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傲慢
(1)
聞こえていた声が嘘のように、
世界から音が消えた。
予想とは違う答えでも、
その動揺は止まらなかった。
信号無視の車が事故を起こした。
「ただそれだけの事」なんていう風に
いままでは思ってた。
「またか」という風に、
常識である筈の当たり前が
守られていない光景に、違和感を覚えない。
もうそれこそが、
当たり前であるという風にも、感じ取れる。
そう、思っていた。
違う、違うんだ。
「それだけ」なんかじゃない。
誰かの大切な人が、
亡くなっているかもしれないんだ。
誰かの大切な人が、
大怪我をしているかもしれないんだ。
電話から伝わる声はもう聞こえない、
通話時間の数字が上がっていくばかりで、
一向に聞こえない。
自分の鼓動と
荒れる呼吸だけが脳を揺らして、
その事実を確かめさせていた。
(2)
もうずっと長い事、夢を見ている気がする。
変わらない日常がそこにはあって、
変わらない人たちがそこにいる。
何もかも全て同じで、変わらない筈なのに。
でも何故か、ここは夢の世界で、
本当の自分はどこか別の場所に、
それこそ文字通り、
眠っているんじゃないかと思う。
彼の笑顔も、彼の優しい声も、
父親の怒鳴り声も、私の泣き声も。
全て偽物なんじゃないかと、そう思う。
傷付いた心も、涙で腫れる瞼も、
叫んで嗄れた喉も、血で滲む唇も。
全部偽物だ。こんな世界に私はいない。
声が聞こえる。光が見える。
偽物たちの手を振りきって、私は走った。
何分か、何時間か、何日か、何年か。
もう分からない。覚えていない。
走って、走って、走り続けていた。
着ていた少しお洒落な洋服は見る影もなく、
廃れた街の鏡に映る私の顔に
可愛さなんてものは残っていなかった。
汗で乾き、血で滲み、触れれば泥のように
溶けて壊れてしまいそうだった。
「いやっ、ィヤだッ…」
嗄れた喉を押し殺し、叫んだ。
光の元へと、その先へと、
現実へと、行きたい。
鏡に映る私は
泥や砂のように溶け始め、崩れていく。
もう、声も出ない。
身体が消え、沈んでいく先で、
腕とも言えないそれを
必死に伸ばし心の中で叫んだ。
「彼にっ、青人に逢いたいっっ!」
瞬間。
目を撃つような光に目を閉じたその先で、
温かい、優しいその声が聞こえた。
「僕も、逢いたかったよ、朝未」
次第に広がっていく視界が、
薄らとその笑顔を映し出していった。
壊れてしまいそうで、
でも何故か、強かな、優しい笑顔だった。
(3)
朝未が病院に運ばれてから二週間。
医者にも峠だと言われていたその頃に、
朝未は目を覚ました。
やっぱり、性格が悪い。
もっとすぐに目を覚ませば良いのに、
最後の最後まで、覚まそうとしなかった。
担当していた医者は奇跡だと言っていた。
検査していたデータからは、
身体が「泥」のようになっているという。
実際に筋肉が泥に変わっているとか、
そういうことではなく、
触れれば解けてしまいそう、というか、
医者自身もうまく説明ができていなかった。
医学的には、物理的には、
どうやっても意識を戻すことはない。
もし戻すことがあれば、
神のような超越したものの存在を
認めるしかない、と。
でも。そんな過程はどうでも良い。
目を覚まして、笑ってくれているなら。
そう、それだけで良いはずだった。
それを告げるノックの音が、病室に響いた。
「失礼します」
入ってきたのは、院長の名札を付けた男。
「工藤朝未さんの容体について、
話しておかなければならない事があります」
男は真面目そうな顔つきで
僕たち"4人"を見渡す。
そう、この部屋には、
会いたくもない人間が二人もいた。
僕の父親であるところの人間と、
朝未の父親である人間だ。
正直、事故を起こしたからといって
朝未の父親が来るのは予想外だった。
でも、よく考えてみれば、それがわかった。
金の為だ。
朝未が亡くなるようなことになれば、
工藤と松草との間の接点が減る。
そうすれば、金の周りが悪くなる。
だから、金の為に、確認をしにきた。
そういう人間なんだ、こいつらは。
