元型探偵と眼鏡少年の空想工房

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元型探偵と眼鏡少年の空想工房       一  深々と雪が降り積もっていた。  辺りには花巻桃自身の息遣いと、雪を踏み鳴らす音しか聴こえない。桃にはそれが途轍もなく怖かった。  浅く積もった雪を踏み締めながら、姉の元に進む。  姉の桜は、桃の接近に気付いていないのか、微動だにしない。積雪の上に横たわる桜に、足下から近付くと、声を掛けた。 「お姉ちゃん…」  しかし桜はピクリとも反応しない。  桃は雪の上に跪くと、桜の肩を掴んだ。桜の体はまだ暖かかった。目を瞑って眠っている様に見える。とても死んでいる様には見えないし、そう思いたくもなかった。 「お姉ちゃん…返事して」  桜の鼻孔から、赤い滴が一筋垂れた。それを見た桃は、弾かれた様に大声を出して、姉の名を呼んだ。  そこに遅れて来た蒼井和花が現われ、取り乱す桃を宥めつけた。 「今、フロントに救急車を呼んでくれるように頼んだから、落ち着いて…」  その言葉に桃は落ち着きを取り戻したが、直ぐに眩暈を覚えてしゃがみ込んだ。  和花は浴衣だけの桃に、着ていたホテルの羽織を与えた。そして、その下に来ていたジャージの上着を脱いで、横たわる桜に近付く。 「桜…大丈夫?寒くない?」  返事は無いだろうと察しながらも、声を掛けて桜の体にジャージを掛けた。  桜の鼻孔から伝う血液は、積雪を染めて見る見る内に広がって行く。  ふと視線を感じた。自分や桃以外の誰かが、この凄惨な雪景色に視線を送っているような気がした。  思わず空を仰ぐ。雪の結晶が眼鏡にとまる。  夜空を覆う雪雲が瞼の様に裂け、そこから丸みを帯びた黄色い月が蛇の眼のように覗いていた。和花は暫く月と見詰め合った後、眼鏡を拭うために視線を落とした。  空に開いた一つ目のすぐ下に、二本の無機質な太い線が走っていた。ホテルの新館と旧館を結ぶ、二階と六階にあるコンクリート製の渡り廊下だ。六階の渡り廊下の窓の一つが開いている。桜はあそこから転落したのだろうか。  ふと、旧館六階の窓を見ると、幽かに光っているのに気付いた。  旧館に潜む幽霊は、己に課せられた苦悩を、誰かに訴えるように呻きをあげると云う。  そう聞いたのを思い出した。  その日の朝、六台のバスが京都を目指していた。バスの先頭が峠を登り始める。降雪で白銀に染まった東山の景色が、バスの車窓に緩やかに流れて行く。  慧心高校の三年生を乗せた六台のバスは、京都の洛中に向かって東山に差し掛かったばかりだ。  修学旅行に向かう生徒を乗せて、昨夜東京を発ったバスの一団は、予定では翌朝の八時には京都の洛中に到着する筈だった。  朝の通勤ラッシュの渋滞に引っかかり、バスはやや遅れている。  バスが移動している間、生徒達は車内で眠りに就いていた。その生徒達も既に目を覚まして、朝の一時をバスの中で過ごしている。  二台目を走る、B組の生徒が乗るバス。その最後部の席に、黒縁眼鏡を掛けた少年、蒼井和花は座っていた。そして隣の座席の、長髪の少年黒崎夢路から、彼が持参した珈琲を別けて貰い、車窓の景色に眠気眼を擦りながら見惚れていた。  初めてバスの中で一夜を過ごした和花は、あまり眠れなかった。  隣に座る夢路は、寝不足の和花と違い、溌剌としている。野球部に所属する野球少年の夢路は、早朝からの練習のために早起きする事も多いのか、 「部活に行く前に珈琲がぶ飲みして目ぇ覚ましとかなあかんねん。せやからこれは必需品や」  と言って、水筒から珈琲を、カップの代用となるそのキャップに注ぐと一気に飲み干した。  そして和花が一杯飲み終えると、 「まだ眠そうな目ぇしとるから、もっと飲んだ方がええ」  と矢継ぎ早に次の一杯を注いで来た。 「うわっ、もういいって。珈琲ばっかりそんなに沢山飲めないよ」  和花が注がれる珈琲を制して、それでも更に注ごうとする夢路から逃げようと、カップを持ったまま座席の上で体を捩る。  和花の左手に握られたカップを逃がさないようにと夢路は右手でそれを掴み、和花は夢路が左手で持つ水筒を近寄らせないために右手でそれを掴んで押しのけようとする。  二人はプロレスでもやっているように組み合っている状態だ。  しかし身長百八十センチの大柄の夢路の腕力の前に、百七十センチに満たない和花の力では太刀打ち出来ず、押され気味だ。  するとそれを見た、バス中央の座席に居た花巻桃が二人に近寄って来て言った。 「あはひひほ、ほうらい(私にも頂戴)」  桃は口の周りに泡を付けて、歯ブラシを咥えている。 「バスの中で歯磨きするなよ」  和花が呆れて思わず腕の力を抜いた。  その機を逃さず、夢路が一気に珈琲を和花のカップに注ぐ。  注がれすぎて、カップから溢れる珈琲。 「あああああっ」  和花が悲鳴を上げるが、時既に遅く学生服の股間の辺りは珈琲の洪水だ。 「で、なんやねん、桃」  夢路が満足した顔で、桃に振り返って訊く。 「あんた達だって、プロレスやってるんだから歯磨きぐらい良いでしょ。珈琲頂戴って言ったのよ」  桃は歯ブラシを抜くと、和花をその歯ブラシで突っつきながら言った。  すると和花が情けない声で嘆いた。 「プロレスはパンツを濡らしたりしない」 「珈琲やったら幾らでもあるから、くれたるで」  そこにマイクのハウリングが響いた。運転席の横で、担任の春野琴乃がマイクを手にしていた。彼女は慧心高校に赴任したばかりの教師で、担当教科は美術だ。 「みんな起きているかしら?まだ眠っている子がいたら、起こしてあげて」  春野先生が本日の予定を簡潔に説明する。初日の今日は、金閣寺を初めに、清水寺、伏見稲荷大社と巡り、夕方にはホテルにチェックインする。春野は、その他に旅行中の心得や注意事項を指導するとマイクを置いた。生徒達は、春野先生が話し終えると、また各々の一時に戻った。 「今度のサークルの会報の事なんだけど…」   桃が和花に話しかけた。桃は和花とともに、小説の創作サークルを主催している。  妖怪人形師六角堂の恋人綾音が殺害され、その霊魂が彼の製作した妖怪人形に宿り、二人はその犯人を推理して追い詰めて行く。和花は、そんな三文推理小説のシリーズを書き綴ってていた。 「桜は、どんな作品を寄稿するって?」  サークルには、桃の双子の姉の花巻桜も参加している。 「また恋愛小説じゃないの。あ、お姉ちゃんだ」  桃がリアウィンドウから後続車に手を振った。和花も釣られて振り返る。C組の生徒達が乗る後続車のフロントガラス越しに、桃の双子の姉が、こちらに笑顔を向けている。  姉妹は瓜二つの顔立ちだが、姉は縁無眼鏡を掛けているので見分けはつく。  花巻姉妹と幼馴染の和花は、子供の頃、良くこの姉妹に騙された記憶がある。  当時まだ二人の個性の発達は著しくなく、同じ髪型に同じ服装、性格の差異も僅かで喋り方にも違いが見られなかった。  三人で鬼ごっこをしていると、鬼が居ないはずの方向から、不意に鬼が現れ、捕まる事があった。今思い返すと、双子の見分けが難しいのを良い事に、姉妹はその場の都合で鬼役を持ち回りしていたのだ。 「弁当配っとる」  夢路の声に振り返ると、春野先生が学級委員長の椿鈴菜に、弁当屋のロゴの入ったダンボールを開けるよう指示している。  ダンボールを抱えた鈴菜が弁当を配る。和花や、席に戻った桃も弁当を受け取り、車内のささやかな朝食は恙無く進む様に見えた。しかし桃がサンドイッチを口に運ぼうとすると、隣の座に戻った鈴菜が、黒目の大きい瞳を眼鏡の向こうから輝かせて話し掛けた。 「桃ちゃん。あれ、どうなりました?」 「あれ?」 「手作りチョコレート。今日二月十四日です。もう蒼井君に渡したのですか?」 「まだ渡してないわよ、何で聞くの…?」  桃は赤い顔で俯き、膝の上で手をギュっと握った。 「だって気になります、恋の行方…」 「勘違いしないでよね、義理チョコなんだから!」 「義理って、たった一つだけの手作りチョコなのにですか」 「あいつサークルの管理人として結構頑張ってくれてるしさ。たまには御褒美あげようかなって」  春野の声が響いた。 「もうすぐ金閣寺に到着するから早めに朝食を済ませてね」  鈴菜は仕方なく食事に戻った。 (助かった…)  鈴菜の追及を逃れた桃は、内心ホッと胸を撫で下ろした。  バスは、まだ皆の朝食が終わらない内に、通称金閣寺と呼ばれる鹿苑寺の駐車場に到着した。生徒は順番にバスから降りると、そのまま鹿苑寺の境内に入って行く。まだタマゴサンドを咥えたままの和花も、境内に繋がる木製の門を潜り、舎利殿金閣を目指した。  その日の金閣は前日の積雪で雪化粧が施されていた。  金閣を取り巻く鏡湖池の畔で、花巻姉妹が話し込んでいた。 「ちょうど雪の後の景色のいい日に来たわね。桃、金閣と一緒に写真撮りましょう」 「あ、和花、丁度良いわ、あんたシャッター押してよ」  桃がスマートフォンを持って近寄ってきた。 「じゃ、二人でポーズ取って」  和花は快くそれを受け取ると、レンズを向けて撮影ボタンを押す。 「鹿苑寺っていつ頃建立されたんだろ」  鏡湖池の周囲に設えられた木製の手摺から身を乗り出して、桃が訊いた。 「室町幕府将軍足利義満が、応永四年から、鹿苑寺の前身の北山殿の造営に着手したと云われている。でも応永から、そのままの姿な訳じゃないぞ。応仁の乱で西軍の陣となって、金閣を除く多くの堂宇を失い、仏像も多数が紛失している」  三人の背後から口を挟んだのは、担当教科が日本史でC組担任の、関夏彦先生だ。 「長い波乱の歴史の中を生き抜いてきたんですね。悠久の時を感じます」  桜が感慨深く金閣を見つめる。 「これから行く伏見稲荷大社も、応仁の乱で戦禍を被ったはずだ。京都は戦乱が多ったからな」  そして関先生は鏡湖池を廻ろうと三人を促した。  その後、生徒達は再びバスに乗り込むと、清水寺に向かった。   バスは、清水寺から少し離れた駐車場で生徒を下ろした。  そこから歩いて清水寺に向かう。  清水寺に至る表参道の清水坂には、道の両側に土産物屋が軒を連ね、参詣客で混雑していた。その中を、和花と夢路、そして桃と鈴菜の四人は連れ立って歩く。 「あ、見えて来たよ。あれが清水寺じゃない」  桃の指差す先に姿を現したのは仁王門。この室町時代の仁王門を潜ると。桃山時代に造られた鐘楼と、高さ三十一メートルの三重塔が目に入る。本堂の総檜皮葺きの屋根も徐々に近づいて来る。  清水寺の本堂は正堂を中心に南側が礼堂に繋がり、礼堂の前に有名な清水の舞台が広がっている。御本尊は十一面千手観音だ。  本堂に入ると、将来、大学で仏教史を学ぶつもりでいる夢路が解説を始めた。 「観音信仰は補陀落山信仰と共である事が多くてなあ。観音がその補陀落山に住むとされているため、この清水寺も補陀落山に見立てた山の中腹にお堂が建っとるんや。せやから、山腹に造るために、巨大な柱の上に舞台造りで建てられとる」  桃は、そんな夢路を無視して本堂から飛び出ると、清水の舞台の上で辺りを見回した。  そして鈴菜に耳打ちした。 「恋愛成就の地主神社ってどこ」 「本堂の北側です」  桃の顔が明るくなる。 「ちょっと夢路、和花。今から鈴菜とあっちの方に行くけど、付いて来ないでね」 「あっちの方って、えらいアバウトやな」 「兎に角、ついてくんな!」  そういうと、桃と鈴菜は本堂の北側に走って行った。 「なんやねん、あのふたり」  夢路がぼやきながら、舞台の手摺に腰掛ける。 「地主神社だよ。恋愛成就で有名な」  和花が舞台から見える洛中を眺望しながら言った。 「なるほどなぁ、あいつそんなん好きやなぁ」 「それより、危ないから手摺から降りてくんない」  清水の舞台は、高さが十三メートルあり、眼下は錦雲渓と呼ばれる渓谷だ。 「突風でもない限り、落ちたりせえへん」  しかし次の瞬間、その突風が吹いた。  夢路の悲鳴が音羽山にこだました。 「今、何か聞こえた気がします。夢路君の声に聞こえたような」 「歌でも歌ってるんじゃないの。それより御神籤引かなきゃ」  桃は社に参拝すると、手首のミサンガにも願いを込めて御神籤を引いた。 「大吉!」  その感動を伝えるために、桃が駆け足で舞台に戻ると、手摺の外側に夢路が逆さまにぶら下り、和花がその足を掴んで引き上げようとしていた。  周りには参詣客が集まり、大騒ぎとなっている。 「拷問?」  桃が訊ねると、和花が苦しそうに叫んだ。 「拷問なわけ無いだろ、手伝ってよ!」  桃も慌てて夢路の足を掴む。  夢路の足を掴むために、手摺から身を乗り出した刹那、舞台の下に桜と関が居るのが見えた。 「あ、お姉ちゃーん」  足を離して、両手を振る桃。 「何やっとんねん、早く引っ張り上げたって!」  再び夢路の悲鳴がこだました。    舞台の下に居た桜と関は、その一部始終を目撃し血の気が引いていた。  しかし和花と桃の助けで、夢路の身体が引き上げられると、二人は安心してそれまでの話題に戻った。 「京都って、そんなに鬼や妖怪に関する怪異譚が多いんですか」  桜が目の前の『阿弖流為・母礼の碑』を見詰めながら訊く。 「この阿弖流為は征夷大将軍坂上田村麻呂と戦った蝦夷のボスだったために、朝廷から怖れられて悪路王という鬼のモデルとなったんだ。桜がさっき言った大江山の鬼、酒呑童子にも実在したモデルが居たかもしれないな」 「橋姫伝説と云うのも、鬼の伝説なんですか」 「夫の浮気を恨んだ女性が貴船神社に詣でて鬼女になり、夫と浮気相手の女性を呪う伝説だね。桜は京都に伝わる古典文学に出てくるような怪異譚が好きなのかい」 「いえ、私ではなく、妹の方がその手の文学が好きなんです。その妹の同人小説に、橋姫の話しがちょっとだけ出て来ていたので…」  桜は目を瞑ると、鬼女と化した橋姫に思いを馳せた。   清水寺をでると、バスは修学旅行一日目の最後となる伏見稲荷大社に向かった。  途中、春野先生がバスの中で講義をはじめる。 「和銅四年二月の初午の日に、秦伊呂具が稲荷山の三カ峰に社を造ったそうよ。伏見稲荷大社では初午の祭礼というものがあるけど、これは伊呂具が社を造った日に因んでいるの」  夢路が挙手する。 「伏見稲荷名物すずめ焼きって美味いんですか」 「私は美術の教師だから、すずめが美味しいかどうかなんて知るわけないでしょ」  車内に微かな笑いが洩れた。  秦伊呂具は、ある時、餅を的にして弓矢に興じていた。  