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また始まったみたいだ。
隣のお姉さんが、目を覚ましてしまったらしい。
「はあ……」
ため息を吐き、布団から起き上がる。
時刻は夜の3時。寝苦しい熱帯夜。
貧乏大学生の俺は、電気代節約のため、エアコンも付けずにパンツ一丁で眠っていた。
小さなベランダ付きのワンルームアパート。
薄っぺらな壁。
隣の部屋の生活音は丸聞こえだ。
「……昼まで寝るつもりだったんだけどなあ」
汗でべたついた頭をガシガシと掻き、床に散らばっているTシャツとスウェットのズボンを拾い上げる。
隣の部屋から、歩き回る足音が聞こえてくる。
焦っているような足運び。
時折しゃくり上げる声が聞こえてくる。
今日も泣いているのだろう。
面倒臭い。
でも、放っておけない。
わざとそんな思考回路を頭に思い浮かべる。
そしてわざと深くため息を吐く。
この気だるげな感情表現は、誰に向けたわけでもない幼稚な照れ隠しであることは、自分でも分かっている。
でも、やめられない。
俺は荒々しい仕草で服を身にまとい、少しだけその場に佇んでから、ベランダの扉を開けた。
その瞬間、煙草の臭いが鼻をかすめる。
いや、程度はかすめるどころではない。
「……こんばんは」
ベランダの柵に腕を置いた俺は、控えめな声でそう声を掛けた。
「こんばんは」
隣の部屋のベランダには、髪の長いお姉さんの姿。
俺と同じように、ベランダの柵に寄り掛かっており、煙草を吸っている。
その薄い形のいい唇から、煙を吐き出しながら、力なく微笑んでいる。
月明かりが、お姉さんの頬に残る涙の線を照らし、綺麗に輝かせる。
「満月ですね」
何となしに、そんなことを言ってみた。
お姉さんはゆっくりとした動作で空を見上げる。
「本当に、満月なのかしら」
うつろな目で、そのまま月を見上げ続ける。
煙が変なところに入ってしまったのか、軽く咳き込んでしまうお姉さん。
疲れ切った顔のお姉さん。
職業はOL。
彼女は週に何度か夜中に目を覚まし、どうしようもない心の傷と戦い出す。
仕事に行き詰っているわけではないらしい。
少し苦労はしているようだけど。
お姉さんが夜も眠れないほどに脆くなってしまったのは、全部過去の出来事が原因だ。
暴力的な父親に、怯えながら過ごす小学時代。
両親の離婚が成立し、母親と共に幸せに暮らせると思いきや、精神的に参ってしまった母親は働けない状態になり、酒と精神安定剤を交互に飲む毎日。
勉学に、バイトに、母親のケア。
自分がしっかりしなければと言う強迫観念。
外面だけまともな不安定人間の出来上がりだ。
それは母親の元を離れ、一人暮らしをしても続いているようだ。
むしろ、一人暮らしがまずかったのかもしれないと、お姉さんは前に語っていた。
母親の恨み言が聞こえるらしい。
別に、母親が死んだわけではない。
今は、仕事ができるまでに回復もしているらしい。
実際、母親から恨まれているようには思えない。
たまにこのアパートにもやってきて、楽しそうな団らんが聞こえてくる。
俺は医者でもカウンセラーでもないが、お姉さんは自分を責め続けているのだと思う。
一人暮らしを始めた自分を薄情者だと思っているのだ。
いくら心配が要らなくなったとしても、逃げるように家を出た自分を恥じている。
自分だけ自由になろうとしたことが、後ろめたいのだ。
「明日も……ていうか今日も、仕事ですよね?」
「うん。そうよ」
睡眠不足で倒れたりしないしないだろうか。
そんな心配を口に出したら、きっとお姉さんは申し訳なさそうに謝ってくるだろう。
俺が睡眠時間を削ってまで、このベランダに出てきたのは、”ごめんね”なんていう謝罪の言葉を聞くためじゃない。
この弱り切った、脆く儚いお姉さんから、壊れそうな笑顔で、”ありがとう”と言われたいがために、このくそ暑い真夜中にベランダに立ち、憂いを帯びた瞳を横目で見つめるている。
その瞳を、一瞬でもこちらに向けてくれたら、もしかしたら俺の気持ちが伝わるのかもしれないのに。
「今日は、ホテルの扉を開けたら、トンネルにいたのよ」
煙草の煙を吐き出しながら、お姉さんは語り出した。
視線は未だ交わらないまま。
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