「単刀直入にお話ししますと、
朝未さんはもう長くありません。
これは目覚めるまでの奇跡や
そういった現象の問題ではなく、事実です」
揺れた。
脳が揺れて、
耳元で鳴り響く雑音がどうも鬱陶しい。
「まず事故による物理的なダメージが
通常よりもかなり大きく、臓器や血管への
内部欠損が非常に進行しています。
その中でも脳に対する
ダメージが非常に大きく、
今意識を保てているのは
奇跡としか言いようがありません。
ですが、それも長くは持たないでしょう。
大変残念ながら、一週間が限界です」
医者の言葉一つ一つが、
体に染み渡るように、
まとわりつくように意味を探していった。
朝未はもう、生きられない。
呼吸器に繋がれたまま
横になっている朝未には、一週間しか、
一週間すら残っていないのかもしれない。
乾いた唇を開けば、
言葉は出ず、ただ、血の味がした。
「役立たずが」
聞こえたその声に、
気がつけば座っていた
椅子から立ち上がっていた。
「ふざけんなよ」
振りかざしたそれは鈍い音を当てて、
その男の崩れていく様を眺めていた。
「なっ、なにを…」
鼻から血を出した男が、
壁に背を預け腰を地面に付けている。
「このクソガキがぁ!!」
「青人、お前何を…」
「ふざけんなって言ってんだろ
「役立たず」だ?それが親の言うことか?」
身体が熱い。
胸から膨れ上がっていくような熱気が
身体を支配していくようだ。
でもそれと同時に、氷のように冷静で、
冷たく、溶け切った感情が相反していた。
「事故に遭って、怪我をして、
それでもう長くは
生きられないと診断された娘に対して、
その言葉はなんなんだよ。
なぁ、どう生きれば、どう育てば、
そんな言葉が出てくるんだよ」
ベットの毛布がかすれる音が聞こえる。
良い。今は黙っていてくれ。
ただ静かに、聞いていてくれ。
院長は意外にも冷静で、
何も言わずただこの現状を
見守っているようだった。
「うるさいっ、この私にっ、
暴力を振るっておいて、
ただで済むと思うなよ、ガキがッ!!
松草ともどうせもう終わりだッ、
絶対に痛い目に遭わせてやる。
お前も、お前の家族もな!!!」
「ただ金があるだけで、
そんなに腐るっていうなら、
そんなもんいらない」
「これだからガキは、この世は金が全てだ。
金があれば人も買え、物も買え、
全てが買える。命も、法すらも!!」
再度振りかざした腕が、
そこに届くことはなかった。
その前に伸びた、
強く、強い意志がそれを成した。
「ふざけるなよ」
白衣に身を包んでいるその男が、
地面に伏している男へと、
強く拳を叩き付けた。
「この世は金が全て?笑わせないで下さい。
命は金なんかでは、決して買えない。
病に侵された命を救えるのは知識と技術、
そして救いたいと願う、
救われたいと願う意志だ」
「貴様っ、この私に向かってッ」
「この私?ここは病院です。
貴方は患者の父であった人物なだけで
大した人物でも私が敬うべき人でもない」
「父であった、だと?
今でも私はそいつの父だ、
こいつには保険がかけてある、
最後の最後まで
大した金にはならなかったが、
それでも私はこいつの父親だ、
お前のようなただの医者が
口出せることではない!」
「ええ、父であった、ですよ。
自分の娘に対して役立たずなんて
言葉を吐ける時点で、
あなたは父親どころか、
まともな大人ですらない。
ただの金と傲慢に囚われた人形だ。
そして二度目ですが、
ここは病院であり病室です。
部外者は立ち去って頂けますか?」
「どいつもこいつも私を舐めやがって、
松草家もこの病院も今日で終わりだッ!
徹底的に潰してやる!!」
ふらふらとした足つきで立ち始める男に、
携帯機器を操作しながら院長が言葉を続ける。
「やはり金を持っているだけで
大した学はなさそうですね。
当病院は私が経営しているグループ系病院です。
国からの補填と承諾を得て営業している。
ほぼ全ての病院が私の経営する
系列の病院であり、
私は今ここに貴方を全ての系列病院から
出入り禁止とさせて頂きます。
残りの僅かな病院と、
行き届いていない設備の中で、
豊かな生活が送れるでしょうか?
