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4 森下嬢の正体
「というわけだ。すまん」
日下部は深々と頭を下げた。ちらりと上目遣いでかすみの表情をうかがう。彼女は事態を飲み込めていないらしく、しきりに目をしばたいているばかりだ。
そんな、日下部さん顔を上げてください! というようなお定まりの許しが出ないため、彼は堅忍不抜の精神で頭を下げ続けている。場所は支部の近所にある喫茶店チェーンで、時間は20時すぎ。なにごとかと周りの人間から放たれる視線がそろそろ痛い。
「えっと、とりあえず頭上げてもらっていいですか」
彼はそうした。内心言うのが遅いと毒づきながら、「俺の力不足だった。申しわけない」
「技術的な問題はクリアしてたはずなんですけどね」
「そこなんだよ」泥水のごときコーヒーをすすり、マネージャーは顔をしかめた。「俺たちは実現可能性を第一に考えてきたけど、経営陣にゃそんな難しい話はどうでもいいのさ。超伝導棺桶が利益を生むかどうか。この一点に尽きるらしい」
「〈オデッセイ〉もいつの間にか硬直したおもしろみのない企業になっちゃったんですね」
日下部は吹き出した。「まるで設立当初のことを知ってるかのような口ぶりだな」
「実は知ってるんですよ」秘密めかした笑みを浮かべている。
「〈オデッセイ〉は今年で40周年を迎えるんだぞ。あんたそんなに歳食ってるのか」
彼女の顔がさっと青ざめた。「あたしそんなおばさんに見えますかね」
「まったく見えないから不審がってるんじゃないか」
「よかったあ。25歳のぴちぴちギャルなんですよ、あたし」
「そのぴちぴちギャルがなんで設立当初の〈オデッセイ〉を知ってるんだ」
「知ってるって言っても又聞きなんですけどね」
日下部の脳はようやく一人前の仕事をやり遂げた。「もしかして森下啓一郎の子どもか、あんた」
「半分正解。正確には孫です」
〈オデッセイ〉は当初、日本のベンチャーが発端となって生まれた企業である。その際中心的役割を果たしたのがくだんの森下啓一郎氏であり、彼は技術面、経営面、営業面の三拍子を兼ね備えた超人だった。
具体的な〈リニア便〉の技術的な構想を自分で練り、将来性――海上コンテナとの提携、軌道上開発の余地、その他いろいろ――を模索し、それらを華麗なトークで投資家に売り込む。全部一人でやってのけたのである。
彼なくして〈オデッセイ〉は存在せず、したがって現在の宇宙開発バブルも存在しなかったであろう。軌道上に安く資材を搬入できさえすれば、停滞している各国の宇宙プロジェクトはたちまち息を吹き返すと彼は睨んだ。実際そうなり、月面の恒久的な基地建設を手始めに、火星有人飛行が何度も敢行され、地表に人間が降り立ちさえしたのである。宇宙産業に携わる人間にとって森下氏はほとんど現人神に近い。
その孫がいま、目前に座っているのだ。彼は反射的に平身低頭しようとする衝動をなんとか抑えつけなければならなかった。「恐れ入ったね、どうも」
「だからって態度を変えたりしませんよね」
「そうしないよう努力はするけれども」
身を乗り出してマネージャーの手を握った。「日下部さんのそういうところ、好きですよ」
彼はいまの発言に他意がないことを自分に言い聞かせながら、大げさにせき払いをやった。「あんたが森下家深窓の令嬢なら、どうしてじいさんを利用しないんだ。売り込み先をまちがえてるぜ」
森下氏は相当のご高齢ではあるものの、〈オデッセイ〉会長としていまだに権力を握っている。先だって一戦交えた経営陣なんかは鎧袖一触で全員吹き飛ばせるほどの。彼はさすがに腹が立ってきた。
「これは言わないでおこうと決めてたんだが、事情が変わった。あんたのとんちんかんな提案を無理にねじ込んだせいで、俺も倉本さんも本社から目をつけられる破目になったんだぞ。俺はともかく倉本さんは本社に栄転して、将来が嘱望されてたのに」
「そうだったんですか……」
「そうだったじゃない! あんたは無用な犠牲を払わせた」両手がわなわなとふるえている。「俺は協力してくれた倉本さんに返し切れない恩がある。あの人は気にするなと言ってたが俺は気にする」拳をテーブルに叩きつけた。「じいさんを頼らなかった説明をしてもらおう。納得のいく説明をな」
かすみは二回りほども縮んだように見えた。「あのう、怒らないで聞いてもらえますか」
マネージャーはなおも昂ぶり続ける怒りを抑えようと何度も深呼吸した。「場合によるが、努力はしよう」
「あたしのおじいちゃんがどんな人かはご存じですよね」
確認のためらしい上目遣い。日下部は口をへの字に曲げたまま、浅くうなずいた。
「身ひとつで会社を築いた人だから、コネで自分の意見を通そうとする人が大嫌いなんです。それは身内でも一緒なのね」
いまの説明で日下部は八割がた、すでに納得していた。とはいえあれだけガミガミやった手前、引っ込みがつかなくなってしまっていた。ぶっきらぼうに、「それで」
「最初は〈オデッセイ〉に入社して正攻法でやろうって決めてたんですけど、いざ就活してみるとどうもあたし、ひいきされてるらしくて」
