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醜い心
2
「―――ねぇ・・・たっつーさぁ。今日なんかいつも以上に激しかったよねぇ~。・・・なんかあった~?」
体中に痣や擦り傷を浮かばせた女が、耳に刺さる様な甲高い声で話しかけてくる。
「・・・別に。なんもねぇよ」
着衣を直し白衣を羽織った俺は抑揚のない声でそう答えた。
「えぇ~・・・だって、いつもの10倍は痛かったよ?―――――あ、そだ。・・・コレ、あげる」
そう言って手渡された小さな紙袋。ロゴは、ブランド物に疎い人間ですら一度は目にしたことがあるだろうもの。
「・・・いらねぇよ。こんなもん貰ったって使わねぇって言ってるだろ」
この女は、どういうわけか給料を貰うたび、俺に時計を買ってくる。そして言うのだ・・・
「たっつーの時計、古臭すぎる。そんなのおじいちゃんだって持ってないよぅ。いいじゃん、こっちに変えなよ」
「余計なお世話だ。持って帰らねぇなら、質屋に売っ払っちまうからな。――用は済んだんだ。帰れ」
そう言って扉に手をかけようとすると、女―――ミユキがマッサージベッドの上に立ち上がり背中に抱きついて来た。
「・・・ねぇ、たっつー、この後予約入ってるの?」
面倒くせぇな・・・
「―――なんだよ、あれだけヤって、まだ足りねぇって?」
乱暴に壁へ押さえつけ華奢な体に不似合いなボリュームのある胸の膨らみを強く包み、つんと立った尖りに爪を立て抓りあげた。
「・・・ぁ・・・・・・も、っと、痛・・くし、てぇ―――――」
「・・・どうかしてるな」
それは、目の前で顔を歪め善がる女に対してか、それともこんなことを繰り返す自分自身に向けた言葉なのか・・・
壁に女を押し付けたまま、白く細い首筋に噛り付く。
―――と、そこへ聞き覚えのある懐かしい声が響く。
「・・・樹希?-―――ここにいるのか・・・?」
「―――っ?!・・・史生っ、待てっ――――!!」
俺が叫ぶよりも早く扉のノブが回され、この異常な空間が、いちばん、知られたくない人間に曝されてしまった。
「・・・あ。わ、悪い―――」
バツの悪い顔をして、史生が扉を閉めて足を引き摺り離れて行く。
俺は、すぐにそれを追う事が出来ず、女を押さえていた手をだらりと下げ、呆然と立ち尽くす。
「・・・あの人か・・・そっか、そっかぁ――――――あ、アタシ、テキトーに帰るから行っていいよ・・・」
ポンッと肩を叩かれ、背中に両手が当たりその空間から押し出された。
「―――っおい・・・」
半分電気の消えた診察フロアに追い出される様に出てきた俺を見て、待合室の椅子に座っていた史生が苦笑を浮かべ、「悪い」と片手を掲げた。
俺は気持ちを切り替えるように軽く頭を左右に振り、平静を装い史生の元へと足を向ける。
「悪かったな、樹希。昼休み時間ならいつでもいいって言ってたから、今日ちょうど時間あったんで寄ったんだけど・・・―――さっきの、彼女か?随分若い子だな。・・まぁ、お前ほどの男前なら、選り取り見取りか」
からかう様な口ぶりでたいして気にすることもなくそう言った史生の言葉が、俺の胸を抉っていく。
「―――みっともないところを見せたな・・・すまなかった。1番に入ってくれ、電気かける・・・」
「うん、頼むよ」
仕切りのカーテンを開け診察台に向かう史生の後姿を見ながら、俺は思う。
――――もう、オモチャはいらない・・・と。
「・・・まだ痛みはあるか?腫れは・・・だいぶ引いたみたいだけどな。もし都合がつくなら、暫く続けて通って来た方がいい」
スラックスの裾をひざ下まで捲りあげ、白く細い足首に中周波治療器の吸着パッドを数か所貼り付ける。
―――もう、痕はないな・・・。
滑らかな白い肌を見て、少しだけホッとする。
「痛かったら言えよ」と声をかけ、電流の設定を史生の様子を見ながらタッチパネルで操作した。
「・・・あぁ、そんくらいでいいよ。筋がビリビリする・・・脚攣りそう」
