身勝手で浅はかな生き方

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身勝手で浅はかな生き方

11 史生が住んでいるという家から5分ほど走った場所にある喫茶店。 店内に俺たち以外の客はなく、静かに流れるクラシックの音だけがなぜか耳に刺さる。 何を聞かされるか予想のつかない緊張で、鼓膜まで敏感にさせているのだろうか・・・。 太田はオーダーしたコーヒーが運ばれてくるまで一言も発しなかったが、店員が小さく頭を下げ席を離れて行くのを横目で見ながら唐突に話し始めた。 「・・・井上克郎―――――知ってるだろ?」 俺は無言で頷く。 太田が口にした名。―――井上克郎は、俺があの家を出る直前に、門脇靖子が不倫を報じられていた相手だ。 井上と11年前の事件というのは、どんな繋がりがあるのか俺には分からない。 太田の次の言葉を俺は待った。 「井上が瀕死の重傷を負って入院した事件、知ってるか?」 「・・・いや、知らない。それはいつの事だ?」 太田が溜め息をつき緩く首を振る。 「・・・話にならないな。―――あんた、あの家を出てからテレビのニュースや新聞を見ることなかったのか?」 「新聞の販売店に住み込みで働いてたが、中身を見ることはほとんどなかった。部屋にテレビもなかったし・・・。大学に入ってからはバイトばかりでそれどころじゃなかった。―――その事と史生に何の関係があるんだ・・・?」 「・・・11年前の夏。井上は門脇靖子に殺されかけた。明らかな殺意を持って、背中からナイフで刺した・・・。どうしてだと思う?」 「別れ話が拗れたか?―――――いや、そこまでの執着があったのか・・・しかし、どうして背中・・・?」 「――――その日家にいたのは史生だけ、門脇靖子は留守の筈だった。・・・だけど井上は全裸の状態で背中を刺されたんだよ、門脇靖子に。それがどういう意味かわかるか?」 頭の中がショートしそうだった。 認めたくない、最悪な状況が脳裏を過る。 そんな俺に太田はもう一度言う。「―――ガキじゃねぇんだ、わかるだろ?」と。 想像もしていなかった。 まさか、そんなことはありえない―――――。 そう思いたかった。 「――――俺が、あの家を出てからの関係か・・・?」 恐る恐る、吐き出すように俺は聞く。 「違うだろうな」 太田ははっきり、そして俺を責めるようにそう言った。 「あんたの養母はその事件をきっかけに精神をやっちまったようだ。井上の計らいで執行猶予処分、実刑は免れた。だが、事件を起こしたことにより後援会からは見放され、世間からも蔑まれ、二人はあの家に住み続ける事が出来なくなった。土地を二束三文で手放して、収入も信用も、頼る相手すらない状況の中生きてきたんだろう、史生は。・・・とはいえ、俺もこれ以上詳しい話はわからない。あと知ってるのは、史生が生活のために昼間働いて、夜間に大学通ってたってことくらいだ。――――あんなに穏やかな顔をして、実はもの凄く苦労して来てるんだよ、史生は。・・・俺は正直、あんたを勝手なヤツだと思ってる。親も史生も捨ててったんだろ?それを今更のこのこ出てきやがって・・・・・・俺はあんたに一体何があったのかなんて知らないし興味もない。ただただ、腹が立つだけだ―――――」 と、そこまで言って気持ちを落ち着かせるようにコーヒーを一口啜り、長く息を吐く。 「―――でも、俺がなんて言おうが、どう思おうが、・・・史生があんたをずっと待ってた事は間違いない。あいつの心の中には、ずっとあんたがいた。悔しいけどな。――――――俺は、史生が好きだ。それは史生も知ってる・・・相手にしてもらえないが。―――ずっと待ってる相手がいるんだとよ・・・」 太田は口を歪めて無理な笑みを浮かべた。 「―――どうしてそんなに詳しく知ってるんだ・・・?」 「あんた、バカか?―――当時あれだけ大きく報道されたんだ、ちょっと想像すりゃそんな事ガキでもわかる。―――まぁ、井上とそういう関係だったのが史生だってのは報道されなかったよ。きっと井上が手を回したんだろう。門脇靖子が別れ話に逆上して刺した、って事になってるからな」 「じゃあ何で・・・」 何で井上と史生に肉体関係があったことを知っているんだ、と忌々しいその事実を俺は口に出せず、視線で太田を窺う。 太田もその意味を理解し、大きく息を吐いてから答えた。 「―――抱こうとした事があったんだよ、史生を。そしたらあいつが言った。―――”俺の体は汚れてるから、今更誰に触れられても何も感じない。それでもよかったら好きにして下さい。その代わり俺は太田さんの名前は呼べません”って。それで理由を聞いた。何で汚れてるなんて言うんだって。そしたら教えてくれたよ。諦めると思ったんだろうな。・・・まぁ、諦めるというよりは、居た堪れなくてもう触れる事が出来なかったんだけど。俺の名前を呼ばないって言ったのは、心の中では違う相手に抱かれてると思い込む為だったようだ。それは、井上にされてた行為で身に付けた自己防衛手段だったんだろうよ。―――――で?あんたは俺の話を聞いて、どう思った?」 すぐにはその問いに答えられなかった。 離れていたから知らなかった、助けられなかった。では済まされない話だ。 長い間辛い過去を・・・血の繋がりのない精神を病んでしまった形だけの母親を・・・史生はたった一人で背負ってきたということなのか。 「――――何てことだ・・・。俺は・・・」 なんて身勝手な生き方をしてきてしまったんだろう―――言葉が出なかった。 喉の奥から熱いものが込み上げてくる。 自分の浅はかな生き方を、今ほど後悔した瞬間はない。 俺は強く瞼を閉じて、深く呼吸を繰り返す。 太田はその間何も言わず、ただじっと俺を鋭く睨むように見据えていた。 俺はその視線を受け、場違いな笑みを薄く浮かべる。 「―――教えてくれてありがとう・・・。史生に相応しいのはあんたみたいな真っ直ぐな奴なんだろうな・・・」
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