺には、水嶋奈津美と書かれていた。結婚はしていないのか。アートセレクション代表。
「アートセレクション。水嶋さんは、いつから、このようなお仕事を?」
信也は、あえて口調を変え、できるだけビジネスライクに話ができるようにした。
「そうてすね。約3年くらいになるかと思います。」
「いろいろなアーティストの方の作品の取引をされているんですか?」
「いいえ。今は、この松西恵斗さんの作品が少しでも世に出ればいいという気持ちです。」
この画家と特別な関係なのだろうと、信也は直感的に思った。
「彼の作品に惚れ込んだということですか。」
あえて、作品という部分を強調して言葉を発する。
「ええ、まあ、そういうことですね。」
「素敵な作品だ。」
「ありがとうございます。」
「ビジネスとしては?」
「えっ?」
「彼は、画家であり、イラストレーターというわけではないのですか?クライアントの要望に合わせて描くということはしない?」
「そうですね。おそらくそれは難しいと思います。」
「描きたいものを自由に描く?」
「そう。そうじゃないと、やはりいい作品は生まれないと思います。」
「でも、それでは生活が大変じゃないかと思いますが。大丈夫なんですか。」
かつて、デザイナーとして第一線で仕事をしていた奈津美を知っている信也からすると、ただ彼のサポートをするような今の仕事で満足できるとは到底思えなかった。
「まあ、そうですね。でも、画家にとっては、大した苦労ではないと思いますよ。生活はたぶん二の次じゃないですか。」
「私は、あなたのことを心配しているんです。」
奈津美はその言葉には反応を示さず、
「お子様、かわいいですね。今何ヶ月ですか?」
と、そう問いかけた。少しの間のあと、
「7ヶ月です。」
「女の娘? 」
「ええ。」
これ以上の会話は不要といわんばかりに、奈津美は続ける。
「では、これでお手続きについては終了しました。お支払いは今日になさいますか?それとも、後日引き渡しの際にされますか?」
「今日、カードで払いましょう。」
「かしこまりました。それでは、カードをお預かりさせていただいてよろしいでしょうか。」
そういうと、信也からカードを受け取り、奥へ奈津美は入っていった。
表の様子をいつの間にか、恵斗は見ていたらしい。
「絵売れたの? 」
「ええ。セットで購入いただけたわ。」
「奈津美、ありがとう。」
「どうしたの?」
「いや、なんでも。」
そういうと同時に、恵斗は奈津美を抱き寄せ、キスをした。
「ちょっと、お客様を待たせてるのよ。」
もう一度、ぎゅっと力を入れて抱きしめると、いたずらっこのような表情を浮かべ、ぺこっと頭を下げる。
なんだか、少し可笑しくなって、奈津美は微笑みながら、
「もう少し待っててね。」
というと、再び信也のところへ戻った。
恵斗は、(間違いない。この前、ここへ来た男。奈津美さんの元カレに違いない男だ。)画面に映る信也のことをじっと見ていた。
「ありがとうございました。」
深々と頭を下げ、奈津美は、信也を送り出した。信也は夏のところへ戻り、もう一度、奈津美の方を振り返ると、ぎこちない笑顔と共に、軽く会釈をした。
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