少し笑ってそう言った史生に、俺は聞く。
「―――まだ、あの家にいるんだな・・・」
「どうして・・・?-―――あぁ、保険証の住所・・・いるよ、あの人を一人にしておけないし―――――そんな事より、この間来た時は先輩いたから聞けなかったけど、あれからお前、どうやって暮らしてたんだ?心配してたんだぞ、突然家出て行ったりするから。学校も退学してるし、あの人は何も聞いてないって言うし・・・何か、何か嫌な事があったのか?あの人に、何かされた・・・?」
横たえていた体を起こし身を乗り出して俺の両肩を掴んだ史生が、まっすぐに俺を見つめる。
そのまま抱き寄せたくなる衝動を何とか抑え込み、俺はやんわりとその手を外した。
「―――――あいつ・・・まだあの部屋にお前を呼ぶのか?」
その問いの中に、自分でもわかる程の嫌悪感が籠る。
「―――昔の話だよ・・・今のあの人は何もできない。お前が出て行って1年もしないうちに動けなくなったよ。今はただのボケたばあさんだ。―――――なぁ、樹希。・・・やっぱり、知ってたんだな・・・」
「・・・あぁ。―――すまなかったな、お前に全部、押し付けた・・・」
昔、共に暮らしたあの家での異常な生活を思い出し、互いに顔を歪めることしかできなかった。
カーテンが微かに揺れ、空気の流れに混じりミユキの甘い香水の匂いが鼻腔を掠める。
「彼女、帰って行くぞ」
行かなくていいのか?と、それまでの暗い雰囲気を絶ち切るように、からかいの混じる口調で史生が言う。
「・・・いいんだ。大体アレは、俺の女じゃない。―――――ところで史生。お前、今週末時間とれるか?もし都合つくなら、家で飲まないか?久しぶりに会ったんだ。昔話でもしようぜ」
違和感のない様に、俺は努めて明るく史生を誘う。
「・・・週末。―――そうだな、あの人はヘルパーさんに頼めばいいし、この足じゃ外で飲むってのもキツイからな。俺も、ゆっくりお前と話がしたいよ。家はここから近いのか?」
「あぁ、このマンションの10階だ。―――お前、ここまで車で来てるのか?」
「いや。歩いて来てる。会社帰りで最寄駅から一番近かったのがここだったから、あの日先輩に無理やり連れて来られちゃってさ。会社の草野球大会ではりきったら足挫いて・・・暫く整形外科に通ってたんだけど、時間合わなくて。ほら、17時とかで終わっちゃうだろ、病院って。痛みも引かないし、病院にも行けないしって言うんで、電気かけるだけなら整骨院でもいいんじゃないかって先輩が。それでここに寄ってみたら樹希がいて・・・すごく驚いたけど、会えてよかったよ」
「そうか・・・。俺も、お前にまた会えるとは思ってなかった。―――――あぁ、週末、職場まで迎えに行ってやるよ。何時に終わる?」
「え?いいよ、樹希、仕事終わらないだろ?俺、ここまで来れるし―――」
「いいんだよ。個人でやってるとこなんだから、時間なんてどうにでもできる。それに、夜はほとんどが予約だ」
「ふ~ん、そんなもんなのか?-――じゃあ頼もうかな。19時には会社出れる・・・あぁ場所は―――」
「後でアドレス教えるから、メールで住所送ってくれ。ナビ使って行くからさ」
「わかった。―――――あ、話してるうちに終わったな、電気」
機械から終了を告げる音楽が鳴り、俺達の会話は一旦途切れた。
その後湿布を貼り、軽くテーピングで固定させて治療を終える。
「これからまた歩いて会社に戻るのか?」
「ん?-――あぁ、そうだよ。そんな遠くないし」
時計を見ると12:50。
午後の施術時間まではまだ1時間残っていた。
「ちょうどいいから会社まで送っていくよ。ここ、14時まで昼休みだから」
「いいのか?-――悪いな」
「気にするな」
俺の醜い心中になど全く気付いた様子もなく、史生は屈託のない笑顔を俺に向ける。
その表情は、俺に癒しと苦痛、両極端な感情を思い出させる懐かしい笑顔だった。
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