では、ご機嫌よう」
男の顔に怒りと焦りが溜まっていくと同時、
病室の扉が開き、
警備と思われる男が二人視界に映る。
「部外者が紛れ込んでいたようです、
連れていってください」
「はい、承知しました」
と規律の取れた声で警備の男たちは言う。
もがき、声を荒げながら
警備に連行されていく男は、
今まで少しでも恐怖を抱いていた男とは
到底思えず、ただ、
金に踊らされているだけの
人形にしか見えなかった。
「患者の前で大変失礼致しました。
医者として私は失格です」
院長は僕を見ながら頭を下げる。
今まで知ってきた大人たちとは
かけ離れていて、心に抱くのは尊敬。
そんな言葉だった。
「私の言動は正義だと、
そんな風には微塵にも思っていません。
同時に悪だとも思っていません。
問われれば、間違った事はしていないと、
私はそう思います。
そして松草青人さん、貴方も、
間違った事はしていない。
それを忘れないで下さい」
「ありがとう…ございます…」
「金を持つのは悪いことではありません
私も医師を目指したのはひとえに金の為です
ですが金は万能でも神でもありません。
いくら金があっても、
それだけで知識は増やせません。
技術は学べません。
人の命は救えません。
暴力に対処はできません。
そして交通事故に遭って、
生きる為に必要な組織が損傷している人を
目覚めさせることも出来ません」
「はい、ありがとうございます…」
「では私は一度退室致します。
朝未さんの容体に関しては
また経過を見てご報告させて頂きます」
男はまた深く頭を下げて、
病室から出ていった。
静かに閉まるドアが、
何故か何分にも、何時間にも感じられた。
ドアが完全に閉まり切った後、
大きく気を落としている父が声を出した。
「すまない、青人。
そして、朝未さん、本当にすまない」
父が頭を下げる姿を、初めて目にした。
それでも、許せる気も、
何か言葉を返せる気もなかった。
座っていた椅子へと腰を下ろす。
目線の先には
朝未が朧げな眼差しで天井を眺めていて、
もう、今にも消えてしまいそうな、
そんな気がした。
父は何度も頭を下げて、
数十分がした頃、扉を開けて去っていった。
何度も見ていたはずの背中を、
初めて父らしいと、そう感じた。
(4)
窓から差し込む夕日とそよ風が
カーテンを茜色に染めて揺れている。
落ちていく太陽が夜に沈んでいく度に、
朝未との時間が減っていることに気付く。
「ごめん。もっと早く親たちを説得したり、
なんとかしていれば、
事故は防げていたかもしれない」
自分でも何を言えば良いか、
何を話せば良いか、分からなかった。
迷いに迷って自然と出てきたのが
謝罪だなんて、本当に嫌気がさす。
「あやまらないで…良い、
それこそ、傲慢だよ…」
掠れた声が、耳に届く。
「無理して話さなくて良い、
だから回復できるように少しでも休んで」
「もうだめ…わかってる、時間が無い」
何度制止しても、会話が止まる事はなかった。
「溶け出して崩れる泥が、
強い光に包まれて何とか形を保てているの」
「…………」
「生きようとしても
泥は砂には戻れない、砂は石には戻れない。
人は、過去には戻れない」
「………やめて」
「曖昧なままの時間が、
そんなに長くあるわけない、
神様がいるなら、
そんなことを許してくれるはずがないから」
「……やめて」
「願っても祈っても、
枯れた花は風に流されて散って、
人々の人生から消えていくの」
「…やめて」
「あの時見た綺麗な花も、思い出の華も、
全部ぜんぶ消えて
無くなって忘れられていくのーーー」
「ーーーやめろ!!!」
「…………」
何十年にも及ぶように感じる時間の流れは、
病室に掛けられている
時計の数分でしかなかった。
少しずつ太陽が闇に染まっていき、
月の光が世界を照らし始めている。
「………………ねえ」
体を無理に起こそうとする朝未に、
制止の声をかける。
体を押さえつけることが、出来なかった。
触れることが、出来なかった。
「抱きしめてよ」
そう言い、薄く笑う朝未の姿は、
月の光に照らされていた。
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