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因果応報
5
その後、住込みで働ける新聞販売店で新聞配達をしながら俺は結局受験勉強を続けていた。
意地になっていたのかもしれないが、自分の力だけで生きる道を決めたいと思っていたのだ。
翌年の夏、高卒認定試験に合格し1年遅れで大学に入学することができた。
大学入学と共に住込みのバイトを辞め、学校以外の時間はとにかくあらゆるバイトに明け暮れた。
それは単にあの女から渡された金を使いたくなかったからという理由だけで、その時点でまだあの金は一円も使っていない状態だった。
早朝清掃、家庭教師、喫茶店のウェイター、キャバクラの呼込みもしたし、ホストもやった。
まとまった金が貯まるまで、一時期呼込みをしていた店のキャバ嬢のマンションに転がり込み、家賃から食費、生活用品、果ては下着に至るまで全て面倒を見てもらうという、まるでヒモのような生活をしていた俺は、あの女の金を使わずに済むならどんなものでも利用してやろうと思っていたから、その生活に関して何の抵抗も後ろめたさも感じなかった。
もちろん見返りは求められたが、簡単な事だった。
その女が欲しがるときに欲しがるだけ抱いてやれば、それだけでよかった。
大学では柔道整復学を学び、卒業後はサッカーのクラブチーム(2部リーグ)でスポーツドクターとして働いた。
しかし、不況の波に煽られてクラブ存続が出来なくなったため解散。
俺はそれを機に独立し、今の整骨院を開業した。
資本は・・・門脇靖子から渡されたあの金と、寝る間も惜しんで働き貯めた金。
多少銀行から借り入れもしたが、通常開業するよりはずっと少額で済んだ。
新興住宅地に建つマンションの1階部分が貸店舗になっている物件を見つけ、住まいもそのマンションに移した。
幸い近所に他の整骨院がなかったため、開業当初から固定客が予想以上につき、経営に窮することもなく今まで順調にやってこれた。
そして、古谷みちると、ミユキの事。
みちるは大学3年の時家庭教師をしていた教え子。
自分の恋愛対象が異性じゃない事に悩んでいたのだが、俺はそんなの気にすることはない、本当に男が好きなのか俺で試してみればいい、そう言ってみちるを抱いた。
別にみちるを好きだったわけではない。
単に雰囲気が史生に似ていたから、ただそれだけ。
みちるは俺が史生を思い浮かべながら自分を抱いているなど気付きもせず、ずっと俺を好きだったのだと言った。
俺は受け入れられないと言った。
心の中は史生しかなかったから、それ以外の人間を好きになる事はないと拒絶した。
けれどみちるは、それでもいいから好きでいさせてほしいと言い、俺は勝手にすればいいと言った。
そしてミユキ。
ミユキは俺より2つ年上のホステスで、昔、俺を囲っていた女だ。
化粧をしているとハデな顔に見えていたが、すっぴんは童顔で、顔の作りがやはり史生に似ていた。
普通に抱かれるだけでは満足しなかったミユキは、俺に自分を傷つけてほしいと言った。
最初こそその行為に戸惑ったが、苦痛と快楽の入り混じる悩ましげな表情がいつしか俺の脳内で史生にすり替わった。
嬲るように、甚振るように、ミユキの体に生傷をつけて行きながら犯す行為は、俺の感覚を狂わせ、そして昂らせた。
ただ声だけはどうしても邪魔だった。
甲高い耳に刺さる様なあの声を出させないよう、俺はミユキの口を手で塞ぎ、くぐもった呻き声に変えた。
そうすることで、その行為が成立していたようなものだった。
欲しいと願う人物と会う事の出来ない苛立ち、傍にいられる環境を自ら手放してしまった事への後悔。
似ていると言うだけで安易に手に入れてしまった欲望の捌け口に、俺は自分勝手にも疲弊していた。
だからいつその関係を断ち切ってもいいと思っていた俺は、どんなに冷たい態度を取ろうと離れて行くことのない二人に、半ば投げやりな感情で言い放った。
