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 三日月が、この界隈の仕事をはじめたのはまだニ年ほど前のことだった。  父のような存在であり、育ての親である“満月”と名乗るガタイのいい男は、すごく優しい。 「三日月、ちゃんと依頼は終わらせたか」 「うん。証拠、はい」  子どもが持つにしては大きめのクーラーボックスをガタンと机の上に置く。 「“半月”は後処理でもう少し遅くなりそう」 「そうか、分かった。ちゃんとできたんだな、偉いぞ」  満月の左目は黒い眼帯に覆われており、見えない。それでも、見えている右目は細められていて、微笑んでいることがわかる。  低い声にも、すっかり慣れた。 「依頼料は前払いだったからな、ちゃんとやらないと――」 「どうして」 「ん?」 「どうして、私に、殺させたの?」 「三日月……」  一週間前のことだ。三日月に、いや正確に言えば満月のところに依頼がきた。 “三日月の母が彼女に殺されたがっている”  満月と半月、それから新月。“新月”はいわゆる満月のパートナーで、満月が父ならば彼女は母のような存在。二人は夫婦ではないけれど、それに似ている。 「……あの人が、三日月のお母さんが君を訪ねてここに来た日のことは、もう話したろう」 「そうだよ。私は、もう何人も殺してきた。依頼されて、お仕事だから。子どもだと怪しまれないから。でも……」  お母さんなんて、殺したことない。  言いよどむ三日月のことを思ったのか、満月は椅子を引いて座るようにとポンポン座面をたたく。  素直にそこに座る三日月の頭を、よしよしと軽くなでた。 「あの人は、中学を卒業した三日月を捨てた。正確にいえば、追い出した。そうだったね」 「うん……」 「道端でうずくまる君を、俺が見つけて連れて帰ったのが二年前。俺たちが四人になってそれだけ経った」 「夫を病気で亡くしてシングルマザーになった三日月のお母さんは、男の人と一緒になるために君を追い出した。なのに、うまくいかなくなって、君に帰ってきてほしいといった。それを拒否したのは、三日月だ」  そう。だって、嫌だった。  一度は嫌悪したのに、手のひらを返したようにやっぱり好きとか。愛してるとか。  チープな人情ものの台本ありきなドラマならともかく、すっかり荒んでしまった三日月の心には何一つ響かなかった。 「お母さんは仕事がなくなって、家に引きこもるようになって、誰とも話さなくなって――生きるのをやめることを選んだ。だけど、迷惑をかけてしまった三日月に少しでもお金を残してあげたい。だから依頼してきたのだし、殺し屋をしていると知った彼女は、少し安心した様子だったよ」  そして、お礼も言ったらしい。  三日月を拾ってくれてありがとう。  面倒を見てくれてありがとう。  そんな重さもなにもない“ありがとう”は、どうせいつも色んな人へいっている愛想をふりまくための言葉。  そう、分かっていはずなのに。 「死ぬ前に、ありがとう、っていわれた」 「依頼した仕事をちゃんとしてくれて、という意味の?」 「最初は、そうだと思った」 「今は違うと思うのかい?」 「……生きててくれて、ありがとう、にも、思えた」  道端でうずくまっていたときは、もうお別れだと思っていた。何もかもから。 「あんな人でも、私を産んでくれたんだから……なのに……」 「三日月」 「なのに、殺しちゃった、私、仕事だからって……」 「三日月。君は仕事をしただけだ。プロである証拠だよ」 「私、お母さんを、ころしちゃっ……」  ぽろぽろと、あの時は、一緒に三日月を見上げた時は流れる気配すら見せなかった涙が頬をつたい落ちていく。  満月がそっと頭を抱き寄せた。 「……三日月が言いたいことは、なんだい?」 「うっ……、生きててくれて、ありがとうっていう、なら……お母さんにも、生きてて、ほしかっ……た……」 「殺させないでほしかった?」 「うんっ……なんで、私、泣いちゃうんだろう。殺したときも、あのクーラーボックスに入れる準備してる時も、泣かなかったんだよ。なのに、なんで……」  ふ、と彼が微笑むのが空気でわかった。 「人の気配というものは、不思議とわかるものだからね。いる時よりも、いない時のほうが。願望がそうさせるのかもしれないし、本当にそこにいるのかもしれないけれど」  それはつまり、幽霊になっているとか、そういう類のことで。 「……お母さんとは、別れる前、喧嘩ばかりしてた。ありがとうなんて言わなかったし、言われもしなかった、なのに、間際になって言うなんて……」 「きっとね」  ようやく三日月を解放する。やっぱり涙でぐしゃぐしゃの顔だが、満月がグイグイと優しく指先でこする。 「三日月には絶対に直接言いたかったんだと思うよ。手紙とかじゃなくて。死ぬ前に」 ――だったら。  だったら、男の人よりも、自分を選んでほしかった。  そのことに対する謝罪も含まれていたのだろうか。 「さあ、落ち着いたら新月の手伝いをしてもらうから、とりあえずご飯でも食べるかい?」 「……そうする。お兄ちゃんも、早く帰ってこないかな」 「半月は仕事が早いから安心しなさい」  三日月の晩にだけ、依頼を遂行する殺し屋の少女“三日月”。  口にはしないが、まだ涙ぐんだ目を、一度だけゆっくり閉じた。 ――お母さん、ありがとう。  今度、会えた時は。喧嘩なんかせずに、ちゃんとお礼を言うんだと心に決めた。
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