人事担当を責めるのは酷というものだろう。会長は自他ともに認めるコネ嫌いとはいえ、その孫娘を落とすなんて畏れ多くてできるはずがない。試験結果にかかわらず内定させなければならない。それが令嬢にどのような影響をおよぼすかはこの際関係ない。人事の首がつながればそれでよいのだ。
「こんな調子じゃ入社後もひいきされっぱなしなのは目に見えてました。もしかしたらあたしの望みは叶ったのかもしれないけど、それで満足できるかどうかはべつの話です」
日下部はこの娘を絶賛したい気持ちの発露を押しとどめるのに苦心していた。なんとか平静を装い、「それで」
「正面から門を叩いて縁者びいきされるなら、側面から土足で踏み込めばいいんじゃないか。そう思ったんです」
「それで俺のところにきたってわけか」ようやく和解するタイミングが訪れた。「怒鳴ったりして悪かったよ」
「でもそのせいで日下部さんと上司の人に迷惑かけちゃったんですよね。本当にごめんなさい」
目前で妙齢の女性に泣かれることほど心胆を寒からしめるイベントもないものだ。慌てて話題を変えた。「俺たちを出世コースから外してまで超伝導棺桶を売り込みたい理由はなんなんだ」
「おじいちゃんの夢なんです」
「会長の夢だ?」
「忙しくてなかなかおじいちゃんにはかまってもらえなかったけど、会うときはいつも宇宙の話ばかりしてました。これだけ宇宙開発が進めば遠からず、俺たちみたいな一般人も宇宙に出られるようになる。もしかすみがこの重力井戸から脱出できたら、どんなだったか教えてくれって」
「宇宙がどんなだかを会長に教えてやるためなのか、こんな騒動を巻き起こした理由は」
「もちろんおじいちゃんのためでもあるけど、でもそれ以上にあたし自身が宇宙へいってみたいんです。突き詰めればそれだけなんだけどね」
日下部は彼女の気持ちが痛いほどわかった。ほとんど毎日物資が宇宙へ打ち出されている昨今、人並みの好奇心を持ち合わせてさえいれば誰だって、地球低軌道から大気に邪魔されない瞬かぬ星ぼしを見物したいと願うはずだ。
こんにちの宇宙開発事業の先鞭をつけた森下氏もそう思ったのだろうし、その孫も(祖父にある程度影響されたにせよ)そう思った。当然日下部も例外ではない。そう願っていたからこそ〈オデッセイ〉に就職したのだから。
身内にふつふつと沸き上がるなにかが彼を席巻した。それは日々の決まりきった仕事に埋もれて忘れていたなにかだ。困難に立ち向かう気概。いつかはいけるだろうと他人任せにしていた宇宙への憧れ。それに向かって邁進している尊敬すべき女の子。それらが混然一体となってマネージャーに襲いかかった。
「あんたと会長、それにたぶん徳さんと倉本さんもそうだろうな」日下部は口をへの字に曲げて、「俺がノミネートされてるのもまあ、認めないわけにはいくまい」
「さっきからなにをぶつぶつ言ってるの」
「〈宇宙狂リスト〉に名前の載ってる哀れなやつらをざっと読み上げたのさ」
まだよくわからないらしく、目顔で説明を求めている。彼は大げさにせき払いをやり、神妙に宣言した。
「俺の多いとはいえない交友関係のほとんど全員が宇宙狂なら、世界中に同類が一人もいないはずはない。そうだな」
「話の落着点が見えてきませんけど、その通りだと思います」
「もしそれが事実なら、超伝導棺桶は立派なビジネスになるはずだ。ちがうか」
「自信薄ですが、たぶん」
「にもかかわらず〈オデッセイ〉はそれをやろうとしない。やつらはでかくなりすぎておよび腰になってやがるんだな」
「日下部さんが役員たちとの対決に惨敗したという厳しい事実を見る限り、そうなんでしょうね」
「やつらがやらないなら、誰かが代わりにやってやればいい」
ようやく渉外マネージャーの意図がなんなのかを理解したのだろう、慌ててなだめすかし始めた。「あ、だめですよ。会社辞めて事業を立ち上げようとたくらんでるんでしょうけど、うまくいきっこない」
涼しい顔で指を振る。「うまくいくかどうかは俺たちの努力次第だろ」
「俺たち? もしかしてあたしも入ってるんですか」
「なに言ってるんだ森下。あんたがリーダーなんだよ」
額に手を当ててうつむいた。「あたしと日下部さん二人だけでやれますかね」
「倉本さんと徳さんも巻き込むさ。倉本さんは誰かさんのおかげで出世コースから外れたし、徳さんはもともと人の下で働くのが大嫌いな変人だから、喜んで飛びついてくるぞ」
「もしかしてあたし、とんでもないことに巻き込まれてる?」
「何度も言わせるなよ。巻き込まれてるんじゃない、森下が俺たちを巻き込んだんだ」
露骨にため息をついた。「そうでしたね、すっかり忘れてました」
* * *
ほどなくして〈オデッセイ〉から三人の離職者が出た。日本支社渉外部門から一人、同支社技術部門から一人、それに本社からも一人。
また大手海運会社からも将来を嘱望された女性社員が一人、辞職した。
それらと時期を同じくして、怪しげな法人が設立された。その名も〈森下超伝導棺桶製作所〉。登記簿の空欄を埋めている最中、彼らが正気であったかどうかは大いに疑わしい……。
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