“そんなに犯られてぇなら自分で通って来い。患者としてなら触れてやる―――”、と。
もうこれで終わりにするという思いを込めてそう言ったのに、あの二人はどうしてか、それでもいいからと関係を続けることを望んだ。
みちるとは9年、ミユキとは11年間、俺はそんな狂気としか言いようのない歪んだ関係を続けてしまっていた。
けれどもう、本当に今度こそ、終わりにしようと思った。
何よりも望み、欲した相手が、偶然とはいえ向こうから俺の元にやって来た。
きっともう次はない。史生をどんなことをしてでも絶対に手に入れると、強く自分に言い聞かせる。
史生の代わりはもういらない。
勝手な言い分だと十分に承知している。
それでも始めから期待など持たせぬ扱いをしてきたのだから、今終わりを告げたとしてもあの二人にしてみれば、いつかこんな日が来るということはわかっていたはずだ―――などという都合のいい言い訳を心の内で思いながら、俺はまだ自分から送ったことのないみちるのアドレスを携帯の画面に表示させた。
――もうお前を抱けない。
真っ当に生きて優しい恋人を作れ――
理由を言うつもりはなかった。
敢えて一方的で身勝手な内容にしたのは、変に期待を持たせないため。
ミユキにも同じような内容のメールを送る。
ただしあいつには昔、生活を支えてもらった恩がある。
最後に今まで俺に買って寄越した腕時計の分くらいは返そうか・・・などと、柄にもなく少しばかり感傷的になっている自分に気付き、思わず苦笑が浮かぶ。
これで全てが終わるわけではないだろう。
きっと何かしらの反発は覚悟しなければならない。
詰られようとも、泣き喚かれようとも、殴られたとしても・・・それでもあの歪んだ関係に終止符を打ち、史生を手に入れられるのならどんな責めでも甘んじて受けようと、俺はそこまで思えるのだった。
約束の週末。
俺は18時で仕事を切り上げ、史生を迎えに行くため車に乗り込んだ。
地下駐車場から地上に出て何気なく院の入り口に目を向けると、呆然と立ち尽くすみちるがそこにいた。
そのまま行ってしまおうかとも考えたが、早めにはっきりとしたケリをつけたいと思い2つある駐車スペースのひとつに車を滑り込ませる。
「―――何してるんだ?もう終わりにすると言ったよな?」
棘のあるきつい口調でそう問えば、明らかに窶れた表情のみちるが焦点の定まらない目で俺を見据える。
「・・・ゃだ。ぃ、やだっ―――!!樹希さん、どうして?何が気に入らなかったの??ちゃんと理由を教えて。―――わからないよ・・・何で今になってあんなこと・・・」
何かに憑りつかれた様な殺気立った表情が、俺の背筋を凍らせる。
「―――お前・・・それ・・・」
「・・・樹希さんに捨てられたら、生きてる意味がない。―――――あの日・・・あの日尋ねて来た人。あの人の代わりだったんでしょ?俺。すぐわかったよ、樹希さんが求めてるのはこの人なんだって・・・でも・・・渡さない。誰かに盗られるくらいなら、先に俺が樹希さんを奪う。―――命ごと・・・っ!!」
だらりと下げられていた手にいつの間に握られていたのか、ぎらりと光る銀色の刃が見えたと思った瞬間、みちるの小さな体が、俺の胸に飛び込むようにぶつかって、腹部に鈍い痛みと緩やかな熱の広がりを感じた。
「・・・お、まえ――――行、け・・・」
なぜ、そんなことを口走ったのか、自分でもよくわからなかった。
けれど、みちるをここまで追い詰めたのは間違いなく自分なのだから、こんな仕打ちを受けるのは当然なのかもしれないと、どこかで思っていたんだろう。
今なら誰も見ていない、今すぐここを離れろ、と伝えた気がするが、俺はちゃんと言えたのか・・・?
霞んでいく視界の中、地べたに力なく座るみちるの足元に血が滴るのを見た気がしたが、そこで俺の意識はぷっつりと途切れた。
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