夜中の3時に目が覚める。朝の3時に目を覚ます。

1/2
前へ
/2ページ
次へ
 また始まったみたいだ。  隣のお姉さんが、目を覚ましてしまったらしい。 「はあ……」  ため息を吐き、布団から起き上がる。  時刻は夜の3時。寝苦しい熱帯夜。  貧乏大学生の俺は、電気代節約のため、エアコンも付けずにパンツ一丁で眠っていた。  小さなベランダ付きのワンルームアパート。  薄っぺらな壁。  隣の部屋の生活音は丸聞こえだ。 「……昼まで寝るつもりだったんだけどなあ」  汗でべたついた頭をガシガシと掻き、床に散らばっているTシャツとスウェットのズボンを拾い上げる。  隣の部屋から、歩き回る足音が聞こえてくる。  焦っているような足運び。  時折しゃくり上げる声が聞こえてくる。  今日も泣いているのだろう。  面倒臭い。  でも、放っておけない。  わざとそんな思考回路を頭に思い浮かべる。  そしてわざと深くため息を吐く。    この気だるげな感情表現は、誰に向けたわけでもない幼稚な照れ隠しであることは、自分でも分かっている。  でも、やめられない。  俺は荒々しい仕草で服を身にまとい、少しだけその場に佇んでから、ベランダの扉を開けた。  その瞬間、煙草の臭いが鼻をかすめる。  いや、程度はかすめるどころではない。 「……こんばんは」  ベランダの柵に腕を置いた俺は、控えめな声でそう声を掛けた。 「こんばんは」  隣の部屋のベランダには、髪の長いお姉さんの姿。  俺と同じように、ベランダの柵に寄り掛かっており、煙草を吸っている。  その薄い形のいい唇から、煙を吐き出しながら、力なく微笑んでいる。  月明かりが、お姉さんの頬に残る涙の線を照らし、綺麗に輝かせる。 「満月ですね」  何となしに、そんなことを言ってみた。  お姉さんはゆっくりとした動作で空を見上げる。 「本当に、満月なのかしら」  うつろな目で、そのまま月を見上げ続ける。  煙が変なところに入ってしまったのか、軽く咳き込んでしまうお姉さん。  疲れ切った顔のお姉さん。  職業はOL。    彼女は週に何度か夜中に目を覚まし、どうしようもない心の傷と戦い出す。  仕事に行き詰っているわけではないらしい。  少し苦労はしているようだけど。  お姉さんが夜も眠れないほどに脆くなってしまったのは、全部過去の出来事が原因だ。   暴力的な父親に、怯えながら過ごす小学時代。  両親の離婚が成立し、母親と共に幸せに暮らせると思いきや、精神的に参ってしまった母親は働けない状態になり、酒と精神安定剤を交互に飲む毎日。  勉学に、バイトに、母親のケア。  自分がしっかりしなければと言う強迫観念。  外面だけまともな不安定人間の出来上がりだ。  それは母親の元を離れ、一人暮らしをしても続いているようだ。  むしろ、一人暮らしがまずかったのかもしれないと、お姉さんは前に語っていた。  母親の恨み言が聞こえるらしい。  別に、母親が死んだわけではない。  今は、仕事ができるまでに回復もしているらしい。  実際、母親から恨まれているようには思えない。  たまにこのアパートにもやってきて、楽しそうな団らんが聞こえてくる。  俺は医者でもカウンセラーでもないが、お姉さんは自分を責め続けているのだと思う。  一人暮らしを始めた自分を薄情者だと思っているのだ。  いくら心配が要らなくなったとしても、逃げるように家を出た自分を恥じている。  自分だけ自由になろうとしたことが、後ろめたいのだ。 「明日も……ていうか今日も、仕事ですよね?」 「うん。そうよ」  睡眠不足で倒れたりしないしないだろうか。  そんな心配を口に出したら、きっとお姉さんは申し訳なさそうに謝ってくるだろう。  俺が睡眠時間を削ってまで、このベランダに出てきたのは、”ごめんね”なんていう謝罪の言葉を聞くためじゃない。  この弱り切った、脆く儚いお姉さんから、壊れそうな笑顔で、”ありがとう”と言われたいがために、このくそ暑い真夜中にベランダに立ち、憂いを帯びた瞳を横目で見つめるている。  その瞳を、一瞬でもこちらに向けてくれたら、もしかしたら俺の気持ちが伝わるのかもしれないのに。 「今日は、ホテルの扉を開けたら、トンネルにいたのよ」  煙草の煙を吐き出しながら、お姉さんは語り出した。  視線は未だ交わらないまま。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加