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数日後、遅い時間に家に帰ると、そっとリビングを抜けて寝室へと行った。
子どもと奈央のいる和室は暗くなっていて、もう寝ているのだなと思ったからだ。
今夜は遅くなるから、夕飯はいらない、と奈央に連絡してあった。
風呂を追い炊きして入り、洗面台の前に立っていると、廊下に電気が点いた。
「お帰りなさい」
パジャマ姿の奈央が、トイレに起きたらしかった。
うん、と頷いて「起こしてごめんな」と言った。
彼女はううん、と首を振って、廊下を歩いていった。
髪を乾かしていると、奈央が入ってきた。
ドライヤーを戻したとき、彼女の手が、背中から胸の辺りに伸びて巻き付いてきた。
「今夜なら、できるかもしれない」
そう言って、背中へ顔をくっつけてくる。
あぁ、そういうことか、と悟って、一瞬、鏡の中の自分を見つめた。
この数日、仕事をしながら、自分の心をどこかに置いてきたような気がしていた。
…そうだ、もう美月はいないのだ。
彼女がどこかで生きていても、もう会える機会はないように思えた。
俺は奈央の夫として、ここで生きていかなければならない。
美月のことは、心の中の箱に入れて、大事に取っておこう、と思った。
彼女のブレスレットは、まだ仕事用バッグのポケットに入っている。そこにポケットがあることすら、気づかないようなところに。
あの日、マンションに帰ってきたとき、元のポケットに戻しておいた。
それと同じように、彼女への思いも、どこかに一度、しまっておこう、と。
奈央の腕を取って、自分の身体を反転させると、背伸びをしてキスをせがんできた。
顔を傾けて、その唇を塞ぐ。
ああ、そうだった、奈央の唇は、こんなふうだった、と思い出す。
「分かった。あっちで」
まるで何もなかったかのように、夫の顔になって、彼女と一緒に寝室へと入っていった。
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