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「ねえ、覚えてる?」
ジャングルジムに手を掛けながら、お兄ちゃんを振り返る。街灯がぼんやりと照らし出したお兄ちゃんは、少し驚いたような顔をしていた。
幼い頃の私は泣き虫だった。たとえば、水色のクレヨンがなかった時。たとえば、追いかけっこをしている途中で靴が脱げた時。たとえば、歌に沿って"きらきらひかる"と男の子に揶揄われた時。たとえば、たとえば……と、なんでそんなことでと思うような些細な出来事で私はいつも大粒の涙を零していた。そして、そんな私の逃げ場所は自宅から一番近い公園の、ジャングルジムのてっぺんだった。
ある日の夕方、いつものようにジャングルジムで泣きべそをかいている私をお兄ちゃんが探しにきてくれた。「いや。ぜったい、おりない」と涙声で言い張った私を、お兄ちゃんはジャングルジムに手を掛け足を掛け、頂上まで登って迎えに来てくれた。呆気に取られている私に「久しぶりに登ったけど良い眺めだな。確かに降りるの勿体ないよな」と笑いかけてくれたお兄ちゃんは当時高校生だった。それから二人で、夕日が町の中に沈んでいくのを並んで見ていた。だんだんと赤く染まっていく空の下で「ひかる。安心しろ。兄ちゃんがいるからな」と約束してくれたお兄ちゃんは、ずっと私のヒーローだった。それから一年もしないうちにお兄ちゃんは東京の大学に進学して、そのままそこで就職して、なかなか帰って来なかったけど、あの時の約束が、言葉が、ずっと私の支えになっていた。
「ひかる、危ないから」
「大丈夫だよ」
目の前のジャングルジムに手を掛ける。あの時のお兄ちゃんと同じ年になった私は、ジャングルジムに登ることなんかなくなってしまったけど、今、無性に登りたくなった。頂上に辿り着けば、あの頃に還れるのではないか、なんて。
「キャッ!」
「ほら、だから言ったろ」
なんだ全然余裕じゃん、と気が緩んだのが良くなかったのか、玄関に出しっぱなしの便所サンダルを引っ掛けてきただけだったのが良くなかったのか、何度目かのパイプに乗せた足が滑った。すぐ下で見ていたお兄ちゃんに抱き留められる。微かにする煙草の匂いを感じながら、あの頃のお兄ちゃんみたいに上手に登れなかったなと苦笑する。見上げたお兄ちゃんは本気で心配そうな目をしていた。湿布が貼られた左頬が腫れ上がっているのが分かる。
「お兄ちゃん、私、」
何か言わなくては。そう思うのに、気の利いた言葉なんか何も出てこない。何を言っても引き留めることなんかできない。引き留めたいのかもよく分からない。だけど、今、この瞬間を逃してしまったらきっと、もうお兄ちゃんに会うことはできない。
ーーお兄ちゃんは、二度とこの町に帰っては来ない。同性の恋人と生きていくために。
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