すると餅が白い鳥になって空に羽ばたいた。白い鳥は山の峰に飛んで行って止まり、そこから稲が生えた。その霊瑞に感謝の意を込めてて社を造営したのだという。つまり稲が生っていたので、イネナリからイナリ、伊奈利と呼ばれる様になった。また、その伊奈利の化身である老翁が稲を荷って現れた事から、伊奈利の表記が稲荷に変ったとも謂う。  そんな伏見稲荷大社の門前の商店では、稲を荒らす事で知られる雀を焼き鳥にして売っている。  桃と和花は、朱色の大鳥居の前でバスを降りると、本殿に参拝するよりも先に『すずめ焼き』を買いに走った。 「本当に雀の焼き鳥売ってるよ。すぐに夢路を連れて来て」  桃が命令を下すと、和花は夢路を連れて戻って来た。 「さっき助けてあげたお礼として、すずめ焼き奢って欲しいの」  桃に言われて、料理屋の軒先を見ると一本七百円と書いてある。 「結構なお値段やんけ!」 「清水の舞台から飛び降りたつもりで、ちゃちゃっと奢りなさいよ」 「いや、あれ落ちたらマジ死んでまうわ!」  結局、夢路はバイトで稼いだ小遣いから、二人にすずめ焼きを奢った。和花はすずめ焼きを手にすると、その場では食べずに、歩き食いしながら一人で本殿に向かった。  山麓にある五間社流造りの丹塗りの本殿で参拝を済ますと、奥社奉拝所にも足を運ぶ。本殿の裏から奥社奉拝所に向かう参道には、千本鳥居と呼ばれる奉納された無数の朱の鳥居が、延々と並んでいてトンネルの様に成っていた。  奥社奉拝所に着くと、桜が絵馬を結んで願掛けしているのが見えた。和花が訊ねると、受験の合格祈願だと言う。二人は長椅子に座って暫く話し込んだ。 「チョコはもう食べたの?」  唐突な質問に、和花はたじろいだ。 「何の事?」 「妹の手作りチョコレートよ。今日はバレンタインデーでしょう」 「何それ、聞いてないけど…」  桜は、まだ妹はチョコを渡していなかったのだと知り、余計な事を喋ってしまったと俯いた。 「御免なさい、もう受け取ってると思って…」 「桃が僕にチョコをくれる予定なの?」  「うん、和花にあげるんだって、一生懸命作ってたわ」 「何時どのタイミングで渡して来るんだろう」  恥ずかしくなった和花は、それを誤魔化すために桜に訊いてみた。 「桜は、誰かにチョコを贈らないの?」 「私は、以前は渡したい人が居たけど、今はもう…」  和花はそれを聞いて、桜に彼氏が居たなんて初めて知った、と驚いた。しかし桜は首を振った。 「片思いだったから彼氏じゃないよ。その人、彼女さんが居るから、愛情の籠もったチョコレートを貰ったんじゃないかな」  寂しそうな顔をする桜を見て、和花は精一杯励ましてみた。 「恋なんて、何時でも何処でも自由にして良いんだから、新しい恋を探しに行こうよ。そしたら寂しさなんて、過去の産物さ」  すると桜は少しだけ微笑んだ。      二  夕方五時。慧心高校の生徒は東山にあるホテル華京亭に到着した。  華京亭は新館と旧館の二棟あるが、旧館は耐震性の問題があり現在は使用されていない。  新館には、一階の北側半分にはレストランが、二階の南東の角にはカフェバーが、そして屋上は枯山水の庭園になっている。生徒達はホテルに着くと、まず各々割り当てられた自分の部屋に向かった。桃は鈴菜と、和花は夢路と同じ客室が割り当てられた。その客室は全室オートロックの和室だ。 「夕食まで時間があるから温泉行かない?」  桃がバッグからバスタオルを取り出して提案した。    B組の生徒は、皆五階に宿泊している。  桃と鈴菜が部屋を出て、檜の廊下を進んでエレベーターホールに向かうと、和花と夢路に鉢合わせした。  一階に着くと、レストランの横を通って通用口に向かう。通用口の隅には、サンダルが入れられた篭が設置してあった。四人はスリッパを脱ぐと、その篭からサンダルを取り出して履き替えた。そして扉を開けて外に出る。外はパラパラと雪が舞っていた。  洛中に向かって西向きに建てられた華京亭は山麓にあり、東側は切り立った崖になっている。断崖には葛折りの階段が設えられていて、そこを登ると山の中腹に露天風呂の温泉がある。二階にも露天風呂の源泉から温泉を引いた大浴場があるが、四人は露天風呂を選んだ。  階段を登り切り、浴場の北側に位置する小屋の中に入ると、『男』『女』と書かれた暖簾が下がっていた。女湯の脱衣所は暖簾を潜ると直ぐだが、男湯の脱衣所は暖簾を潜って、浴場の南側まで回りこむように廊下を進んだ先にあった。  浴場の西側には、転落防止の腰ほどの背丈の柵があるが、眺めを遮る事はない。夕闇の洛中が望める絶景のロケーションだ。そして、この温泉は冷泉を沸かしているため、男湯の南側にはボイラー室と書かれた開き戸がある。  露天風呂には先客が何人かいたが、それ程混んでなかった。  和花と夢路は湯気の立つ湯船に足から浸かった。 「怪談会だけど、メンバーどうする?」  和花が顎までお湯に浸かりながら訊いた。 「狭い部屋やし、あんまり人数集めてもしゃあないやろ。今の所、桃と鈴菜、それにC組の桜と関先生やろ。そんなもんでええんとちゃう」  突然、桃の声がした。 「怖がりの春野先生が居た方が盛り上がるかも」  男湯と女湯を遮る仕切りの上から、男湯を覗き込んでいる。 「何やっとんねん自分!犯罪やんか!」  夢路と和花は恥ずかしさに赤面した。 「えへへ、特等席見つけちゃったの」  桃は女湯の植木を足場にして、男湯を覗いている。 「そういう事は逮捕される前にやめた方が良いと思います…」  鈴菜の戸惑った声が、男湯にも聞こえた。そこに女湯から春野先生の声が響いた。 「何やってるの花巻さん!そこから降りなさい!」  その後は、桃の頭が引き摺り下ろされて、叱り付ける春野先生の声だけが、延々と聞こえていた。  和花と夢路は風呂から出ると、脱衣所前の長椅子に座り、桃達が出てくるのを待っていた。程なくして三人が女湯から上がって来た。 「春野先生、怪談会に参加してくれるって。春野先生、出身が京都だから、京都に纏わる怖い話しも知ってるらしいの」  桃が笑顔で言う。 「何や同じ関西人やんか。いつも共通語喋っとるから判らへんかった」 「出身は京都だけど、十代の頃に関東に引っ越したから、怖い話しを知ってると言っても、あんまり詳しくはないわ。古典文学に出てくるようなベタな怪談しか知らないけどいいの?」 「別にベタでもええやろ。おもろかったら何でもオーケーですわ。ほな夕飯終わったら、わい等の部屋に集合やで」 夕食が終わると、怪談会の参加者は、夢路と和花の部屋に集合した。 二人部屋に七人が集まったので、足りない座布団は、仲居さんに頼んで特別に借りた。、  それを円陣を組むように並べ、中央に蝋燭を乗せた小皿を置いて、部屋の電気を消した。  まず夢路が『生首女』の話しをして、和花も『泊ると死ぬ旅館』の話しをした。 「ほな次は、春野先生の京都に纏わる怪談お願いしますわ」 「そうね、うーん、怖い話し…。皆は貴船神社って知ってるかしら」  春野は少し考えた後、蝋燭の灯りに浮かび上がる皆の顔を見回した。 「聞いた事あります。関先生が話してくれた橋姫伝説の神社ですね」  桜が思い出して言うと、関は頷きながら桃に説明した。 「桃の小説に橋姫の話しが出てきたそうだが、その橋姫が鬼に成るための祈願に通った神社だよ」  その同人小説は、丑の刻参りを扱った物で、その枝葉末節に橋姫伝説が少しだけ紹介されている。しかし、それを書いた桃自身、橋姫伝説を詳しくは知らないため訊いてみた。 「橋姫伝説って、どんな話しなんですか。丑の刻参りには、鬼に成るための儀式の姿が受け継がれているって、本で読んだんですけど…」  すると春野先生は、頭の中で話しを整理しているのか、少し間を置いてから話し始めた。 「中世の時代の話しだけど、ある女性が旦那さんに浮気をされて、復讐のために貴船神社に詣でたの。そして『願わくは七日籠もりたるしるしには。我を生きながら鬼神に為してたび給え。妬ましと思いつる女とり殺さん』と祈願したの。すると貴船神社の神様が現れて鬼神に成る方法を教えてくれたのよ」 「鬼神になる方法なんてあるんですね」  和花がその息で蝋燭の炎を揺らしながら聞くと、春野は一息置いてから続けた。 「その方法は、頭に鉄輪を被り、その鉄輪に松明を灯したりするそうよ。頭に蝋燭を縛り付ける丑の刻参りのスタイルに似ているかもしれないわね。その後、鬼神に成った女性は、旦那さんをとり殺そうとしたけど、陰陽師安倍晴明の助言と加護を受けた旦那さんに撃退されてしまうのよ」  春野は、この話しをしながら、過去に起こった児童失踪事件を思い出した。    もう随分昔の事だ。ある日、小学生の姉妹が行方不明になった。  その日、姉妹は、二人で神社に遊びに行くと言って家を出た。しかし夕方になっても帰宅せず、家族が神社も含めた付近を探したが見つからない。警察に捜索願いを出したが、その日は見つからず、捜索は翌日に持ち越された。翌日、捜索範囲を広げても姉妹はみつからなかった。 「もう一回、御先祖様にお願いしてくるわ…」  絶望的気分になった父親は母親に告げると、娘達の無事を祈るために仏間に向かった。  しかし父親が仏間の襖を開けると、そこに行方不明になっていた姉妹が座っていた。 「二人共…何時からここに…」 父親が驚きながら問いかけると、姉妹は泣き始めた。 「…おばちゃんが…帰してくれた」  姉が半泣きで言う。 「橋姫のおばちゃん…角があって、牙がすごかったわ」  妹は呟くと畳に倒れた。それを見て姉は号泣しながら、妹の名前を呼び続けた。    春野はその事件を思い出し、何かを振り払う様に首を振った。 「春野先生…どうしたんですか、急に眼を瞑って黙ってしまって…」  関が心配そうに訊く。 「ちょっと気分が悪くなっってしまって」 「気分が悪いなら部屋に戻った方がいいかもしれません」 「は…はい。では、そうします…」  春野はフラフラと立ち上がった。 「途中で倒れたらいけないから、私は送っていく。みんなは話を続けてなさい」  関も一緒に立ち上がり、春野に付き添って部屋を出て行った。 「何や、怪談するムードやなくなってもうたな」 夢路がぼやく。  そこに一人の仲居が部屋を覗きこんだ。 「みんな、怪談盛り上がっている?」 「さっき座布団貸してくれた仲居さんや」 「私も怪談大好きでさ、様子伺いに来ちゃった」 「そうなんや、今二人減ってもうたとこやねん。仲居さんも参加したらどうですか」 「え、いいの?」  仲居は皆に笑顔を向けて、部屋に入って座布団に座った。 「私、岩田香織っていうの、宜しくね」  夢路が歳を訊くと、今年二十歳になると言う。夢路達より一つ上だ。 「香織さん、共通語やけど、京都の人やないんでっか」 「一ヶ月前に京都に引っ越して来てこの仕事を始めたのよ」 「ほな京都の怖い話しは、あんまり知らへん?」 「先輩の仲居さんから聞かされた京都に纏わる怪談なら知ってるわよ」 「ほな、その話しお願いします」  全員が拍手する。 「このホテルの、今は使われてない旧館から、誰も居ない筈なのに、夜な夜な苦悩に満ちた人の呻き声が聴こえて来るらしいのよ。それでね…」  怪談会が終わり、自分達の部屋に戻っていた桃と鈴菜は炬燵を挟んで相談していた。 「本当に今から渡すのですか?」 「うん、今からメールでカフェバーに呼び出して渡そっかな」  桃の中で、和花にチョコを渡す覚悟が出来ていた。桃は早速、カフェバーに来て欲しいと、和花にメールをした。  返事が来るまでは少し時間がかかるだろう、桃はスマホの画面をジッと見つめた。室内に一時の静寂が訪れる。 「来た来た!」  着信音が響くと同時に、桃の顔が明るくなる。 「和花、来るって。じゃ、私も行って来る」  鈴菜の応援を背中で受けつつ、桃は部屋を出た。  その頃、花巻桜も四階の部屋に戻って、同室の吹雪涼子と雑談していた。 「じゃあ、あの人にはチョコを渡すつもりはないのか?」  切れ長の瞳に、男らしい口調の吹雪。そんな吹雪に訊かれると、質問されていると云うより尋問されている気分になる。 「もう、先生には、そういう感情は抱かない事にしたの。だからチョコなんて…」 「この前の文化祭で知り合った他校の荻原君はどうなんだ?」 「たまにメールしてるけど、チョコをあげるレベルの関係ではないわよ」  そこに入り口の引き戸をノックする音が響き、関先生の声が聴こえた。 「吹雪、居るか。来週の試合に備えて、バスケ部のミーティングを開くと大崎部長から伝言だ、二階のカフェバーに集合してほしいそうだ」 「分かりました。着替えてから行きます」  吹雪が張りのある低音の声で応えた。 「じゃ、ちょっと行って来る。話しの途中だったのに御免な」  吹雪は慌ただしく部屋を出て行った。残された桜は、暫く炬燵の横の姿見を見詰めていたが、ふと和花の言葉を思い出した。 (恋なんて、何時でも何処でも自由にして良いんだから、新しい恋を探しに行こうよ。そしたら寂しさなんて、過去の産物さ) 「和花は優しいな…」  そう呟いて、携帯を手にした。  吹雪が部屋から出てくると、柱の陰に身を隠した人物が居た。そして吹雪がエレベーターに乗るのを見届けると、桜一人しか居ないはずの部屋に向った。  しかしここに来て突然足が震えだした。今ならまだ引き返せる。 「覚悟なら、もう決めているはず。何を今さら…」  そう自分に言い聞かせると、震える足を進めた。     桃がカフェバーに着くと、入り口の脇にバスケ部の集まりが。そして右奥の窓際の席に和花が座っていた。だが何故か、和花だけではなく夢路も一緒に居る。 「何で夢路も一緒に居るのよ」 「一人で来いとはメールに書いてなかったから、二人で来ちゃったよ、御免」  和花が申し訳なさそうに謝る。 「わざわざ呼び出して、和花に用て何やねん」  口の軽い夢路が居る前で、堂々と和花にチョコを渡す訳にはいかない。なるべく人知れず手渡したかった。  だから桃は咄嗟に嘘を吐いた。 「あの、ほら。お姉ちゃんの事で相談したかったのよ」 「桜の事?もしかして失恋の話し?」  和花は、昼間に伏見稲荷で聞いた桜の話しを思い出した。 「うん、夢路が居る前で話していいか判らないけど、その話し」 「何や、桜、失恋したんか」 「相手はどんな人なの」  桃は、姉が多くは語らない失恋について、二人に教えて良いのか迷ったが、戸惑いつつも語り始めた。 「お姉ちゃん、去年から受験の事で悩んでて、情緒不安定になちゃってね。