希望と落胆

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希望と落胆

9 「――――ずっと待ってたって言ったよ、俺。樹希が戻って来るのは俺の所なんだって信じて・・・そんな俺が、樹希を受け入れないわけないだろ?―――――樹希。もうどこにも行くなよ・・・」 病衣の薄い生地越しに、肩口からじんわりと温かな湿り気を感じる。 史生の涙が、俺の肌に染み込んでいくのが嬉しかった。 きっとこの涙は、俺の穢れを浄化してくれる、そう思ってしまう程、俺にとって史生は純粋で美しく最も尊い存在だったのだと、改めて気づかされた。 「・・・ありがとう」 俺は、今までの人生の中でおそらく、こんなにも素直に、こんなにも純粋な気持ちで、この言葉を口にしたことはなかっただろう。 少しの気恥ずかしさと、それを遥かに上回る喜びが、俺の体を埋め尽くしていく気がした。 その日から1か月。史生はほぼ毎日のように病室に顔を出し、洗濯や着替えの補充、細々とした買い物まで、それはもう甲斐甲斐しく俺の世話をしてくれた。 もう何年も忘れていた、穏やかで、心休まる日々だった。 「・・・明日はとうとう退院だね。しばらくは安静にしていなきゃいけないから、仕事はまだだめだよ?」 史生が念を押すように何度も確認してくるから、俺は苦笑を浮かべ頷いた。 「わかってる・・・けど、そんなに心配なら、家に来て見張っててくれよ」 何気なく・・・本当に何の意図もなく出た言葉だった。 だから、”バカ言うな”とか”甘えるな”とか、そんな様な答えが返って来るものだと思っていた。 しかし、俺の予想は大きく外れる。 「―――――そうしようかな・・・」 そう言った史生の顔は、ふざけた様子も、話を合わせただけのからかう様子も見えなくて、俺は思わず史生の両手首を強く掴んで、期待を込めてもう一度聞く。 「・・・俺の家に、来るか?」 「それは、一時的なもの?それとも――――」 史生の言葉にとまどいと期待が見え隠れする。 俺は明確な意思を持って、その言葉を言う。 「一緒に、暮らさないか・・・?」 俺の言葉に一瞬目を見開き、次いでまたあの寂しそうな笑みを浮かべた史生は、結局それに返事をくれなかった。 ただ一言、「明日、また来る・・・」そう言って帰って行った。 けれど翌日、退院する俺の元に史生は姿を見せず、俺は落胆と・・・少しの安堵を感じていた。 所詮、無理な話だったんだろう。 期待なんてした俺が間違えていたんだ。 誰が、”傷つけたい”という願望を持っていた男の所へなど来たいと思うものか。 自分に非などないのに、謂われなく傷つけられる苦しみを知っている史生だからこそ、そんな危険な俺の元へ来るはずなどなかったんだ。 触れる前に・・・傷つけてしまう前に、離れて行ってくれて良かったんだ―――――。 そう思う事でしか、俺は自分の落胆する心を慰めることができなかった。 退院してから1週間仕事を休んだ。その間俺は、ただひたすら史生の事を考えて過ごした。 “一緒に暮らさないか”、と聞いた時、あいつの表情から拒絶の色は感じられなかった。 驚いた表情を浮かべたが、その中には確かな喜びが混じっていたように見えていたのは気のせいだったか・・・ そしてその後に見せた、あの寂しそうな笑顔。 あれは、史生の何を隠しているのだろう。 そこで俺は不安に襲われる。 “あの家で、何かが起きているんじゃないか”、と。 史生の携帯に電話をしてみるが、すぐに留守番電話に切り替わってしまう。 時計を見ると時間は19時を少し回ったところ。 普段であれば退社できる時間なんだと史生が前に言っていたのを思い出し、俺は車で史生の職場へと向かった。 車で10分程の場所にある史生の職場。 官庁街の一角にあるビルの中に、史生の勤める会計事務所があるという。 俺はそのビルの前に車を停め、エントランス付近で史生が出てくるのを待っていた。 しかし、10分待っても30分経っても史生はそこから出てこない。 今日は早く帰ったのだろうか・・・明日もう一度来てみるかと諦めようとしたその時。 「―――あの・・・整骨院の先生、ですよね・・・?」 車に戻ろうとした俺を、ビルの中から息を切らせて出てきた男が呼び止めた。 初めて史生が治療に来た時一緒に付き添ってきた男だった。
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