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ごめんね、と言う。
「10年以上経ってるから、時効だな」
病院で俺を久しぶりに見たとき、少しだけ、自分の枠からも世間の枠からも外れよう、と思った。
治療が本格的に始まる前に再会できたことは、それが許される、ということだと勝手に考えた。
家庭のある人を誘うということもそうだし、多分、急に消えるしかないから、結果として俺の中に傷を残すことも分かっていた。
ただ、亡くなった父親と同じところに癌が見つかって、開腹してみないと、臓器の裏側でどのくらい広がっているか分からない、と言われていた。
万が一、ということもあるし、元の生活に戻れない可能性もある、と思った。
だから、どうしてもやりたかった、と。
「だから、光星がここに来てくれたとき、本当に幸せだったよ」
もし治療が上手くいかなくても、ずっとその思い出に浸っていられる、そう思えた、と彼女は言った。
「…どうしてだろうな。俺はあの頃も、時間が経った今でも、一度も美月に悪い印象を持ったことがないよ」
治療が一段落しているせいか、少し肉も付いて、あの頃のガリガリの印象がない。それだけで嬉しくなる。
「美月がああいう行動をとったのは、きっとなにか理由があったんだろうな、と思ったし、相手が俺だったということは、今でも俺は美月の特別なんだ、と思えたし」
そう言って彼女を見ると、彼女も頷いた。
「その特別は、今は、彼女とか恋人とかじゃなくて、多分、人生の中で繋がっていたい大切な人のひとり、という枠なんだろうな」
「うん、分かるよ。私も、光星が元気でいてくれるならそれでいい、と思ってた。あの時もらった手紙のように」
「もちろん、会えるならまた会いに来たい。でも会えなくても、心の中ではお互いにお互いのことを大事に思ってる。それこそが、人を愛するってことなんだろうな」
テーブルの上に置かれていた彼女の手を取って、自分の手に重ねる。
手の中に、彼女の温もりを感じることができる、それがとても感慨深かった。それだけで満足だった。
窓の外を見ると、もう夕暮れ時になっていた。
遅くなっても、今日中に帰らなければいけない。
彼女はこれから先もずっと、ここにいるのだ。
でももう、この町に来る理由のない俺は、この先、彼女に会えるかどうか分からなかった。
けど、次の約束はしない、と彼女と話していた。
「一度だけ、抱きしめてもいい?」
玄関ドアの前でそう聞くと、彼女は頷いた。
彼女の背中と頭の後ろに手を伸ばし、そっと自分の方に抱き寄せた。彼女も俺の背中に腕を回して、お互いにぎゅっと抱きしめあった。
目を閉じて、彼女の身体の大きさを、温もりを、その息づかいを、ほのかに香る肌の匂いを、彼女の全てを、自分の記憶に刻み込む。
しばらくそうしてから、身体を離し、目を見て言った。
「じゃあ、行くね」
玄関を出て、路地の入り口に停めた車へと向かう。
乗り込む前に振り返ると、緑のドアの前で、小さな犬を抱いた彼女が見送ってくれていた。
洋館の佇まいと、その前に立つ彼女の姿を心の中に焼き付けながら、軽く手を振って、車に乗り込む。エンジンを掛けると、ハンドルを握る。
車を出すと、サイドミラーの中で、彼女の姿が小さくなっていく。
窓を開けて、後ろ手でもう一度、手を振った。
高速道路の入り口ゲートをくぐると、正面に三日月が上がっているのが見えた。
道路はぐるっとカーブして、三日月は見えなくなった。
でも、見えてなくても、月はちゃんとそこにある。
彼女は、これからもあの家にいて、あの保護犬とのんびり毎日を楽しんでいる。
俺は俺で、これから帰る、自分の環境の中で生きていく。ときどき美月のことを思い出しながら。
そうやってお互いを思いながら、この先を生きていこうと決めたから。
【end】
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