養母

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養母

12 「お前・・・笑って―――――」 「・・・でも、譲れねぇ」 場違いな笑みを責めるように身を乗り出した太田の言葉を遮り、俺は表情を改め背筋を伸ばす。 「―――――あんたがどんなに史生を想ってくれていようが、俺は、史生だけは絶対誰にも譲れない。・・・あいつの苦しみに気付いてやれなかった俺が今さら何ができるかなんてわからねぇけど、偶然でもなんでももう会ってしまったんだ、あいつの存在を二度と手離したくない。これ以上あいつに傷を増やさせたくない・・・俺はあいつに相応しくないかもしれないが、あいつの傍に居なきゃならねぇ。―――――あんたの史生に対する想いの強さ、話を聞いててよくわかったよ。自分の気持ちを押し付けることなくあいつの傍で見守ってくれてたんだろ?俺には到底真似できねぇ。器も人柄も、どう見たって俺はあんたに勝てる気がしねぇ。・・・けど、それでも史生は取られたくない・・・史生は俺だけのもんなんだ、って・・・すげぇ我儘だろ?あまりにも自分が情けなくて笑っちまった・・・。気分悪くさせて申し訳なかった。―――――あんたのおかげで覚悟決まったよ。・・・ありがとうございました――――。」 俺は正面に座る太田に向け深く頭を下げてから、伝票を取り席を立った。 会計を済ませ駐車場に停めた車に乗り込みエンジンをかける。 今度は太田が追ってくることはなかった。 こんな所に何年も・・・。 その家の前に再び立ち、俺は心臓を強く鷲掴まれている様な息苦しさを感じていた。 自分勝手な理由と都合で手離してしまった大切な存在が、半分傾いた様なこの家に、心の病んだ養母と二人で暮らしていたのかと思うと、後悔なんて言葉では言い表せない感情が胸の内を掻き回す。 一歩、足を踏み出す。 コンコン――― 呼び鈴のないその家の、薄い玄関扉をノックする。 電気が点いているから誰かしらいるのだろうが、近付いてくる気配はない。 俺はもう一度扉を叩く。 「―――はい・・・だぁれ?」 二度目のノックの直後、室内から聞こえてきたのは史生の声ではなかった。 俺の体に緊張が走り、強張る体にじわりと不快な汗が浮く。 ゆっくりと扉が開き、白髪交じりの髪を後ろで結った、華奢な女が俺を見上げる。 そしてもう一度俺に聞く。「だぁれ?」、と。 俺は戸惑いを隠せない。 何と答えていいかもわからなかった。 じっと俺を見上げる瞳に邪気はない。 そこで俺は思い出す。 “お前が出て行って1年もしないうちに動けなくなったよ。今はただのボケたばあさんだ”―――と言った史生の言葉を。 慌てて目の前の女の体を視線だけで確認する。 杖を持った右手首の関節が不自然に曲がっている。左足は床についておらず、右足で辛うじて体を支えているように見えたが、その指先は丸く変形していた。 「・・・リウマチですか?」 俺は名乗るよりも先にそう尋ねた。 女はきょとんとした顔で俺を見て、それからふわりと笑う。 「そうなのよ。体が痛くて仕方がないの・・・あなたはお医者様?」 俺は咄嗟に答えてしまった。「――はい、息子さんに頼まれて・・・。史生さんはいらっしゃいませんか?」 「・・・史生?―――あら、誰だったかしら?・・・ちょっと待ってね、今、樹希に電話してみるわ・・・」 そう言ってもたもたと部屋に戻って行く女の後姿を見て、俺は混乱していた。 あれは、間違いなく、門脇靖子だった。 年を取ったとはいえ、まだ50代半ば、ボケるには早すぎる。 精神病を患っている様な事を太田が言っていたから、きっと正常な受け答えができないのだろう。 それは仕方がないとしても、あれはどういうことだ・・・ 一緒に暮らしているのは史生なはずなのに、俺に電話をすると言っていた。 もしかして史生が俺の連絡先を教えていたのかと思い、ジーンズのポケットから携帯を取り出してみるが、当然の事ながら着信はない。 俺は玄関の申し訳程度の三和土に足を踏み入れ、室内の様子を窺う。 3畳ほどの小さな台所、その奥には6畳の和室が二間。風呂とトイレは台所にある扉の奥にあるのだろうか。 部屋の奥に置かれた介護用ベッドと食器棚、小さなテレビと子供のおもちゃ程度の小さなテーブルだけが並ぶ質素な室内に、俺はとにかく心が痛んだ。 「―――――そう・・・まだ帰って来られないの・・・あまり遅くならないでね。・・・じゃあね・・・」 電話が繋がったんだろう、少し話をしてから通話を終えた門脇靖子が再び俺の目の前に立った。 「おかしいのよ、せっかくお医者様が来て下さったのに、あの子ったら頼んでないなんて言うの。―――――あら、いつまでもそんな所に立たせてしまってごめんなさいね。お茶でもお煎れしましょうね、狭いですけどどうぞお上がりになって」 「・・・や・・・あの、俺―――・・・では、少しだけ・・・」 史生がいないなら意味はないと思いながらも、帰る素振りを見せた俺を残念そうに見上げる門脇靖子の視線に負け、少しだけだと自分に言い聞かせ部屋の敷居を跨いだ。 「・・・リウマチはいつから酷くなったんですか?」 ベッドに腰掛け、俺を物珍しそうに見つめる門脇靖子に尋ねてみる。 「さぁ・・・いつだったかしら。もうずっと前だった気がするわ・・・えぇ、ずぅっと昔。――――そうそう、先生はどこを診て下さるのかしら?今日は、えぇと・・・何だったかしら・・・いやねぇ、息子がいないと何もわからなくて。ちょっと待って下さいね、もう一回電話を・・・」 「―――門脇靖子さん・・・っ」 あまりにも痛々しすぎる現実だった。 俺が苦しめられていたと思っていた、史生に苦痛を与えていたと思っていた、憎くて許せなかったはずのあの女が、こんなにも弱く頼りない状態になっているなんて思いもしなかった。 俺は堪らず名を呼んで、その行動を制止する。 「・・・?なぁに、先生」 門脇靖子はこちらを見ている様で実は焦点の合っていない虚ろな視線を俺に向けている。 俺は込み上げる後悔の涙をきつく瞼を閉じることで抑え込み、代わりに薄く微笑みを浮かべた。 「痛いところ、教えて下さい。温めて関節も少し動かしてみましょう・・・お薬は、飲んでますか?-――」 門脇靖子をベッドの縁に座らせてから、俺は手早く蒸しタオルを準備して、それを手首や膝、足首などの関節に当てながらその変形してしまった骨格をそっと擦った。 もともと痩せている女だったが、今はもう骨と皮だけになったと言えるほど痩せ衰え、体力など皆無であろう不健康そうな体つきになってしまっている。 俺が痛みのある場所を擦るたび、「申し訳ありませんねぇ」「ありがとうございます」を繰り返し、全部終わる頃には涙まで流していた。 「―――息子さんは、お一人ですか?」 門脇靖子の涙をティッシュで拭ってやりながら、俺はどうしても気になっていた疑問を静かに尋ねた。 「・・・わからないの」 そう言って本当に困った様に顔を歪ませるこの女に、嘘をついている様子は全く見えない。 俺は、そうですか・・・とだけ言って立ち上がる。 門脇靖子に背を向け足を踏み出した時、ふいに呼び止められた。 「・・・たつき」
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