でも、そんな時いつも相談にのってくれてたのが、進学塾の滝川先生なの」 「塾の先生なら受験の相談にのってくれてあたりまえや」 「それでね、お姉ちゃん、色々と相談にのってもらってるうちに、滝川先生の事を好きになっちゃったらしいの。でも滝川先生には彼女がいるし、自分は未成年だから、告白せずに諦めたみたい…」 「そんな事があったんだね」 「ほな桜を呼んで、励ます会、開こうや」 「それ賛成。お姉ちゃん喜ぶかも」 「今から?もう消灯時間の二十三時だよ?」 「かまへん、かまへん。消灯なんて気にせんでええわ」  桃がスマホを取り出し、桜に電話する。しかしマナーモードに成っているのか、留守番電話の応答メッセージが流れた。 「出ないよ、何してるんだろう。とりあえずお姉ちゃんの部屋に行ってみる。直ぐに連れて来るから待ってて」  そう言って、桃は店を出て行った。    桃が姉を探しに行って二十分が過ぎた。バスケ部員もミーティングを終わらせようとしている。 「雪やな」  夕方から振り出した雪は一旦止んだが、再び深々と降り始めていた。 「遅いなぁ。わい等も探しに行こか」 「そうだね、三人で探した方が…」  夢路と和花が、そう言って席を立った瞬間。二人が居た窓際の座の、その窓の外を桜が通りすぎた。正確には、落下していった。和花は、その桜の顔を至近距離から見る事になった。  桜の身体が地面に叩きつけられて、衝撃音が響く。  轟音に驚いて、バスケ部員も窓際に集まって来た。その中に居た吹雪は、眼下に見える光景に小さく悲鳴を上げた。そこには、糸の切れた操り人形のような無造作なポーズで、積雪の上に桜が倒れていた。    三 「雪の中、御苦労様です」  賀茂警部補が現場のホテル華京亭に着くと、中嶋巡査が出迎えた。 「転落死やて?どっから転落したんや」 「ホテルの六階にある、新館と旧館を繋ぐ渡り廊下の窓が開いていて、そこに履いていたスリッパの片方が落ちていました。倒れていた位置からも推測すると、その渡り廊下の窓から転落したのではないかと思われます」 「鶴田さんが、自殺やないかもしれへんて、電話で言うとった。遺書なんかは有らへんかったんか」 「転落したと思われる渡り廊下や宿泊していた部屋、御遺族の許可も取って手荷物も調べましたが、それらしい物は見つかりませんでした」  ホテルの裏庭に着き、ブルーシートで覆われた遺体が見えた。遺体の脇に居た鑑識の鶴田と、先に到着していた山寺刑事が、賀茂の姿を見つけて声をかけた。賀茂は遺体の前で黙祷してから、返事をした。 「ども、お疲れさんどす。片方のスリッパが上に残されてたて、もう一方は仏さんが履いとったんですか」 「遺体の近くに落っこっとったから、片方だけ履いて落ちたんやろな」  鶴田が眼鏡に付いた雪を、ハンカチで拭きながら答える。 「確かに投身自殺ていうたら、履物揃えるのが昔は定番やったけど、自殺とちゃうかもしれへん言うのは、それが理由でっか?」  賀茂が納得いかない様子で鶴田を見詰める。 「いや、それだけとちゃうねん。仏さんのな、このジャージのポケットん中に見てみい」  鶴田はそう言うと、ブルーシートを捲った。遺体のジャージのポケットが、不自然に膨らんでいた。 「このポケットの生地引っ張ったら中見えるけどな、京都のあちこちの寺社やギャラリーの割引券が仰山詰まっとんねん」 「割引券?」  賀茂が怪訝な顔で聞き返す。山寺が鶴田に代わって説明を続ける。 「これ、ホテルのあちこちにサービスで置いてあるもんなんですわ。先生方に聞いたら、今日はバスを使っての団体行動やったけど、明日は班ごとの自由行動になるさかい、その自由行動の際に使うために、割引券を集めたんとちゃうかて言うとりました」 「なるほどな、自殺する前に、明日行く観光スポットの割引券集めて、それをポケットに詰めて飛び降りるんは、おかしいんとちゃうかと…」  賀茂は、腕組みをしながら、やや納得した様子で首を立てに動かした。 「そういう事ですわ。まあ、翌日の予定を組んで自殺する人間なんか幾らでも居るから判らへんけどな」  鶴田が眼鏡を顔に戻しながら言った。 「ほな仮に自殺の線を外したとしたら、事故か他殺いう事になりますな。遺書なんかは遺されておらんて中嶋が言うとったけど、そうなんか?」 「転落したと思われる渡り廊下に、携帯電話が転がっとりまして、その中に遺書があるかもしれへんけど、セキュリティロックが掛かっとって、中を見れへんのですわ。さっき花巻桜のご両親に連絡した時、ロックの解除番号訊いてみたんやけど、知らんみたいで、確認が出来まへんねん。因みに、ご両親なんですけど、お子さんの修学旅行に合わせて、海外旅行に行っとって、遺体を引き取りに来るのは明後日になるそうですわ」  山寺が応える。すると鶴田が思い出して言った。 「生徒ん中に、花巻桜の妹はんが居ったやろ。妹はんやったら、ロックの解除番号判らへんか?」 「何や、妹が居るんなら聴取もしやすいやんけ。携帯電話のロック解除番号は訊いてへんのか」 「すんまへん。妹さん、さっきまで取り乱しとったから、訊かれへんかったのですわ。その妹の花巻桃と、仏さんと最後に会話した吹雪涼子て生徒も、一緒にまだ大広間に待機させとります」 「よっしゃ、ほな先ずは渡り廊下に寄って、それから妹と吹雪っちゅう生徒に話し聞いてみよ。中嶋、案内や」  賀茂と山寺は、鶴田にその場を預けると、中嶋と供にホテルに入って行った。  渡り廊下に着くと、鑑識の一人が賀茂に話しかけて来た。 「賀茂さん、開いてる窓の鍵んとこ、指紋が一人分しか出まへんわ」  中嶋が、それを引き継いで説明する。 「ホテルの従業員の話しによると、チェックアウトからチェックインの時間までに、全館の清掃をやるわけですが、全ての窓を隈なく拭き掃除するそうです」  賀茂は鑑識の言いたい事を、中嶋の説明で理解すると、そのまま口に出した。 「せやから指紋が一人分しか出ぇへんのやな。そして、その指紋が花巻桜の物やったら自殺か事故の可能性が、別人の物やったら窓を開けたその誰かに突き落とされた可能性もあるわけや」 「あとでんな、開け放たれた窓硝子に、変な落書きがありまんねん。窓が開けられる前の、室温が高く曇っていた内に、指で書かれたんやと思いますわ」  鑑識が窓硝子に息を吹きかけると、妙な落書きが浮かび上がった。 「何やねんこれ」  賀茂が首を捻る。 「この落書きの指紋は、硝子に指を滑らしているせいで検出されまへんでしたわ」 「何のこっちゃ判らへん落書きやな。せやけど、花巻桜の名前が書いてあるから、転落死と関係あるかもしれへん。このまま保持しとって下さい」    転落を目撃している和花と夢路、妹の桃、そして桜と同室である吹雪は、大広間に集められていた。そこには春野先生と、関先生も付き添っている。  桜が転落した時、桃は桜を探していた。姉の部屋に行ってノックをしたが返事は無かった。他を探しに行くために、エレベーターに乗った所、硝子張りのエレベータから、ホテルの裏庭に倒れて居る姉の姿が見えた。一階に着くと、そのまま外に飛び出し駆け付けた。しかし、幾ら呼び掛けても姉は反応しなかった。  その後、救急隊が到着したが、彼等が姉を担架に乗せる事は無かった。桃は、そこで初めて姉が亡くなったのだと悟り、もう話しをする事も、一緒に母の手料理を食べる事も出来ないのだと分かった。十分前に両親と国際電話で話した際に泣きながらそう訴えると、母も電話口で泣き崩れた。 「部屋に戻りたい…」  桃が呟くと、春野先生が優しい口調で諭した。 「刑事さん達が良いって言うまで、もう少しここに居ましょう」 「まだ廊下では、他の生徒が騒いでるしな」  関先生が疲労を覗かせながら言う。桜の転落を知った生徒が廊下で騒いでいて、他の教師はそれを宥めている。 「もう二十四時半か…」  和花が携帯の時計を見て呟く。 「花巻桜の妹の桃ちゃんと、同室の吹雪ちゃんて言うのは?」  そこに賀茂が、大広間に入って来た。桃がか細い声で応え、吹雪と供に前に出る。 「ちょっと桜ちゃんについて聞きたい事があるんやけどな。最後に話した時の事や、生前の言動や生活環境に付いて、色々と教えて欲しいねん」  そこで桃と吹雪に限らず、皆で包み隠さずに答えた。 「そうかあ、桜ちゃんは受験勉強で心の調子悪くしとったんか」 「でも、お姉ちゃんの相談にのってくれる人がいて、最近は落ち着いていた筈なんです」 「桜、何で転落したんですか?自殺なんですか?」  和花が訝しげに訊く。 「桜ちゃんのジャージのポケットに何や割引券が仰山入っとったから、自殺とはちゃう可能性も視野に入れとくつもりや。これから自殺する人間の行動としては、やや不自然やからな。もしかしたら事故かもしれへん」  現段階では、自殺か事故の可能性が濃厚だと、賀茂は判断していた。 「それとな、桜ちゃんの携帯のセキュリティロックの解除番号て判からへんかな。もしかしたら携帯に遺書があるかもしれへんねん。まあ勝手に見られとう無くてロックしとるんやから、遺書がある可能性は低いかもしれへんけどな」  もし携帯電話の中に遺書が無くても、万が一他殺だった場合、交友関係の確認のため、携帯に記録されている情報の閲覧が必要となる。  賀茂は携帯電話の指紋が採取済みである事を中嶋に確認し、桜の携帯を桃に見せた。 「誕生日とか、使われる番号は限られると思いますけど…」  桃は、その場で思い当たる番号を入力して試してみた。しかしロックは解除されない。 「ほな、この携帯、桃ちゃんに預けとくさかい、思い当たる番号を試してみてくれへんか。桜ちゃんを知らへん警察より、良く知ってる妹さんの方が使いそうな番号を思いつくやろ。解除出来たら、この電話番号に連絡して欲しいねん」  そう言って、桜の携帯電話と自分の名刺を桃に渡した。  そして捜査への協力を感謝すると、大広間を出て行った。  桃は部屋に戻ると、鈴菜から何があったのかと訊かれた。 「…お姉ちゃんが死んだの」  それ以外何も答えられなかった。  しかし泣き疲れた様子の桃が無言で布団に潜り込むのを見て、鈴菜もそれ以上は詮索しなかった。  和花と夢路も部屋に戻ると、黙って浴衣に着替えて布団に潜った。和花が眠りに就く前に、夢路が言った。 「明日、目が覚めても、桜は居らへんのやな」  和花は返事をしなかった。    四  知らぬ間に、何処かの町並みの路地を歩いていた。  木造の平屋が続く町並みの彼方には、緩やかな起伏の山並みが見える。その山並みに、夕日が沈みかけていた。  『氷』と書かれた暖簾の垂れ下がる駄菓子屋の前を通り過ぎて路地を抜けると、人が疎らな商店街に出た。商店街の入り口には、『三毛猫横丁』と横断幕が垂れ下がっている。  その名称に、どこか聞き覚えがあった。  赤茶けた煉瓦で舗装された道路を挟んで、個人商店が軒を連ねている。その道路を行きかう人々は、みんな猫の着ぐるみに身を包んでいた。  『にゃんこ劇場』と看板の出ている小劇場が見えて来た。劇場の前に道化師が居て、踊るようなしぐさをしながら、虎縞の着ぐるみを着た少女に風船を渡している。近寄ると、道化は黙って、和花にも赤い風船をくれた。  その街の全てが、どこかで見た事のある光景だった。そんな既視感にとらわれながら、煎餅屋や金物屋を眺めて歩いた。  三毛猫横丁を抜けると煉瓦造りの住宅街に出た。煙突からパンやサンマを焼く匂いが漂って来た。住宅街の電柱には、『黒猫通り』と小さく記されている。  通りに人影は無かったが、路地を覗くと、文字通り黒猫がたむろしていた。 「そのまま真っ直ぐ進みな」  赤い首輪を付けた黒猫が無愛想に言った。  言われた通りに進むと、煉瓦の街並みが突然途切れ、視界一杯に麦畑が広がった。高台の街から降る階段の先は、麦畑の一本道に繋がっている。 (真っ直ぐ進まなければいけないんだよな)  和花は階段を駆け降りた。  ふと耳を澄ますと、遠くで蝉しぐれが聞こえた。その響きに誘われるように、麦畑を進んで行った。途中に、顔が赤く酒臭い案山子が突っ立っていた。 「この道はどこに続くの?」  案山子は、呂律の回らない口調で応えた。 「この先の神社に、お前は行くんだ。桜ちゃんのためにな」  道の先を見ると、あの山並みに続いている。  そうだ、あの山の中腹には『虎猫神社』があるはずだ。  和花は、漸くここが何処なのか思い出して来た。  この案山子も知っている。いつもビールを飲んだくれている、役立たずの案山子だ。  ここは和花が執筆している小説の主人公六角堂が暮らす、片田舎の風景だ。  時代は大正。猫海道という日本の南の島。その小さな商店街のある山間の街の、少し外れた山の中腹に、六角堂は工房を持っていた。神社の裏にある工房で、彼は妖怪人形の彼女と暮らしていたはずだ。六角堂は、また事件に巻き込まれて、工房の片隅に置かれた卓袱台で、綾音と供に推理談義に興じているかもしれない。  山並みに向かう一本道を登ると、山の中腹に深い森と黄色い鳥居が見えた。 鳥居に着くと、『虎猫神社』と看板が出ている。神社の境内を覗き込んでみた。間抜けな顔の狛猫が二匹並んでいる。 「六角堂は工房に居るかな?」  和花が訊くと、狛猫は笑った。 「あの変わり者が、工房から出るはずがない。推理とノミを振るう事しか興味が無いのだから。工房に行くなら、境内を通って行きなさい」  和花は言われた通りに、境内を通り抜けて神社の裏手に向かった。神社の裏の竹藪に囲まれた工房は、今にも崩れ落ちそうな継ぎ接ぎだらけの木製の小屋だった。煙突だけは煉瓦造りで、立ち上る煙は粘土を焼いているのだろう。  和花が玄関に立つと、ノックもしていないのに、中から「どうぞ」と声がした。鈴の音のような少女の声だ。玄関の引き戸が勝手に開く。中は真っ暗だった。勇気を出して暗い工房に踏み入る。 「君が遊びに来るなんて、思いもよらなかったよ」  張りのある男の声に導かれて奥に進むと、ぼうっと蝋燭に火が灯り、辺りが朧気に浮かび上がった。工房の中には、所狭しと妖怪を模した人形が並べられていた。  口元を歪ませた河童、怒りの形相の天狗、牙を剥いた赤鬼、両目が明後日の方向を向いたろくろっ首。造りかけの手足の無い一つ目小僧に、まだ塗布されていない白木のままの唐傘お化け。そして無数に並べられた陶器の狐や狸。  その人形の群れに囲まれて、片隅に置かれた猫の形を象った卓袱台に、作務衣姿の人形師が座っていた。