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プロローグ
多国籍企業〈オデッセイ〉の渉外マネージャーは、応接室のデスクに両肘を突いて頭を抱えていた。御年34歳、超一流企業でそれなりの地位を築いてきただけあって身に着けているスーツは上等、髪はくせ毛だが禿げる気配もなく、浅黒い顔は鼻筋が通っていてそれなりに見栄えはよい。その顔も目の前に鎮座まします難題を前にして、いまいましげに歪んでいた。
反対側に着席している若い女性は対照的に、背筋を伸ばして顎を引き、明日自分の結婚式があるかのように満面の笑みをたたえている。瞳はこげ茶色で大きく、顔はふっくらと卵型、桃色のくちびるはしっとりと湿っており、絶えず理性を働かせないとむしゃぶりついてしまいそうなほど魅力的だ。
「あんたみたいな狂人が得意げに面会を求めてくる」渉外マネージャーがついに切り出した。こめかみを揉みながら、「いつかそんな日がくるんじゃないかってずっとビビってた」
「すると、なんですか」と若い娘。彼女はあくまで陽気だった。「あたしがあなたの悪夢を実現した第一号ってわけですね」
「夢を叶えてくれてどうもありがとう。もういいからとっとと地獄へ失せろ」
「あなたに取り次いでもらうまで苦労したんですよ。倦まずたゆまず電話とメールで徹底的にアポ取りをやりましたからね」
「知ってる。おかげさまで秘書が一人異動してったよ、電話ノイローゼで」
「それはお気の毒に」
「すこぶる有能だったんだがな」
二人のあいだに火花が散った。渉外マネージャーは鬼をも睨み殺すがごとき眼光。対する女性は柳のように受け流している。やがて攻撃側が折れた。「〈リニア便〉に乗りたいそうだな、姉ちゃん。なぜだい」
「宇宙にいってみたいから。決まってるじゃないですか」
「知らないなら教えてやるがね、あのシステムは貨物を運ぶんであって生身の人間を乗せるようにはできてないんだ」素早く携帯端末を操作して、くるりと面会者のほうへ差し出す。「〈リニア便〉発射風景のダイジェストだ。納得したらおうちへ帰って、彼氏でも作るこった」
端末に流れている動画には、スタート地点であるジャクソンヴィル・ランチャーがぽっかりと大口を開けているところから始まった。そこへクレーンに吊るされた球形ユニットが搬入される。ユニットに搭載された超電導磁石はすでに稼働状態に入っており、クレーンから切り離されても地面に落ちず、マイスナー効果で空中に静止したままだ。
大げさな秒読みがなされ、ゼロになった瞬間、磁極の切り替えによってユニットは弾かれたようにトンネルのなかへ飛び出していく。画面が切り替わり、猛烈なスピードで加速していくユニットのリアビュー。上下左右にせわしなくぶれる画面の左下にはユニットの速度が表示されており(単位はマイル/時とキロメートル/時の二通り)、それは景気よくぐんぐん上昇していく。
またもや画面が切り替わり、発射台であるホイットニー山の鳥瞰図になる。大げさなエフェクトがかけられているのだろう、ガイドウェイの出口がきらりと光り、次の瞬間文字通り弾丸のようにユニットが飛び出してきた。鳥瞰図はアングルを空へ切り替え、地球の自転エネルギーを得てなおも上昇していくユニットを追っていたが、やがて蒼穹の青空のかなたへ吸い込まれていったところで幕引きとなった。
彼女は笑みを崩さず、そっと端末を返した。「〈リニア便〉が貨物専用だってことはもちろん知ってますよ」
「手間が省けてたいへんよろしい。さあ帰った帰った」
ところが彼女はいっこうに離席するようすはなく、それどころか姿勢を崩してまだまだ居座ってやるぞという意志表示さえやってのけたのである。今度は彼女のほうがハンドバッグから端末を取り出し、くるりと回してマネージャーに画面が見えるようにした。
彼は気の進まないようすで一瞥し、口もとをすぼめた。「なんだねこの図面は」
「見ての通り、人間が乗り込むための改造案ですよ」
「念のために聞くが、人間をなにに乗せるための改造案なんだ」
「もちろん〈コクーン〉にです」
死のような沈黙。やがて歳を食ったほうが大げさにため息をつき、かぶりを振った。
「この罰当たりな図面をどこの設計会社に引かせたんだ。そいつらにつまらん仕事を安請け合いしたことを後悔させてやる」
「あたしが引きました」自信たっぷりにふくよかな胸を叩いてみせた。「勉強したんです、独学で」
マネージャーは目を丸くした。彼は渉外担当なので技術にはめっぽう疎いけれども、まるでちんぷんかんぷんというほどではない。この図面は夢見がちな素人がイーゼルに殴り書きしたようなしろものでないことくらいはわかる。独学でこのレベルに達するには血の滲むような努力を要したはずだ。
彼の背筋に冷や汗が這い下りた。俺はもしかしたらいま、本物の宇宙狂と話してるのかもしれんぞ……。
「お仕事の合間でいいんです。実現可能性を検討してくれませんか」
「まあ技術部門の連中に見せてやらんでもないが……」
面会者は身を乗り出し、デスクに両手を突いた。「じゃあやってくれるんですね?」
このとき初めて、マネージャーは彼女の瞳と真正面から向き合った。そこにあるのは純然たる宇宙への熱意、ただそれだけであった。独学で改造型〈コクーン〉を設計できるようになってしまうほどの。それと同時に屈んでいる彼女の胸元が大きくはだけ、均整のとれたすばらしいバストが目に飛び込んできた。
気がつくと、彼は次のように口走っていた。「とにかく検討はする。それ以上の約束はできんぞ」
なんのことはない、渉外マネージャーは宇宙への熱意とおっぱいにノックアウトされたのである。
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