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抱擁
(1)
その言葉を理解したくなかった。
ずっと、その言葉を聞きたかった。
朝未からそう言われ、そうしたかった。
何もかも偽って傷付いている
その身体を強く抱きしめて守りたかった。
でも、今じゃない。
今の朝未に触れたら、
壊れてしまいそうだから。
朝未の身体が。
僕の心が。
そして、朝未という存在が。
だって、触れたら守らなきゃいけない。
その命令を。
聞きたくない。守りたくない。
でも最後に、強く抱きしめたかった。
「ねえ、抱きしめてよ」
震えながら起き上がる身体が、
淀んでいるその眼差しが、
朝未が流すその涙が、何よりも痛かった。
「……ダメだよ、できない」
少し悲しげな顔をする朝未が、
溢れる涙で見えなくなっていく。
僕の背中を伝って首元へと伸びる温もりが、
朝未のいるベットへと体を引きつけた。
もう殆ど力も入らない筈の身体で、
強く引きつけられ、抱きしめられた。
冷たい。
泥のように、冷たく、そして脆い。
でも、その心は、朝未のままだった。
僕はその身体を、
抱きしめることが出来なかった。
抱きしめれば壊れてしまいそうで、
抱きしめれば消えてしまいそうで、
抱きしめれば、
忘れられなくなってしまいそうだから。
でも、そう思っても
少しずつ伸びていく腕が、
その脆く、そして温かいその身体を
強く抱き寄せた。
耳元で漏れた朝未の息が、首元にかかる。
頭を撫でて、髪が揺れる。
シャンプーの匂いか、朝未の匂いか、
花のような、そんな香りがした。
呼吸器が外れ、ワイヤーの擦れる音がする。
首元から流れていく口元が
自然と重なって、
その温もりを感じ合っていた。
離れていくその先で、目線が合う。
涙で濡れる視界にも、
その笑顔がはっきりと映っていた。
「性白紙説」
「………?」
「生まれた時白かった私は今、
何色に染まれているのかな」
「何色に染まっていたいと思うの」
「安心と満足に染まっていたい」
「どういうーーー」
「ーーー触れたから、命令
ちゃんと生きて、
そして、私以外の人と幸せになって」
朝未は言葉を遮ってそう言うと、
すり切れたように意識を空へと手放していった。
(2)
月の光に照らされている朝未は、
先ほどまでの温もりが嘘のように、
冷たくなっていた。
耳に鳴り響く機械の音が鬱陶しかった。
目の前に慌てて入ってくる看護師や
医者を眺めていることしかできなくて、
僕の世界から簡単にも、朝未は姿を消した。
そしてそれから数ヶ月がした頃、
学校にはいつもいた筈の
二人の人物が姿を消していた。
工藤朝未と、白井蕾実。
白井蕾実は、自室の天井から
ロープで吊られていたらしい。
自殺だった。
たかが失恋。
そんなことを言う気持ちは
僕には微塵もなかった。
その気持ちが、痛いほど分かるから。
今にも、
ナイフで自分の心臓を突き刺せば、
ロープで首を締め切れば、
どこかの世界で
また朝未に会えるかもしれない。
でも、でも、
あの言葉が、忘れられなかった。
『ちゃんと生きて、
そして、私以外の人と幸せになって』
その言葉を、半分守って、半分破る事にした。
ちゃんと生きて、
そしてその先で、朝未と再会しよう。
それ以外の幸せを、僕は知らない。
見つける事も、出来やしない。
だからその時まで、
君に触れられない気持ちを
胸にしまい込んで、世界を歩いていく。
そうして、君にまた逢えた時。
いくらでも、命令を聞きたいと思う。
学校からの通学路を、独りで歩いていた。
路肩にある花壇から
顔を出す花々に、薄く微笑む。
昔思い出せなかった
その言葉を、考えていた。
『青いアザミ』
花言葉は、「安心」、「満足」。
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