二十代半ばの隻眼の人形師は、眼前の書物から視線を外して、眼帯をしていない光のある右目を和花に向けた。 「そこに座りたまえ」  対面の座布団を指差す。 「何を読んでいるのですか?」  和花が座布団に胡座をかきながら訊いた。座布団も猫の形をしていた。  書物の背表紙には、『元型心理学』と記されている。 「君が来る前に、自分達について勉強しておこうと思ってね」  六角堂は書物を閉じて、背後の書棚に戻すと言った。 「僕が来る事を知っていたのですね」  和花が怪訝な顔で尋ねる。 「君が私達に会う事を望んだから、君である私達がそれを知っているのは当然だろ」  和花は、そこで初めて、この世界が自分の夢である事に気付いた。だから目の前の六角堂も、自分の脳が造り出しているに決まっている。しかし自分は何をしにここへ来たのだろうか?和花は夢の中の虚ろな思考で、あれこれ考えてみた。 「桜ちゃんが亡くなったからだよ」  訊いてもいないのに、六角堂が応えた。  まさか桜が不可解な死を遂げたから、その真相を知るために、探偵でもある六角堂を訪ねて来たという事だろうか。 「そのとおり。私達は、貴男の集団的無意識にある元型ですもの」  鈴の音のような声に振り向くと、工房の奥の次の間から、湯呑みと急須を持って綾音が現れた。足下には、さっきの赤い首輪の黒猫がじゃれ付いている。  殺害されて魂だけとなった綾音は、六角堂の制作した妖怪海姫のカラクリ人形の身体を、仮住まいとしている。綾音は人頭蛇身の身体をくねらせながら、卓袱台に湯呑みを並べると、急須から茶を注いだ。そしてお茶請けを和花の前に並べた。 「僕のゲンケイ?」  和花がお茶請けに手を伸ばすと、黒猫が横から顔を出して、それを横取りした。 「あっ僕の煎餅が…」 「元型心理学を生み出した心理学者のユングによれば、人間の集団的無意識には『元型』と呼ばれるイメージがあり、それは夢の中に現れたり、白昼夢に姿を見せたりするそうだ」  六角堂が、湯気の立つ湯呑みを両手に包んで言った。 「じゃあ、二人供、僕自身の無意識が仮の姿をとった物だと?」  煎餅を盗んで逃げようとする黒猫の尻尾を掴んだまま和花が訊いた。 「そうよ、私達は貴男の無意識なの。元型には色んな姿があって、母親を求める本能の姿である『太母』や、理想的父親像である『老賢者』。それに男性の中には『アニマ』、女性の中には『アニムス』と呼ばれる、理想的な異性像の元型があるわ」  綾音が優しい声音を和花に向けながら言った。しかし木製の顔は、恐ろしげな海姫の表情のままだ。 「じゃあ、二人は、何の元型なのですか?老賢者?それともアニマ?」  和花は黒猫からお茶請けを取り戻すと、それを咥えながら六角堂に訊いた。 「『探偵』の元型だよ」 「探偵?」 「ユング先生の本には載ってないけど、探偵の元型ってのもあるのさ。幼なじみの桜ちゃんの死に際して、その死の真相を追究したい君の無意識にある、悪く言えば好奇心が、『探偵』の元型の姿をとって現れた。それが私達なのだよ」 「そ…その無意識の姿である探偵は、つまり六角堂と綾音は、そんな風に姿を現して、具体的に何をしたいというの?」 「ユング先生は、苦悩していたある時期に、老賢者の元型から様々な教示を受けたと語っている。庭を歩きながら、フィレモンと名付けたその元型と語り合ったそうだ。君もユングと同じく、桜ちゃんの死について苦悩している」  幼い頃からの親友が、突然不可解な死を遂げたのだから、簡単にはその死を受け入れ難い。苦悩はある。 「確かに苦悩というか、突然の出来事にストレスは感じているかもしれないけど…」 「そのストレスの解消のためには、死の真相を知りたくはないか?」  探偵の元型を頼ってここに居ると云う事は、自分にそんな衝動があると云う事だろうか。 「そして君の無意識は、桜ちゃんが自殺する筈が無いとも考えている。同じく、不注意による事故死もね。つまり君の無意識は、もし他殺ならば、その犯人を…」  六角堂がそこまで言った所で、綾音が口を挟んだ。 「あら、お客さんがいらしたようね。目を覚ました方が良いかもしれないわ」 「お客さん?」  工房に誰か来たのかと思って、和花は振り向いた。  そこで目が覚めた。  五 どれくらい眠ったのだろうか。  何時なのだろうかと気になって、携帯電話を掴む。携帯電話を開くと、画面の眩しさに思わず目を細めた。時刻は午前二時。  隣の布団に眠る夢路を見ると鼾をかいている。  和花は布団から半身を起こした。すると足下に俯き加減の人影があった。 「誰?」  呼んでみたが、返事はない。和花は、誰なのか確認するために、携帯電話の灯りを人影に向けた。  桜だった。  しかし、一瞬の混乱を置いて、双子の妹を見間違ったのだと思い、訝しがりながら呼んでみた。 「桃?」  返事はなかったが、人影は呼びかけに応じて顔を上げた。  鼻から赤い物を滴らせていた。良く見れば桃と違い、眼鏡も掛けている。 「桜なの?」  和花は恐る恐る訊いてみた。桜は、ゆっくり口を開くと掠れ声で言った。 「渡り廊下…の窓を見て…」  そしてゆっくりと踵を返すと、引き戸を開け部屋から出て行った。  桜が出て行くと、和花は暫く狐に抓まれた気分で放心していた。暫くして我に返ると、今あった事を相談しようと、夢路を起こそうとした。だが身体を揺すっても、熟睡している夢路は目を覚まさない。  仕方なく立ち上がると、部屋を出て廊下に桜が居ないか確認し、誰も居ないと判ると、そのまま桃と鈴菜の部屋に向かった。  部屋に着くと、軽くノックをする。  返事は無い。           立ち去ろうと踵を返すと、引き戸が開き鈴菜が顔を出した。鈴菜は、一瞬和花を見詰めた後、何も訊かずに手招きした。  中に入ると、桃が布団から半身を起こしながら、俯いていた。 「今さっき、桜の…」  和花が言い掛けると、桃が遮った。 「お姉ちゃんの幽霊が出たの」 「僕の部屋でも同じ事が…」  桃と鈴菜が顔を見合わせる。 「二人で見たの?」  和花が訊くと、桜の幽霊を目撃したのは、桃だけだと言う。 「私は眠っていたから気付きませんでした」  鈴菜は、今ひとつ桃と和花の話しが信じられない様子で居る。 「お姉ちゃん、何か言ってなかった?」 「渡り廊下の窓を見ろって」 「私にも同じ事を訴えてたわ」  和花と桃のやり取りに、鈴菜は怖気を憶えた。二人が示し合わせて、鈴菜を驚かせようとしているのでは無ければ、二つの部屋にほぼ同時に幽霊が現われた事になる。 「渡り廊下、行ってみよう」  和花の言葉に、桃は布団から跳ね起きた。 「行くのですか?」  鈴菜の問いに、二人は応えず、部屋を飛び出して行った。部屋に一人残されるのが怖かったのか、鈴菜も後を追った。  六階に着いて、エレベーターホールから出ると、ホールの右隣に渡り廊下が見えた。十メートルほどの長さの渡り廊下には、左右に三箇所づつ合計六つの窓が在る。反対側の旧館は、明かりが点いておらず、真っ暗で良く見えない。新館側には立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らしてあったが、三人はそれを跨いで渡り廊下に入った。  中に入ると、現場保持のためか、桜が転落した窓は開いたままになっていた。窓が開いてるせいで、渡り廊下の室温は低くい。 「お姉ちゃん…あの窓から落ちたんだね…」 (渡り廊下の窓を見て)  桜は、そう言っていた。  桃は眼を閉じると、その窓に一歩近づき、窓硝子すれすれの所で眼を開けた。  雪は止みかけていた。  雲間から射す月明かりが世界を紫色に染めて、雪景色が銀色に輝いていた。姉も最後に、この窓枠に収められた雪景色を見止めた事だろう。 「お姉ちゃん、私も見てるよ」  桃はそう言うと、深くため息をついた。すると窓ガラスに文字が浮かび上がった。 「あれ、何これ。お姉ちゃんが書いたのかな」 「どうしたの?」  和花も窓硝子に近付く。 「ガラスに文字が浮かび上がって…。誰かが指で書いたのかな。『蒼井和花』『花巻桃』って書いてあるよ。窓が開いてるせいで、外気と室温が近いから消えてたけど、息を吹きかけたら浮かんで来たの」 「もっと広範囲に何か書いてある。息吹きかけてみて」  和花に言われるまま息を吹きかけると、書かれている物の全体が浮かび上がった。 「これ、相合傘ですよ。誰が書いたのでしょう」  鈴菜が首を捻る。  その相合傘は、窓枠の中の二枚ある硝子に別れた状態で書かれていた。左半分は左の硝子の左端に、右半分は右の硝子の左端に書かれている。通常の相合傘は、二人の名前を左右に別けて書くが、この相合傘は四人の名前が書いてある。その名前は、上に『花巻桜』、『滝川』と並べて書かれ。下には『花巻桃』『蒼井和花』と書かれていた。 「これ、たぶんお姉ちゃんが書いたのかも」 「どうして、そう思うの?」  和花の問いに、桃は視線を外して照れ臭そうに説明した。 「実はさ、日頃の和花のサークル活動に感謝して、バレンタインの義理チョコをあげようと思ってたんだ。お姉ちゃん、それ知ってたから勘違いして、この相合傘に和花と私の名前を書いたのかも…」 「…そうなんだね、知らなかったよ」  桜からチョコの話しは聞かされていたが、照れ臭さいから知らないふりをした。 「和花にチョコあげる予定を知ってたのは、お姉ちゃんと鈴菜しか居ないから、鈴菜に覚えがなければ、これ書いたのお姉ちゃんに間違いないと思う」 「書いたのは、私じゃないですよ。でも、和花君と桃ちゃんの名前を書いたのが桜ちゃんだとすると、その上の『花巻桜』と『滝川』を書いたのは誰なのでしょう」 「それに、この『花巻桜』と『滝川』の文字、縦線で消した跡がある。何でだろう」  二人の疑問に、桃が首を捻りながら応えた。 「もしかしたら、お姉ちゃんが滝川先生の事を好きだと知ってる誰かが、最初にこの相合傘を書いたのかも。でも、その恋を諦めてるお姉ちゃんはそれを見て、二人の名前を縦線で消したんじゃないかな。そしてその下に和花と私の名前を書いて、窓硝子をスライドさせて、左右に別れた相合傘を一つにした…」  和花は、それを聴いて何か引っかかる物があった。しかし合理的に説明出来ない。それを解き明かすために、両目を閉じて黙考した。すると瞼の裏に、六角堂の工房が薄暗く浮かんで来た。粗末な卓袱台に向かい合う人形師と海姫。そして周囲に並ぶ妖怪人形。 「えっ…何?」  和花は思わず声を上げ、目を開く。その様子を桃と鈴菜が訝しげに見つめる。  今のイメージは何だろう。和花は、不安にかられながらも、怖いもの見たさで、もう一度瞼を閉じた。やはりあの工房が見える。すると六角堂が口を開いた。 (どうやら、桜ちゃんの死の真相に繋がる、重要な証拠を発見したようだね)  和花は驚いて目を開けた。どうして六角堂と綾音のイメージが浮かんで来たのだろう。そう言えば、桜の幽霊が出現する直前に、六角堂の工房で何やら話をする夢を見ていた。確か、ユングの元型心理学や、その元型の種類についての話だ。そして六角堂と綾音は、和花の無意識から現れた『探偵』の元型だと説明していた。 (ユングは庭を歩きながら、フィレモンと名付けた『老賢者』の元型と対話をして、様々な教示を受けた)  六角堂の声が、和花の心臓の辺りで聞こえた。思わず胸を撫でる。 (今がそのユングとフィレモンの二人と同じ、探偵の元型である私達と和花君の対話が必要とされる時だよ)  そんな事を突然言われても困る。 (…元型の存在なんて俄には信じられない)  和花が心の中で呟くと、六角堂は応えた。 (桜ちゃんの死の真相を解き明かせる、もしくは真相に一歩近付ける、その場面に君は直面している。ユングの元型心理学の正否よりも、今の君にとってはそれが大事なはずだ。だからこうして、君の無意識である私達は、君の脳内で具象化している。さあ、対話だ)  その言葉に呆気にとられていると、桃が和花の顔の前で手を振った。 「大丈夫?立ったまま寝てるみたいな顔して…。しっかりしなさい」 「あ…うん…」  和花が鈍麻な返事をすると、六角堂の声は桃の事など無視して話を続けた。 (まず、その落書きだが、何故二枚の硝子に分けられているのだと思う?)  突然そんな事を訊かれても判らない。和花は眉を寄せて俯く。 (だって君は、その二枚に分けられた落書きの不自然さに着目して、しかしその謎を解き明かせないから、無意識下の私達に働きかけたんじゃないか)  解らなくて働きかけたのなら、やはり和花には解らないのだから応えようがない。 (それじゃあ、一つヒントを上げよう。桜ちゃんが他殺であるならば、桜ちゃんがここから転落した時には、犯人も一緒に居たはずだ。そして犯人が、他殺である事を隠して自殺に偽装しようと計画していたと仮定する。ではその行程で、犯人が最も注意を払った部分はどこだろうか) 「もし犯人が、他殺を自殺に偽装したならば…。そうか、桜以外の人間がここに居た痕跡を残さない事だ」  それを聞いた桃が訝しげな顔をする。 「お姉ちゃんは、自殺に偽装されて突き落とされたって言いたいの?」  六角堂の質問に、声を出して返事をしていたと気付き、和花は顔を赤らめた。 (そのとおり、誰かと一緒に居て、静止されずに飛び降りたのでは不自然だからね。特に指紋を残すなんてもってのほかだ。では逆に、残す必要のあるものは何だい?)  眼鏡少年が眼鏡を光らせて言った。 「そうか!これは桜の指紋のみを現場に残すためのトリックだ!」  和花の大声に驚きながらも、桃と鈴菜はその真意を聞こうと詰め寄った。 「お姉ちゃんの指紋のみを残すトリック?」 「さっき言った、自殺を装うためにですか?」  和花は落ち着きを取り戻すために、一息吐いてから応えた。 「犯人は、あらかじめ二枚の硝子に、桜と滝川先生の名前を書いておいて、それを見つけた桜が、窓を開けて相合い傘を一つにすると予測したんだ。そうすれば、桜を窓から突き落とす際に、犯人の指紋は窓枠に残らず、桜の指紋だけが残される」 (指紋を発見した警察は、桜ちゃんが自分で窓を開けて転落したと、つまり自殺か事故だと判断するだろうね) 「なるほどな、そんな推理も成り立つかもしれへんな」  突然背後から声がした。振り向くと、賀茂警部補が腕組みをして立っていた。賀茂の顔を見て、和花達はばつの悪い顔で俯く。 「勝手に現場に入ったらあかんやろ」  賀茂が眉間に皺を寄せながら言う。しかし顔は怒っているものの、口調は穏やかだ。 「すみません。