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あいにくの雨模様だった。
捏ね飽きた粘土を貼り付けたような曇天はどこまでも続いているようで、私は僅かに安堵した。そしてすぐに虚しくなった。
「花井さん……ええっと」
先生が視界に映らないように、遠くの空を見上げる。ジェット機よりも早い視線は空の端までたどり着いた。
空はどこまでいっても灰色で見所なんてどこにもない。
「その……さっき言った好きっていうのは……」
そう言って先生は黙った。疑問を投げかけるわけでも自分の想いを口に出すでもない。ただ口を動かして、何も喋らない自分にならなかっただけ。
私は何も答えなかった。私は既に言うべきことを吐き出したから。
塾校舎裏の駐輪場。私達の他には誰もいない。私は卒業。もう塾には通わない。もう講師と教え子の関係じゃない。もう先生には会う機会がない。
そしてさっき、私は言った。言いたいことを二文字にまとめて、先生に「好き」と。
先生は当然気づいている。この二文字に特別な意味が込められている事を。冗談ではなく、単なる親愛でもなく、もっともっと特別な意味での二文字だと。
先生は絶対気づいている。だって頭がいいんだから。
「えっ、と……」
曇天みたいな先生の態度はいつまでも続く。でもしょうがない、私はそんな態度を含めて先生に惚れたんだから。はっきりしない先生の言振りは今に始まったことじゃない。
去年、私が親とうまくいっていない事をつい溢してしまったとき、先生は「えっと……」とか「そうだね……」を繰り返してばっかりだった。
でも、そんな先生にガッカリしたかといえばそうでもない。だって期待してなかったから。
海外で働きたいという私の夢を応援して欲しかったわけではないし、日本での就職を望んでいる親を説得して欲しかったわけでもない。私はただ身近な大人に話をしたかっただけ、期待なんてするわけない。こんなもんだよなと思っていた。
次の日、先生が家庭訪問と称して家に来た。急だったので連絡を受けた親が驚いていたのを覚えている。「当日に、しかも塾で家庭訪問なんてあると思わないじゃない」と笑っていたような気もする。
先生は私の授業態度やテスト結果をつらつらと説明した後、束になった資料を私とお母さんに手渡した。
左上でホチキス留めされていた資料には、海外で生きることのメリットやデメリット、実際の求人などが纏められていた。
たいして資料を作ったことのない私でもわかるくらい、この資料は出来が悪かった。
情報が詰め込まれていて無駄が多く見にくいくせに、何が言いたいかもよくわからない。最後の方には円高の仕組みについての説明なんかも入っていて、私とお母さんは思わず笑ってしまった。
先生は最後に真剣な顔をしてこう言った。
「ただの塾講師が出過ぎた真似をしてしまい申し訳ございません。当然、僕は何の権利も有してません。娘さんの将来は、娘さんがご家族と話し合ってで決めるべきだと思っています。思っていますが、これだけは言わせてください。
僕は何事においてもまずは知る事が重要だと思っています。
海外で働くというのは、想像に難くない厳しい現実や危険な出来事もあるでしょうし思いもよらない素晴らしい体験をすることもあるでしょう。お母さん、結論を下すのは知り尽くしてからでも遅くはないはずです。どうか娘さんの意向に対してご一考いただけますか」
出来の悪い資料や曖昧な態度を過去にするくらい、その眼差しは真剣だった。先生の眼差しと、ついでに目の下の大きなクマを私は生涯忘れない自信がある。
結局この一件があったおかげでお母さんは私の話をきちんと聞いてくれるようになった。
先生のどこに惚れたかというと、正直よくわからない。
頭の悪い私に根気よく勉強を教えてくれた優しいところかもしれないし、あの家庭訪問で見せた真剣な眼差しかもしれないし、「まずは大学で留学することにしました」と報告した時の笑顔かもしれない。
どれかはわからないし、どれでもいい。
物腰が柔らかくて、態度がはっきりせず、あまり気を使ってない身だしなみの、とびきり頭が良くて、どんな生徒にも優しい、そんな先生が……
「花井さん」
先生の優しい声が耳に届く。叫び出したいくらい優しい声。
私は何も答えない。あと一回でも口を開けるとそのまま声を上げて泣いてしまいそうだから。
「花井さん」
先生はもう一度名前を呼んで私と目を合わせた。先生越しに見る曇り空に雲の切れ間ができていた。
あぁ、終わる。曇天が終わる。はっきりしない色が終わる。有耶無耶でぐるぐるで妙に心地いい時間がもうすぐ終わる。
雲の切れ間から光が差し込む、キラキラと。
先生が薬指につけている指輪と同じくらい眩しくて直視できない。
風が吹いた。雲がどんどん流れていく。
「まずは……ありがとう。想いをきかせてくれて」
ありがとうの仮面を被ったごめんなさいが私の恋を終わらせた。
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