どうしても渡り廊下を見て置きたい理由があって…」  和花が三人を代表して、申し訳する。 「もう入ってまったもんは、仕方がないけどな。それより、今のその推理やと、桜ちゃんが窓を自分で開けた後に、犯人によって突き落とされた事になるんやろう。せやけど、犯人がそこに居ったんなら、桜ちゃんを落とした後に、窓の文字は擦って消したらええんとちゃうんか?何で、そうせえへんのや。その相合傘がトリックの一部なら、消さんで残しておくんは、犯人にとって不都合やろ」  賀茂に問われて、和花は少しの間考え込んだ。すると六角堂がヒントをくれた。 (君は、推理小説を書く時、探偵や犯人それに被害者にと、視点を切り替えながら執筆して、物語の整合性に誤りがないか調べるだろう。それと同じように、今ここで犯人の視点に立ってみてごらん)  和花は、脳内で窓を開けた桜の背中を想像した。そして、その背後から近付き、桜を窓から突き落とす。窓から身を乗り出すと、落下して行く桜の姿が見えた。間髪入れずに桜が地面に激突して、轟音が響く。 すると、眼下の二階にあるカフェバーの窓際に、人が群がって来た。その中には、和花や夢路の姿もある。 「そうか、カフェバーの窓際からは、この渡り廊下が丸見えだ。犯人は、桜を突き落とした直後に、二階の窓際の僕や夢路達に気付いて、自分の姿を目撃されてしまう事を危惧した。だから窓枠の下か左右のどちらかの壁に身を隠したんだ」  和花の推理に、賀茂は桜が転落した窓から、カフェバーを見下ろした。 「確かに、ここからは窓際の席が見えるなあ。つまり犯人は、相合傘のすぐ近くに居ながらにして、それを消すチャンスが無かったと言いたいんやな」 (犯人は、たとえ証拠隠滅の機会を逃して自殺説が瓦解したとしても、姿を見られて自身に嫌疑が掛かるよりはましだと、そう考えたと云う事だね。そして今、犯人が誰であるかの当て推量は立たずとも、こうして他殺説が浮上して来た。一歩犯人に近付いている)  六角堂が言い終えるタイミングで、賀茂が口を開いた。 「ついでに補足すると、桜ちゃんが転落した後、ここに残された携帯電話とスリッパも、窓の外に放り投げたら良かったけど、桜ちゃんが落下した後に遅れて携帯電話とスリッパが落ちて来たら、転落の目撃者から見て不自然やから出来んかったんやろな」 (犯人は花巻桜を自殺に見せかけて殺害するトリックを実行したけど、早々に失敗したと云う事ね。所で旧館の幽霊の話しはしなくて良いの?ほらあの薄明かりの件)  綾音が記憶の想起を促したため、重要な事を思い出した。 「そういえば、桜が転落した後、旧館六階の窓の一つが幽かに光っているのを見ました。もしかして、懐中電灯か何かを持った犯人が、渡り廊下から旧館側に逃げて行った時の灯りかもしれません」  あの時、桜の傍に居た時に感じた視線は、犯人のものだったのかもしれない。新館の明かりが差し込む渡り廊下から顔を出せば、誰かに目撃される可能性があるが、電気の落とされている暗い旧館の中からなら、外の様子を窺うのも可能だろう。 「それもかなり貴重な情報やな。わかった、その推理と情報は、重要な参考として覚えとくわ。捜査に進展あったら教えたるから、もう三人とも部屋に戻らなあかん」  その言葉に、三人は素直に従い、賀茂に話しを聞いてもらえたお礼と、現場に勝手に入ったお詫びを言ってから、エレベーターホールに向かった。  三人は、エレベーターの中で、幽霊の話しは他言無用として秘密にしておこうと決めた。  五階に着くと、和花は二人を部屋の前まで送って行き、自分の部屋に戻った。部屋に入ると、夢路を起こさないように摺り足で布団まで行き、そのまま潜り込んだ。 「桜、これで良かったのかな…?」  そう呟いて、ゆっくりと目を閉じた。  賀茂は和花達がエレベーターに乗るのを見届けると、携帯電話で中嶋巡査を呼びつけて、渡り廊下の落書きを見張っているように指示した。そして鑑識の鶴田にも電話をして、旧館の指紋や下足痕の採取もお願いしたいと伝えた。電話を切ると一階に降り、事務所に向かった。事務所では、山寺が支配人から、ホテル内にある防犯カメラの配置について訊ねている所だった。賀茂も支配人の説明に耳を傾ける。 「カメラは一階には、受付け前とロビーに一つづつ。受付けの物はカウンター内からお客様の方を向いており、ロビーの物は出入りするお客様を確認出来るように出入り口に向けられております」 「他の階は?」 「二階から六階には、エレベーターホールの前に設置されたカメラが、客室の方向を映すように各階に一つづつございます」  支配人の言葉に、賀茂はホテルの構造を思い浮かべた。このホテルは各階がほぼ同じ造りになっている。六階の場合は東側から順番に、右手に階段、その先の左手に渡り廊下、その更に先の左手にエレベーターホール、そしてその向こうは左右に客室の並びとなっており、カメラはそのエレベーターホールから客室を向いている。 「つまり、階段と渡り廊下は防犯カメラには映らないという事でんな」  賀茂が口を開いた。 「旧館は使用されていませんし、階段を使うお客様もめったに居ないので、そのようなカメラの配置になっております。捜査に助力出来きず申し訳ありません」 「いやいや、そんな事ありまへんわ。渡り廊下が映ってなくても、十分参考になりますさかい、ほんま助かります」  詫びる支配人に、山寺が慌てて礼を言う。 「ほな、その防犯カメラの映像、見せてもらえまへんか」  賀茂が頼むと、支配人は事務員に指示して、ハードディスクの映像を再生させた。事務所の隅にあるモニターに、分割された画面が映し出される。賀茂と山寺は、その内の六階を写した画面を拡大してもらい、花巻桜が転落した二十三時二十二分の前後を確認した。  すると、二十三時十五分に、エレベーターから花巻桜が出て来て、画面の手前、つまり渡り廊下と階段の方向へと歩いて行くのが映っていた。その後は、二十三時三十分に、支配人がエレベーターから出て来る姿が映っている。これは、花巻桜の転落の報せを受けて、警察が来るまでの間の現場保持に向かう姿だ。転落前後三十分を確認したが、他には誰も映っていない。 「特に不審な人物は映っておりまへんな。もし他殺であって犯人が居るなら、階段を利用したのかもしれへん」  山寺が賀茂と同じ想定を口に出す。 「山寺、お前、朝までかけて、このハードディスクの映像を、生徒達がチェックインした所から花巻桜が転落した時刻まで、全部見といてくれへんか。ほんで渡り廊下側に行った人間をリストアップしといてほしいんや」  賀茂は、渡り廊下の窓に相合傘の落書きをした人物を特定したかった。 「朝まででっか…。ほな、やっときますわ…」  山寺が泣きそうな顔で引き受ける。しかし、それが退屈であれど、重要な仕事である事は理解している。モニターの前に椅子を持って来ると、ハードディスクを操作しながら食い入るように画面を見詰め出した。賀茂自身は、支配人と事務員に礼を言うと、一旦署に戻るために事務所を出て行こうとしたが、受付けで立ち止まって振り返った。 「先生方と約束した明日の聴取、何時からやったか」 「なんせ生徒さんの多い学校やから、二回に分けての朝食が終わるのが九時になるらしいですわ。せやから、十時からて約束してあります」  山寺は、画面を見詰めたまま応えた。賀茂は、それを聞くと、あとは宜しくと山寺に言い、ホテルを後にした。  その頃、犯人は、桜の死を自殺に見せかける自分の計画に既に狂いが生じている事を冷静に認識していた。警察の動きを見ている限り、当初の計画が上手く行っていない事が良く判る。  失敗の原因は、やはり、あの窓ガラスの相合傘だ。  自分の姿を目撃されるのを恐れて、一旦は渡り廊下を離れたが、騒ぎが収まって来たら、再び戻って相合傘を消そうと考えていた。  しかし、桜の偽装自殺に疑いを持たれたせいか、思いの外、警察関係者が渡り廊下のみならずホテル内をウロウロしていて、そのチャンスが無い。  犯人は、それを間近で見ていて、窓に書かれた落書きを消す事を諦めた。  そして、これからどうするか、次の行動を練り始めた。    六  翌朝、吹雪涼子が目覚めると、隣の布団に桜の姿は無かった。  布団から出ると、大きく背伸びと欠伸をした。そして昨日の夜に起こった出来事の記憶を整理した。  隣の布団に桜は居ない。  昨日、桜が転落死したという記憶は、やはり本当らしい。  吹雪は浴衣を脱ぐと、客室内のユニットバスに向かった。バスに入り、カーテンを閉め、蛇口を捻る。  昨夜、最後に桜と話した時の事を思い出す。あの時、桜を一人にしなかったら、それでも桜は命を落としていただろうか。  そんな事を取り留めも無く考えながら、まず頭の寝癖を直すために、備え付けのシャンプーで髪の毛から洗う。  髪を洗い終え、体に熱いシャワーを浴びせる。  タオルにボディシャンプーを付けて、体を擦る。  内風呂から出て、テレビの上の備え付けの時計を見ると、七時半を回っていた。確か、朝食のバイキングは、六時から九時のはずだ。吹雪は制服に着替えると、一階のレストランに向かった。  華京亭の新館は、一階の面積が二階よりも広く、レストランの張り出した屋根と壁は全て硝子張りになっている。入店すると頭上に青空が見えた。カフェテラスに居る気分だ。  店内は混雑していたが、六人掛けのテーブルに居た花巻桃が、吹雪を呼び止め席に招いてくれた。そのテーブルでは、蒼井和花と黒崎夢路、それに椿鈴菜も朝食を摂っている。  吹雪は礼を言うと、そのテーブルの一番端の椅子に腰掛けた。 「吹雪さん、何をいただきますか?私、取って来ます」  鈴菜がトーストにジャムを塗りながら申し出た。 「じゃ、あたしもトーストとジャムで…」  吹雪が頼むと、鈴菜は笑顔で応え、席を立った。 「本人や家族の誕生日。好きな芸能人の誕生日。桜にとっての記念日のような日付。全部試してみた?」  和花の言葉に桃を見ると、何も食べずに携帯電話を操作している。あのグリーンの携帯電話は、昨夜、加茂警部補から渡された、桜の携帯電話だ。まだロックが解除出来ないのだろうか。 「それが単純やねん。まったく因果律の無い、無作為に選ばれたな数字かもしれへんで。そしたらもうお手上げや。0000から順番に、0001、0002て打ってくしかあらへん」 「それをやってる所。今0238」  桃が携帯電話から視線を逸らさず、愛想なく応えた。 「なんやねん、それやったら…」  別に桃で無くとも、警察の人間にやらせれば良い、と言おうとした。しかし桃は与えられた仕事に何も考えず没頭する事で、辛い想いを打ち消そうとしているのかもしれない。そう思って言い止した。 「手が疲れて来たら、交代するよ。皆で交代してやれば、場合によっては一日でロックを解除出来るかもしれない」  和花が申し出ると、桃は軽く頷いた。  遺体が搬送された東山署内で、賀茂と山寺は刑事調査官から検視報告を受けていた。 「後頭部に茶色の繊維と砂。繊維の種類は靴下なんかに使われる、伸縮するやつだ。砂は何処にでもありそうなもんだな」 「犯人は、花巻桜を突き落とす前に、抵抗されへんよう、砂の詰められた靴下で後頭部を殴って、失神させたのかもしれへん。…山寺、防犯カメラは、どうやった?」 「生徒さん等がチェックインしてから、花巻桜が転落するまでの間に、渡り廊下側に向かった人間は、映像から確認出来た分だけリストアップしとります。映ってる生徒や従業員の名前の確認のために、徹夜で先生方や支配人に協力してもろて、ホンマありがたい話しですわ」 「ほな後で、わいからも礼言うとくわ。そのリストの人間は聴取の重要対象やな。他に怪しいモンは映っとったか?」 「それが最初に見た時は気付かへんかったけど、花巻桜が転落する二十分前の二十三時二分に、エレベーターホールの前に人の影が一瞬映っとりまんねん」 「影?影だけが床か壁に映っとるんか?」 「なんせコマ数の少ない映像やから、それこそ一コマだけやけど、カメラには映らない渡り廊下側に誰か居て、その影がエレベーターホールの床に映っとりまんねん」 「花巻桜がまだ到着していない六階渡り廊下近くに、誰かが居ったんやな」 「犯人やとしたら、防犯カメラに姿が映らんよう、また誰にも目撃されへんように、消灯後に階段を使って、渡り廊下に向かったんかもしれまへん」  そして、花巻桜が現われる前にあの落書きを曇り硝子に書き、凶器である砂を詰めた靴下を手にして、恐らくは渡り廊下の旧館側に身を潜めた。賀茂はそう推理してみた。 「ほな、容疑者割り出すために、生徒と教師、それに従業員合わせて二百人に聴取や。ホテルに戻ろ」  制服警官と私服警官合わせて二十人は、正午まで掛けてホテル内で聴取を行った。  聴取の順番がB組に回ると、桃が部屋から出て来て、廊下に居た賀茂に訊いた。 「賀茂さん、指紋、誰の物か判りましたか?」 「桜ちゃんのもんやったわ。それに御遺体から凶器の痕跡も見付かったんや」 「じゃあ、自殺じゃなくて…」 「他殺と断定して捜査するつもりや。携帯電話のロックはどないなっとる?」 「まだ解除出来てません。もう少し待って下さい」 「桃ちゃんが京都に居る内は任せとくわ。せやけど、なるべく早く解除したってな」  聴取が終わると、捜査一課の面々はホテルのロビーに集まり、収穫した情報を交換し合った。 「何かめぼしい収穫が在ったもん居るか」  賀茂が口をへの字にしながら聞く。  聴取は二手に分かれて行われた。慧心高校の生徒と教師の聴取に回った賀茂のグループには、目新しく参考になる様な情報は無かった。 しかしホテルの従業員を担当した山寺のグループには収穫があった。 「岩田ちゅう仲居の証言になりますけど、その岩田が言うには時間はよう覚えてへんけど、花巻桜が転落した後の騒ぎで右往左往してた際に、ふとロビーから隣の旧館を見たらしいんですわ。ほら、新館のロビーは一面硝子張りやから、南側を向いたら自然に旧館が目に入りますやろ。そしたら、旧館の一階の窓に薄っすら明かりがあって人影が見えたらしいんですわ」  それを聞いて、賀茂は昨夜和花が言っていた、旧館に見えた薄明かりの話しを思い出した。  犯人が持参していた懐中電灯の明かりに、犯人自身のシルエットが浮かび上がって窓硝子に映ってしまったという事だろうか。 「人影か…。昨夜、旧館は見廻ったんとちゃうんか?」 「中嶋巡査と田村巡査が、ここに到着してすぐに不審者が居ないか捜索してますわ」 「で、誰も居らんかったんやろ」 「ええ、せやけどその後、岩田が旧館をチェックしたら、一階のトイレの窓の鍵が開いていたらしいんですわ」  花巻桜の転落後に、旧館に潜伏していた何者かが、旧館一階のトイレの窓から逃走した可能性がある。 「昨夜の賀茂はんの指示で今朝から鑑識係も旧館の内外を調べとりますけど、さっき鑑識に訊いたら、トイレの外の積雪に下足痕は無かった言うとります。せやからトイレから誰か逃走したなら、昨夜の降雪が止む前の深夜零時以前になります。まだ警察も生徒さん等もごたごたしとった頃ですわ。せやけど二十三時四十分には、警察関係者がホテルに到着して、遺体のある裏庭に居ったから、トイレから誰かが逃走したならそれ以前の時間ですわ。あの遺体のあった場所から、旧館一階のトイレの窓は見えるから、二十三時四十分以降に、誰かがトイレの窓から出て来たら気付いてまう。せやから岩田が人影を見たのは、花巻桜が転落した二十三時二十二分から二十三時四十分の間やと思いますわ。因みにトイレの鍵やサッシには指紋は無かったそうですわ。触った後に拭き取ったか、手袋しとったのかもしれまへん」 「旧館内の下足痕は無かったんか?旧館は使われてへんのやから、埃が積もっとって足跡残るんとちゃうか?」  続けて賀茂が山寺に質す。 「それが、鑑識の話しによると、このホテルは入館時に来客は履物を脱いで、サイズが一つしかないスリッパに履き替えますやろ、それに従業員までみんな同じサイズのスリッパ履いとるから、旧館の檜の廊下やトイレの床から、幾つか下足痕は見付かったらしいんですけど、犯人の特徴に繋がりそうな証拠は…」 「鍵の開いとったトイレの窓に繋がる足跡は在ったんか無かったんか?」 「旧館六階の渡り廊下から一階トイレの窓の前で途絶える足跡と、二階の渡り廊下から旧館に入った後に一階をウロウロしてトイレに向かって、その後にまた同じ経路で引き返す足跡が在ったらしいですわ。一つは不審者の、往復しているのは岩田香織の物やと思います。せやけど」 「その足跡から推知出来る不審者の情報は多くないわけやな」 「地面に付いた足跡なら深さで体重の推定も出来るけど、旧館の足跡はサイズがどれも均一のスリッパの物やから、足跡の大きさから不審者の体格を推定するのも難しいと思いますわ」 「…っそっか、わかった。ほな、そっから可能な推知を纏めてみよ。まず宿泊している慧心高校関係者やホテル関係者など、ホテル内部の人間による犯行と推測した場合はこうや。花巻桜を突き落とした後、犯人は旧館一階に移動し、トイレの窓から外に出て物陰に隠れる。そして警察や従業員に生徒さんらにと、ホテル裏庭で右往左往して来ると、そのどさくさに紛れて、防犯カメラの無い新館一階通用口からから新館に戻る」 「そして外部の人間の犯行の場合はこうでんな。犯人はまずホテルに来ると、防犯カメラの無い新館通用口から入ってスリッパに履き替え、靴を持ったまま階段で六階に向かう。せやけど何故、外部犯人の場合、来た道である新館一階通用口から逃走しなかったのかが問題ですわ。これは内部の者の犯行だと考えた場合も同じで、旧館側に逃げた理由がよう判らへん。せやけど、内部の者が外部の者の犯行に見せかけるために、わざわざ埃の積もった旧館に逃げ込んで足跡を残して、ホテルの外に逃走したと見せかける偽装やと考えたら納得いきますわ」  つまり残された足跡から、これは内部犯人の仕業であると賀茂と山寺は推理した。  二時間の遅れが出て、修学旅行二日目の自由行動は短縮された。 桃、和花、夢路、鈴菜のD班は、太秦映画村を午前中に見学する予定だったが、それを取りやめた。D班はホテルを出ると、地下鉄東西線を使って二条城に向かった。昨夜から一転して快晴となったが、まだ街のあちこちに積雪が残されている。城の二の丸御殿も屋根にまだ微かに白雪を被っていた。土産物屋を併設した休憩所に入ると、四人は真ん中のテーブルについた。 「今0559やけどな。0000から順番に打って行くなんて効率悪すぎやろ」 夢路が携帯電話を片手にぼやく。四人は和花の提案どおり、交代でロック解除をすると決めていて、今は夢路の担当だ。 「何か、暗証番号のヒントはないのですか」  先ほどまで、番号を打っていた鈴菜も同意見だ。  桃が、ホテルから持って来た桜の鞄を机に置いた。財布を取り出して中を覗く。しかし、数枚のお札と、キュシュカード、ポイントカード、学生証が入っているだけだ。 「何もヒントになりそうな物は…」  そう言い掛けて、鞄の内ポケットに手帳があるのに気付いた。 「ヒント見つけたかも」  姉の手帳を勝手に閲覧するのは抵抗があったが、賀茂から任されたロック解除のためには、多少の非常識な行為も仕方がない。 「手帳に暗証番号があれば、府警の人が遺書を探した時にチェックしているはずだから、気付くんじゃないかな」  和花が言ったが、府警も見落としたヒントがあるかもしれないと、桃は手帳を捲った。 「何か、暗号らしき物があるわよ」  桃は、みんなに見えるようにテーブルの上に手帳を開いた。  手帳の最終頁には、漢数字と意味不明な文章が記されていた。一見して暗証番号とは読み取れない。 「順番に読んでみるで。 『(タマ信)五千百二・例、乱世の時代三国志、乱世で見るのは地獄だけ』 『(けーぱす)四万十五・鎌倉幕府が開かれる。頼朝、政子が産み落とす。息子が鍵持ち扉を開く』 『(けーNO)二億三・P・6.3.9.5★』 なんやろな、これ」 「タマ信って、京都府警の人には判らないかもしれないけど、東京の多摩川信用金庫の事じゃないですか?」 「けーぱすとけーNOは、どっちかが会員制サイトに課金する時なんかに使うパスワードで、もう片方が携帯のセキュリティロックの解除番号やろな」 「つまりこれ、キャッシュカードやセキュリティロックの暗証番号を意味しているんじゃないかな」 「意味不明な文章が書いてあるだけやけど、暗号文みたいな文章やから、解読したら暗証番号が解るんとちゃうか」 「そんな気がします。タマ信の最初にある五千百二は四桁ですけど、他の四万十五とか二億三は暗証番号ではありませんんね。暗証番号って普通四桁ですもの」 「そうだね、桁が多すぎるよ。その後に続く文章を解読したら、漢数字の意味も解るかもしれない」  話を進める他の三人に、桃は忙しなく視線を送っていたが、素朴な疑問が涌いてきた。 「でも何で、暗号文なの…?」 「普通に暗証番号をメモしたら、バッグごと盗難された時に、手帳を見られてキャッシュカードを使われたり、携帯電話のロックを解除されて弄られてまう。その対策として、簡単には解らんような記述で暗証番号をメモしたんや」 「心配性なお姉ちゃんだから、そんな事するかも」  桃は姉の性格を思い出して納得した。 「まずは三つの中から、携帯電話パスワードだと思われる、けーぱすから解読しよう。桁がやたらと大きい四万十五は一旦置いといて、まずは、その後の文章だね。鎌倉幕府の開かれたのは1192年。でもこれは単純すぎてひっかけじゃないかな」 「その後に、鎌倉幕府を開いた源頼朝と正室の政子が産み落とした息子が、鍵を持って扉を開くとあるから、鎌倉幕府二代将軍源頼家の誕生した年がパスワードじゃないかしら」 「歴史上の人物の人名だけ表記してイメージする四桁の数字と言ったら、誕生した年と没年が自然だね。でも(産み落とす)の記述から、生年を暗示しているかもしれない」  和花と桃が解読を進める。鈴菜が鞄からスマートフォンを取り出した。 「頼家の誕生した年ですね。ちょっと待って下さい。スマホに人名辞典を入れてあるから、検索してみます。…1182年です」  桃が夢路から、桜の携帯電話を奪って番号を打ち込んだ。 「じゃ1182ね、打ってみるわ…。あれ、パスワードが違いますって表示されちゃう」 「もし本当にその文章がパスワードを示す暗号なら、そりゃちゃうで、トラップや。産み落とすとは書いてあるけど、頼朝と政子には息子が他にも居ったはずや。どこにも頼家とは書いてあらへんし、どの息子かの指定もあらへん。せやから、頼家の誕生日やなくてやな。頼朝と政子の誕生した年を足した数字がパスワードなんとちゃうか」 「頼朝は1147年、政子は1156年の生まれです。足すと2303です」  鈴菜が人名辞典を見ながら言った。桃がそれを打ちこむ。しかしロックは解除されない。 「この文章からは、他には数字は導き出せない気がしますから、これ課金の方のパスワードなんじゃないですか」 「じゃ、ロックを解除出来ない今は、試す事も出来へんな。ほな次、けーNOや」 「二億三・P・6.3.9.5。二億三は桁が多いですから、直接的に暗証番号を示しているのではないとしまして、その後の数字も暗証番号では無い気がします。PはパスワードのPかもしれないですけれど」 「数字の間にドットがあるから、続けて数えるんやなく、一つづつの数字を独立して読むんやないか。それやったらPは頁かもしれへん。六頁、三頁、九頁、五頁や」 「何の頁でしょうか?」 「どこにも、他の本やノートなんかを示す記述がないやろ。ほな、この手帳自体の頁を示しとるんやないか」  鈴菜と夢路の会話を聴いて、桃はは六頁目を開いた。そこには、毎日の占いの結果をメモした記録が並んでいた。 姉は毎日朝のテレビ番組の星座占いをかかさず見ていたのを思い出した。 「この頁のどこに暗証番号があるのよ」 「変わった記述はあらへんか」 「ちょっと待って、私達射手座なのに、一カ所だけ牡羊座の運勢が書いてある」 「三頁と九頁と五頁はどうや?」  三頁目に蟹座、九頁目に獅子座、五頁目には牡牛座の記述があった。 「けーNOの数字の後の星マークは、星座を意味しているんや。十二宮の順番だと、牡羊座は一番最初、蟹座は四番目、獅子座は五番、牡牛座は二番や。つまり1452や」  しかし、その数字でもロックは解除されなかった。 「ぜんぜん解除されないんだけど」  桃が夢路を睨む。 「なんやねん、みんなで考えとるんやから、わいだけ非難するなや」 「これ本当に暗証番号を意味する暗号文なの?」  しかし桃の非難に夢路はめげない。 「諦めたらあかん。タマ信を解読して、桜の財布にあるキャッシュカードで取り引き出来るか試すんや。取り引き出来たら、他の暗号文も解読の仕方が間違うとるだけで、正しく解読すればロックの解除が出来るかもしれへん」 「勝手に他人のキャッシュカードを使うのは犯罪です。かなり不味いです…」  夢路は、鈴菜の警告を無視して、タマ信の解読を始めた。 「最初の五千百二は四桁やけど、そのまんま暗証番号なわけあらへん。その後の文章は、(例、乱世の時代三国志、乱世で見るのは地獄だけ)  三国志言うたら、3594を思い浮かべるけど、そんな簡単な訳あらへん。正しい解読はこうや。3594が乱世で、その乱世の地獄、つまり459だけ見たらええねん。それに最初の(例)はゼロや。合わせたら0594。キャッシュカード貸してえな」 「貸すわけないでしょ、全額下ろされて使われそうだもん。試すなら、私がやるわよ」 「ほな、近くのコンビニ行ってみよや」  夢路が立ち上がり、一緒にコンビニに行くように桃を急かした。二条城を出てコンビニを探すと、ATMで取り引きを試みた。しかし0594も五千百二も試したが、暗証番号が違うため取り引き出来なかった。 「この手帳のメモは何やねん、わけわからへん…」 「0000から順番に打ち込むしかないか…」  和花も夢路に同感して肩を落とした。 「それが一番堅実かもしれません。暗号文の事は忘れて、修学旅行に戻りましょう」  鈴菜の言葉に従い、修学旅行を再開したD班は、東寺に向かった。  二条城で時間を使いすぎたせいて、東寺駅に着くと既に十五時半を回っていた。  拝観受付時間は十六時までだ。  十六時少し前に東寺に着くと、入場料を払い、まず金堂と講堂を小走りで拝観した。  そして五重塔を見た頃には、拝観区域の閉門時間が近付いていたため、慌てて外に出た。  東寺から出ると、鈴菜が汗を拭きながら言った。 「走ってただけで、何を見たんだか分かりませんでした」 「何や分からへん一日やったけど、そろそろ戻らなホテルの夕食に遅れてまう」  夢路が遠い目をして落日を見詰める。四人はホテルの夕食を目指して東寺駅に向かった。    朝食のバイキングと違い、夕食は大広間で行われた。  大広間の隅で固まっていたD班のもとに、C組の吹雪が箸とうどんの小鉢を手にして近寄って来た。 「あれ、携帯電話のロック解除、まだやってたのか」  桜の携帯電話を操作する和花を見て、吹雪が訊いた。 「まだ0777番だよ」  和花が片手に持つ割り箸を泳がせながら言う。 「お姉ちゃんの手帳に、暗証番号のヒントみたいな記述があったんだけどね。暗号文みたいな文章で、解読しようとしたけど解からなかったのよ」 「そういえば、授業中の暇つぶしに、桜と暗号文クイズを出し合っって遊んだ事があった。手帳のは、どんな暗号文なんだ?」  桃は吹雪に、桜の手帳を見せた。 「タマ信は多摩川信用金庫の事で、その他の二つは携帯電話に関する暗証番号やと思うねん。バッグごと盗難されて手帳に書かれたメモを見られても、簡単には解からんように暗号文でメモしたと思うんや」  夢路は自分達が暗号文をどう解読したのか説明した。吹雪は暫く考え込んだ後言った。 「最初のタマ信は五千百二と3594、そして解読結果の0594が。けーぱすは鎌倉幕府が開かれた1192年と、頼家の誕生した1182年と、最終的に2303が導き出されたんだな。どちらの暗号文も四桁の数字が三つ導き出せるようになっている」 「それがなんやねん」 「盗んだ人間に暗証番号が解からないよう書いたなら、(息子が鍵持ち扉を開く)の記述はおかしい。暗証番号を示す暗号文だと暗示するのは不自然だ」  吹雪の言いたい事を悟って、夢路が嗚呼っと大声を出した。 「多摩川信用金庫のATMの暗証番号入力は、三回打ち間違うと取引出来なくなるしくみになっている。桜の携帯電話の会社も、課金の際の暗証番号を三回間違うと、その日は取引出来なくなる。これは盗んだ人に、あえて三回打たせて、キャッシュカードや携帯電話を使えなくするトラップなのさ」 「私達、お姉ちゃんの罠に嵌って、意味の無い事をやってたの?」 「暗証番号が一杯書いてあったら不自然ですけど、暗証番号の可能性のある暗号文なら、解読しながら入力して、罠に嵌るかもしれません。事実、私達はロック解除しようと思って、どんどん解読結果を打ち込んでました」  吹雪の説明に、桃と鈴菜が肩を落とした。 「キャッシュカードなら、利用停止やったな。せやけど、まだチャンスはある。暗号文の前にあった漢数字や。桜が本物の暗証番号もメモしといたなら、暗号文との関連が無い漢数字が怪しいと思わへんか?」 「五千百二もお姉ちゃんのトラップのはず」 「漢数字をノーヒントの暗号と考えるなら、トラップを兼ねた本物の暗号て考えるべきや」 「でも、その解き方がノーヒントで、桜しか知らないんじゃお手上げじゃないか」  和花が横槍を入れる。 「お姉ちゃんの幽霊がまた現われてくれれば、直接訊けるのに…」  桃が思わず呟くと、それを聞いた夢路と吹雪は驚いた。 「幽霊って何やねん。しかも(また)って!」  桃が気まずい顔で視線を落とす。昨日の晩、桜の幽霊について誰にも話さないと決めたはずだ。それを思い出した桃は、どう応えようか迷った。すると、もう喋ってしまったのだから仕方が無いと、和花が口を開いた。 「昨日の夜ね、府警の聴取が終わった後に、自分と桃達の部屋に桜の幽霊が現われたんだ」 「わいはそんなん知らん」 「夢路は熟睡してたからね。夜中に目が覚めたら、桜が部屋に居たんだ。自分と桃にメッセージを残して行った」 「メッセージ?それでどないしたん?」 「桜に言われた通りに、渡り廊下に行って、窓に書かれた相合傘を見つけた」 「渡り廊下て、桜が落っこちた所やろ。何でそんな所にそんな落書きがあんねん」  和花は賀茂警部補に話したのと同じように、あの落書きに対する自分の推理を説明した。  和花が話し終えると、夢路と吹雪は戸惑う想いを述べた。 「その和花の推知はええとしてやな。桜の幽霊に導かれてって所がわからんわ」 「幽霊に導かれてなんて、府警の人が信じたのか?」 「賀茂さんには、桜の幽霊の話しはしてないよ」  そこに関先生の声が響いた。 「そろそろ時間なので、食べ終わっている方は部屋に戻りましょう」  吹雪を含む五人は大広間を出ると、混雑しているエレベーターを避けて階段に向かった。階段を登る途中で夢路が口を開いた。 「ホンマに桜の幽霊が居るんなら、暗号考えた本人に訊いたら話しも早いんやけどな。せやけど、念じて簡単に出て来るわけでもないやろ。幽霊に頼らんで、残された漢数字の暗号を勘考してみるんや」  すると吹雪が意見した。 「(けーNO)だけは他の二つと違って、トラップの暗証番号が三つ無いだろ。あの暗号文から導き出されるのは、6395と星座の順番に置き換えた1452だけだもの。携帯電話のセキュリティロックは、三回以上打っても入力出来なくなる事はないから、トラップが用意されてないのだと思う」 「ほな(けーNO)の二億三が、セキュリティロックの解除番号やな」 「吹雪さんありがとう、協力してもらえたお蔭で、答えに近付いた気がする」 「私も二億三の解読を考えてみるよ」  和花が礼を言うと、吹雪は笑顔で応えて部屋に戻った。残された四人も、五階のそれぞれの部屋に戻った。桃と鈴菜は部屋に戻ると、露天風呂に行って、湯船で暗号を解読しようと相談した。  七  露天温泉に着くと、桃はまず湯船に浸かる前に身体を洗った。  横では鈴菜もそうしている。  そこに春野先生が脱衣所から入って来た。 「あ、春野先生」  桃が呼び止めると、春野先生も近寄って来て、桃達の隣で身体を洗い始めた。  三人は洗い終えると、順番に湯船に入った。気温の低い中で裸でいたせいか、湯船に入ると肌がお湯の熱さでジィンとする。  空を見上げるが、気温とお湯の温度差でゆらゆらとした湯気が一面に登っていて、星空は見えない。 「桜さん、本当に可哀想にね。それに桃ちゃん、心の面は大丈夫なの?」  春野が目を潤ませながら桃に言った。  黙って頷く桃。  鈴菜も伏し目がちになる。 「昨日、賀茂警部補から頼まれた、お姉ちゃんの携帯電話のロック解除、まだやってるんです。お姉ちゃんの命が失われた事だけを考えていると、どうしょうもなく辛い気持ちになるけど、捜査に協力してロック解除の事だけを考えていると、これはお姉ちゃんのためなんだ、おねえちゃんの仇を討つためなんだって思えて来て、責任感からか何だか苦しい気持ちも抑えられて来るんです」  桃は微かに口元を綻ばせて言った。  春野は、少しでも笑顔を見せられるならば大丈夫だろう、と桃の表情を見て感じた。  しかし、桃の表情は口元は笑っているように見えるが、瞳は心悲しさを漂わせている。  それを見て取った春野は、やはり心配になり、何とか勇気付けなければと、掛ける言葉を思案した。 「私ね、子供の頃に両親を事故で亡くしたのよ。確か関西一円が大雪の日で、両親が乗っていた車がスリップしたのだと覚えてるわ」 「そうなのですか…」  鈴菜が春野先生の悲しみを、そのまま受け取ったかの様な表情をする。 「祖父母も亡くなってたから、その後、施設に入ったりして、最終的には養子縁組に出されてね、すごく苦労したの。でもね…周りの人に支えられたりしながら何とか生きて来て、こうして皆と一緒に居られる仕事にも就けたし、今も支えてくれる彼がいるし。そうやって、沢山の人に支えられて来たから、今度は自分が誰かを支えて行こうって、そう思っているの。だから桃ちゃん、辛かったり苦しかったりしたら、何でも先生に話してね。先生も、それにクラスのみんなも支えてくれると思うから」  春野先生はそう言うと目を閉じた。  桃は春野先生と鈴菜を交互に見遣った。支えてくれる先生に友達。ただ自分には、春野先生と違って彼氏は居ないな、と思った。その瞬間、何故か和花の顔が頭に浮かび思わず赤面した。 「桃ちゃん顔が赤い。のぼせたのではないですか」  鈴菜の気遣いに、大丈夫大丈夫と首を振る。 (和花はただの幼馴染でサークル仲間なだけだよね。チョコも義理のつもりだし…)  桃は、心の中に浮かんだ和花の顔を振り払った。    露天風呂を出て部屋に戻ると、桃と鈴菜は二億三の解読を始めた。露天風呂では、その後も春野先生と話し込んでしまい、暗号の事はすっかり忘れていた。  しかし部屋で暗号解読をしている最中も、桃は和花の事が頭から離れなかった。 「和花、チョコ上げたら、ちゃんと食べてくれるかな」  独り言を漏らした。 「チョコですか?和花君なら食べてくれます。絶対」  炬燵の上のノートに書かれた二億三の文字を見詰めていた鈴菜が、話しかけられたのかと勘違いして返事をした。独り言に返事をされてしまい恥ずかしそうにしながら、今夜こそチョコを渡そうと決心していた。  夢路と和花は、二階にある大浴場を満喫した後、カフェバーに向かった。  夢路は珈琲を、和花はメロンソーダを注文して、窓から見える景色に和んだ。  昨日は、桜がこの窓の外を通り過ぎた。思い出した途端、幼馴染を失った悲しみが夜景に投影され、どことなく寂しい景色に見えてきた。 「ほな、暗号解読始めようや」  夢路が、持参したボールペンを取り出し、コースターに二億三と書く。 「三文字の漢数字が四桁のアラビア数字を意味しとるんやろ。ほな、この億をオーとク、つまり0と9にしてみるてのはどうや。つまり2093や」  和花が、預かっている桜の携帯電話に番号を打ち込むが、ロックは解除されない。夢路は次から次へと、暗号を独自に解釈して数字を口に出す。その度に、和花が試す。しかし画面には(ロックNoが違います)と表示されるだけだ。その内、二人はだらけて来て、携帯電話を閉じて駄弁り始めた。  二十三時の消灯時間が近付いて来た頃に、和花の携帯電話が鳴った。桃からの電話だ。 「あのね、今から屋上に来て欲しいの。あ、間違っても昨日みたいに夢路を連れて来たりしないでね」  和花はそれを夢路に伝えると、一人でエレベーターに乗り屋上に向かった。屋上のエレベーターホールから、引き戸を開けて外に出る。  枯山水の庭園に設けられた長椅子に女の子が座っていた。長椅子の脇の日傘に隠れて顔は見えないが、ミサンガを吐けた片手が手招きしている。和花は長椅子まで近付き、傘を覗き込んだ。 「桃なの?用って何?」  長椅子に腰掛けて空を見上げると、星空を滑る流れ星が見えた。桃がポケットから包装紙に包まれた箱を差出した。 「ありがと、義理チョコでも嬉しいよ」  桃は顔を桃色にして、和花の目を見つめた。 「それ義理のつもりだったけど、本命にする」  和花は一瞬戸惑って混乱したが、間抜けな顔で訊いた。 「本命…って、あの本命?」 「彼氏になって」 「そんなの急に言われても…」 「今直ぐ返事して」 「う…うん。どっちかって言うと、なれるかも…」  すると、桃は顔を明るくした。 「じゃあ、幼馴染の関係は卒業ね」  そして和花の唇に自分の唇を重ねた。  桃は唇を離すと、立ち上がって両手でお尻を払った。 「それともう一つ、約束して。お姉ちゃんの命を奪った犯人を一緒に捕まえるって」 「うん、力を合わせて犯人を見つけよう」  和花が笑顔で応える。 「じゃ、寒いし消灯時間も過ぎてるし、戻りましょ」  二人は手をつなぐと、エレベーターホールに向かった。  ホールに入る所で、ホテルの裏山の階段を、関先生が登って行くのが目に入った。あの黒のパーカーは関先生に間違いない。露天風呂は二十四時間開いているが、消灯時間までは生徒達が入れ替わり立ち替わり入浴していて騒がしいため、静かに入浴出来るこの時間を選んだのかもしれない。二人は、消灯時間後に部屋に居ないのがバレるのは不味いと、関先生に見付からないように急ぎ足でエレベーターに乗り込んで、五階に向かった。  和花は桜の携帯電話を桃に返してから部屋に戻った。しかし部屋に夢路の姿は無かった。  夢路は二階の大浴場の湯船に再び浸かっていた。  用事が済んだら、和花はカフェバーに戻って来ると思って、その後も暫く待っていた。しかし何時までたっても戻らないので、待ち草臥れて風呂に入りたくなった。  温まった身体を湯船から出すと、脱衣所で軽く身体を拭き浴衣を着た。そして珈琲が飲みたくなり、一階の自販機に向かった。深夜まで営業しているカフェバーのラストオーダーは過ぎている。  ロビーに着くと、自販機にお金を入れた。誰も居ない受付の壁に掛かった時計を見ると、二十三時四十分を回っている。先生に見付かったら怒られるだろう。自販機から珈琲を取り出し、飲みながら電気の落とされたロビーをウロウロする。受付には人が居ない。レストランも閉店しており、準備中の立て札が掲げられている。夢路は暗いレストランの中を覗いてみた。人の気配はない。  突然、轟音が響いた。  何かが空から落ちてきて、レストランの硝子張りの屋根を突き破った。  夢路は驚いて顔を背けた。しかし直ぐに向き直ると、硝子張りの扉からレストランの中を覗き込んだ。  血まみれの関先生が倒れていた。 今の物音に気付き、事務所から慌ただしく騒ぐ声がする。  夢路は関先生が落ちて来た硝子張りの屋根を、閉じられた扉越しに見上げてみた。露天風呂に繋がる断崖に設けられた階段が見える。  階段の途中に誰かが居た。  桃だった。  階段の途中から関先生を見下ろしている。  事務所から受付係りの女性と、事務員の男性が駆けつけて来た。事務員が慌てて受付係りに言う。 「すぐにレストランの鍵を開けなあかん、鍵は…!」 「鍵は、支配人のデスクの中に、でもデスクの鍵があらへん」 「予備の鍵があったやろ…」 「それなら今、旧館で作業しとる香織さんが持ってます!」 「ほなら、早う取りに行かんかい!」  事務員に言われた受付係は、階段を駆け上がって行った。 「支配人に連絡せな」  事務員は、事務所に走って行く。  レストランの前には再び夢路一人になった。夢路はもう一度断崖の階段を見上げてみたが、桃の姿は無かった。すると通用口から桃が入って来た。白く無表情の桃が夢路に近付いて来た。 「落ちるとこ見たんか?」  桃は無言で頷き、夢路の前を通り過ぎて行った。  八  レストランに横たわる遺体はブルーシートが掛けられており、その周囲には硝子の破片が散りばめられていた。遺体の傍では、中嶋を含めた制服警官と鑑識が動き回っている。 「どんな感じや。鶴田はんは何処やねん」  賀茂が話し掛けると、そのうちの一人の鑑識係が動きを止めた。 「鶴田はんなら上ですわ。どうも崖の上の露天風呂の男湯から落っこちたみたいで、鶴田はんなら、そっちに居てはります」 「賀茂さん、防犯カメラの映像なんですが…」  中嶋が報告する。 「受付にある防犯カメラをチェックしたら、二十三時十五分に黒のパーカーの人物が映っています。受付係りの話によれば、それまで関先生は、ロビーのソファーに座って新聞を読んでいたそうです」 「その後、露天風呂に向かって、あの上から落っこちたんやな。転落したのは何時やねん」 「目撃者の証言によれば二十三時四十五分頃だそうです」 「そうかあ、ほなちょっと上も見てこよか」  そして山寺と共にレストランを出ると、小走りに断崖の階段を駆け上がって露天風呂に向かった。 「二日続けてご苦労さんどす」  断崖の上に着くと、鶴田が労いの言葉を掛けた。加茂は返事をすると、鶴田の傍に寄り、崖の上から下を覗き込んだ。 「岩がゴツゴツと出っ張っとるから、こっから落ちたら痛いやろなあ」 「ここに履物と携帯電話が並べて置いてありましてなあ、もしかしたら携帯電話に遺書があるかもしれへんて、他のモンが御遺族に携帯電話閲覧の許可もろうてる所ですわ」  鶴田に言われて崖っぷちを見ると、確かに靴と携帯電話が並べてある。  刑事の一人が携帯電話を閉じると賀茂に言った。 「御遺族から許可が取れました」 「ほな中見させてもらいますか」  そう言うと鶴田は、関先生の携帯電話を開いた。 「何や未送信のメールが一通ありまっせ。やっぱこれ遺書ですわ」  関先生の未送信メールには、こう書かれていた。 『私の身勝手な想いから、花巻桜に恋をし、その想いが叶わないとわかると、桜をこの手にかけてしまった。そして今朝、目覚めと共に罪の重さに気付いた。警察の手も私の身に及ぼうとしている。責任を取って自殺する』 「この未送信メールの御蔭で、二つの転落死は全て解決や」  山寺が悔しそうな顔をした。 「追い詰められて死の覚悟を決めて、こっからダイブしたんやな」  賀茂は断崖の上から、眼下の遺体を見下ろして言った。    時刻は午前一時。  夢路と和花は、部屋で炬燵を挟んでお茶を啜っていた。  部屋の外では、また警察が来ているのに気付いた生徒が騒いでいて、春野先生が宥めている。  夢路は関先生転落を目撃したため、事務員や受付係と供に、賀茂や山寺とは別の刑事から聴取を受けた。その関先生の転落から聴取までの経緯を、和花に説明していた。 「それとな…これは警察には言うてへんのやけどな」  夢路がお茶を啜りながら言う。何杯目になるのか分からないそのお茶は、すでに出涸らしになっている。 「和花にだけは言うとくわ。関先生が断崖から落っこちた時にな、その断崖の階段に桃が居った。ただ居った所を見ただけやけどな」 「何で桃がそのタイミングでそこに…」 「わいに訊かれても分からへん。訊くんやったら、桃に直接訊いたらええわ。せやけど、もう時間が遅いから、明日でええやろ」  夢路はそう言うと、座椅子から立ち上がり、布団に向かった。  和花の中で桃に対する疑いが生じた。しかし直ぐにその疑念を振り払った。何か事情があって、その場に居合わせただけかもしれない。  どちらにしろ、夢路の言う通り、桃に直接訊いて見るのが良い。そう自分に言い聞かせて和花も布団に潜った。  彼女は夢を見ていた。  最近良く見る夢だ。  辛かった過去。楽しかった記憶。それが夢の中で再生される。  子供の頃に一緒に遊んだ記憶。  姉は絵が美味く、スケッチブックに風景画を描いていた。  彼女も姉を真似て絵を描いたが、姉の画力には及ばなかった。  姉は、常に彼女にとって憧れの存在だった。  彼女に比べると、勉強も運動も出来て、両親からも愛されていた。  有る日、姉が絵のコンクールで賞を取ると、両親は泣いて喜んだ。  姉は褒められ、ますます愛された。  彼女はそれが嬉しかった。  大好きな姉が愛され幸せそうな笑顔を見せる。  姉の幸せは彼女の幸せでもあったからだ。  彼女の事を、姉はとても大切にし、愛してくれていた。  姉は彼女を可愛がり、どこに行く時も連れて歩いた。  私の一番大切な妹。  姉は友達に彼女を紹介する時、必ずそう言って頭を撫でてくれた。  二人で近所の河に遊びに行った時の事だ。  彼女は河の中で深みにはまり、水に沈んだ。  息をしようとすると口に水が入り、水面に煌く太陽が徐々に遠ざかって行く。  死ぬのだと思った。   そこに姉の両手が伸びた。  細い二本の腕が、彼女の身体を掴む。  そして水面へと力強く引き上げた。  姉は、彼女を抱きしめると泣いた。  その時、彼女は思った。  いつか、姉の身に何かが起こった時、今度は彼女が命をかけて姉を守ろう。  ある日、姉が言った。  もう、貴女の傍には居られなくなる。  彼女は絶望した。  大好きな姉と離れ離れになってしまう。  もう姉は、あの美しい声で語りかけてくれない。  大好きな姉が消えてしまう。  夢の場面が変わる。  あの男は、今日もまた酒に酔って私を殴るのだろうか。  あの女は今日もまたご飯を作ってはくれなかった。  だから今日もまた万引きをして捕まる。 お前に愛情を感じた事はない。  反抗的な顔だ。  私達の言う事に素直じゃない。  もうお前はいらない。  お前は間違って私達の子供になったのだ。 再び夢の場面が変わる。 紅葉の銀杏の木の下で、姉は笑顔を見せる。  愛しいあの人に向けて。 幸せそうな姉。  愛されている姉。  姉が幸せだったらそれで良い。 私は姉の幸せを、命をかけて守らなければならない。 そして目が覚めた。    修学旅行三日目。 朝七時に鈴菜が目覚めると、隣の布団に桃の姿は無かった。部屋の中には居ない。  朝から風呂にでも行っているのかもしれない。関先生の転落死で、露天風呂は立ち入り禁止になっているから、二階の大浴場だろう。 朝食を摂るためにレストランに行くと、先に来ていた和花と夢路にその事を伝えた。 桃に訊きたい事があった和花も、風呂に行っているのなら後で訊こうと朝食を続けた。  しかしチェックアウト三十分前になっても、桃は部屋に戻らなかった。鈴菜が春野先生に伝えると、教師達はホテルを見回り、数人の仲居が旧館も探したが、桃はどこにも居なかった。  桃は失踪したのだ。  報せを受けて駆けつけた山寺刑事に、防犯カメラの映像を確認してもらうと、午前四時三十分に、ホテルを出て行く桃の姿があった。  学校側と京都府警は協議をして、桃の捜索を府警に任せ、他の生徒は予定通りに新幹線で東京に帰す事になった。桃の失踪について、御両親には春野が連絡をした。そして生徒達は、十一時に発車する新幹線に乗車するため、地下鉄を乗り継いで京都駅に向かった。  電車の中で、和花は両目を閉じて黙考していた。何故、桃はいなくなったのか。  桜の死は関先生の手による物で、あのホテルでの事件は幕を引いたはずだ。しかし、もし関先生の死も偽装自殺だった場合、真犯人による第三の事件が起きるかもしれない。その三番目の被害者が、桃ではない事を願いたい。  そこまで勘考した所で、瞼の裏に蝋燭が灯り、工房の作業台で人形にノミを振るう六角堂の姿が見えた。綾音は卓袱台の上で黒猫を抱きながら蜷局を巻いて、六角堂の作業を見守っている。不意に綾音が口を開いた。 「貴男は事件の真相に繋がるかもしれない重大な情報を、どうして見てみぬふりをしているのかしら」  そう言われて、昨夜夢路から聞かされた桃の行動が、和花の脳裏によぎった。それは出来れば記憶の奥底にしまって置きたかった。 (関先生が断崖から落っこちた時にな、その断崖の階段に桃が居った)  六角堂が、ノミを振るう両手を休めた。 「ここには私達三人しか居ない。他には誰も聴いてないから、素直に話しても問題ないはずだよ」  桃が、犯人であるはずがない。 「疑いを抱いているのだね。じゃあ、今からそれを解明しよう。さあ、こっちにおいで」  六角堂は作業台から離れると、卓袱台の座布団に胡座をかいた。綾音も卓袱台から降りて、次の間に湯呑みと急須を取りに行く。和花はぼんやりと工房を進むと、六角堂の対面に座った。 「もし桃ちゃんが桜ちゃん殺害の犯人だと仮定したら、渡り廊下のトリックに失敗したと判断した後、どういう行動を取るかな。想像してみてごらん」  六角堂の問いに、和花は犯人の視点に立って想像してみた。 「自分に嫌疑が及ばないように、スケーブゴートを考えたんじゃないかと思います。それが関先生かもしれない」 「スケーブゴートを立てる前に、やらなきゃいけない事がある。犯人は渡り廊下のトリックを、完全な失敗にする必要があった。つまりスケーブゴートとして殺害される関先生に、自殺の動機を与えたかったのさ」 「桜の偽装自殺が看破されたから、逮捕される前に関先生は自殺した。そんなシナリオですね」 「渡り廊下のトリックの看破は、どんな経緯だったかしら」  綾音が、並べた湯呑みに茶を注ぎながら訊く。和花はそのいきさつを思い出した。  桜の幽霊に導かれて渡り廊下に向かい、あの落書きに気付いたのだ。 「そうか…あの桜の幽霊、まさか桃が」 「桃ちゃんの変装だと言いたいんだね」  六角堂が茶を啜りながら訊いた。  あの姉妹は、体型も顔付きも瓜二つだ。  予め用意してあった眼鏡を掛けた桃は、和花達の部屋に来ると、メッセージを残して立ち去った。そして自室に戻ると、口紅で書いた血を落として、鈴菜を起こす。その後暫くして和花が訪れる。そんなトリックを使ったのかもしれない。それに幽霊は立ち去っる時、壁を通り抜けたりせずに、部屋の引き戸を開けて出て行った。だからあれは幽霊ではなく、生きた人間…。 「逆よ。客室はオートロックよ。生きた人間には部屋に侵入する全がないわ」  言われてみれば、その通りだ。 「幽霊の正体は桃じゃないのか…」 「その通り、だいたい桜ちゃんが転落した後に、貴男と桃ちゃんはホテルの外に居たのでしょう。貴男が目撃した旧館六階の窓に映る幽かな光が、犯人の持つ懐中電灯の物だとしたら、桃ちゃんが犯人な訳がないわ」  確かにその通りだ。自分の中にあった桃に対する疑念が氷解して、人心地ついた。 「じゃあ、そろそろ京都駅に着く頃だから、和花君は帰った方がいい」  そう言われて、和花はお茶を一気に飲み干すと、席を立った。そして二人に礼を告げると、工房を後にした。  目を開いた。  電車は丁度、京都駅に滑り込む所だ。電車からホームに降りると、他の生徒の流れにのって新幹線のホームに向かった。そして東京駅行きの上りの新幹線に乗車する。座席に着くと窓の外に目をやり、ホームを行き交う人々の中に桃の姿を探した。  桃の事だから、何かつまらない用事でホテルを離れていて、後から慌てて追い付いて来るのではないかと思った。和花はもう一度、桃の姿がないか窓の外の人ごみを見やった。  桃は居た。  自慢の長い睫毛と大きめの瞳を小刻みに揺らして、何かを訴えるような視線で和花を見詰めている。  いや、桃ではない。血濡れのジャージを着て、鼻と耳から血を垂らしている。  桜が唇を動かした。 (…貴船に行って)  頭に直接声が響く。 (…桃が危ない。助…けて)  和花は座席から勢い良く立ち上がると、列車の外に飛び出した。そしてホームを見回す。しかし桜の姿は何処にもない。  ホームの隅で春野先生が賀茂警部補と立ち話しをしていた。賀茂は桃の捜索の予定について学校側に説明するため、パトカーで生徒達よりも先に京都駅に来ていた。  和花は賀茂から説明を受けている春野先生の前に割って入った。 「桃が危ないんです!すぐに貴船に行かないと!」 「あなた、花巻さんの居所を知ってるの?」  何と答えようか迷った。まさか幽霊に報らされたとは言えない。 「昨日の夜、犯人を二人で捕まえようって誓いを立てたんです。今思うと何でそんな誓いを立てたのか後悔しているけど、その時桃が(桜を殺した犯人は貴船にいる)って言ってたのを思い出したんです」  和花は事実を交えた嘘をついた。 「あなた達は、何でそんな勝手な事を考えるの!」  春野が目くじらを立てて叱る。賀茂も眉を顰めながら、和花の言葉に不満そうに返した。 「犯人て、関先生やないんか」  ホームに新幹線の発車のベルが鳴る。 「桃がどう考えてるかは判らないけど、兎に角貴船で桃を探してみないと…」  和花が懇願すると賀茂は渋々応じた。 「ほな、しゃあないな、新幹線も出発してもうたし、一緒にパトカー乗って探しに行こか。だいたいの居場所は判っとるんか?」 「貴船って事しか…」 「えらい大雑把やな」  三人は駅を出ると、中嶋巡査が運転するパトカーに乗り込み、貴船に向った。  九  その日の早朝。  ホテルの客室に備え付けられた置き時計の短針は、ギリシャ数字の四を指している。  炬燵に入りながら桜の携帯電話を操作する桃の横で、布団に潜った鈴菜が寝息をたてている。  桃は徹夜で、ロック解除を続けていた。 一旦携帯電話を炬燵に置き、溜め息を吐きながら寝入っている鈴菜の寝顔に視線を移した。鈴菜の寝顔を見詰めていると、ロックの解除など放り出して自分も布団に潜り込みたい欲求にかられてくる。しかし東京に帰らなければならないタイムリミットも迫っている。何とか早く解除に成功したい。  警察の表面上の見解では、桜の偽装自殺は関先生によるもので、その関先生の死をもって事件は幕を引かれた事になっている。しかし桃は、まだ事件が解決してないと確信していた。だから真相に繋がる可能性のある、何かの情報や記録があるかもしれない携帯電話のロック解除を続けていた。 「でも番号を順番に打っていくやり方だと、徹夜でやっても無理だよね…」  桃は半ば諦めかけながら呟くと、下半身を炬燵に入れたままその場に仰向けになって寝そべった。そして手帳に書かれていた、暗号を思い出した。  吹雪は、あの暗号文の中の、(二億三)がセキュリティロック解除の暗証番号を示していると言っていた。それが暗証番号を意味しているのなら、四桁のアラビア数字に変換する方法があるはずだ。三文字で四桁のアラビア数字を表しているなら、三文字の内のどれか一つが、二桁のアラビア数字を意味しているのかもしれない。  二と億と三の内の、どれが二桁の数字を意味しているのか。その三文字を、脳内に思い浮かべてみる。 「億だけ密度濃いな…」  他の二や三と見比べると、億の部分だけ線が多くて密度が高い。画数が多いのだ。ほかは密度が薄い。桃は億の画数を数えてみた。  十五画。  二と三は2画と3画。 つまり二億三の画数を並べると、2153になる。 (タマ信)の五千百二は4362、(けーぱす)の四万十五は5324になる。 「億が二つの数字を意味しているから、二億三だけ三文字なんだ。解読出来たのかな…」  桃は呟くと、桜の携帯電話を手に取り、2153と入力した。ロックNo.が違います、と表示されない。  桃は少し上気した表情をすると、解除出来たら連絡をしてほしい、と賀茂に言われていた事はすっかり忘れて、桜の携帯電話のメールやアドレス帳を覗いてみた。 発信履歴を見ると、桜が転落する一時間ほど前の二十二時二十分に、荻原と登録された人物に電話をかけている履歴があった。確か荻原という人物は、姉が学園祭の時に出会った他校の男子だ。  時計を見るとまだ午前四時十五分。朝早いと思いながらも、桃はそのまま桜の携帯電話で荻原に電話をかけてみた。しかし呼び出し音が鳴る事なく留守番電話に繋がった。荻原は、まだ睡眠中なのかもしれない。  桃は一息つくため、炬燵に置かれた茶筒から茶葉を一掴みして急須に移すと、ポットから熱湯を注いで暫く待った。急須の注ぎ口から湯気がゆらゆらと上がる。微かなお茶の香りを鼻腔に感じながら、頭の中を整理してみた。  桃は、関先生の転落死について、自殺ではないと確信している。  あの時、関先生の後を追いかけて階段を駆け上がり露天風呂に向かうと、階段の小屋は施錠されていて、中に入る事は出来なかった。関先生が鍵を掛けたのだろうか。そう思って小屋の入り口をノックしたが、返事は無かった。仕方がなく階段を降りていると、断崖の上の露天風呂から関先生が落下していった。  その直後だった。数メートル上の露天風呂から(バタン)と物音がした。だからあの時、露天風呂には関先生の他にも誰か居たのではないかと、桃は疑っていた。  その事を警察に伝えるべきだろうか。桃が階段に居た事を夢路が警察に証言していれば、桃は被疑者とされているかもしれない。被疑者扱いされている場合、その証言を警察は信じてくれるだろうか。  桃は急須から湯呑みにお茶を注ぐと、両手で湯呑みを掴んで「熱っ」と声を出した。そして、そっと唇を湯呑みに付けた。  あの物音は扉か何かが閉まる音に聞こえた。しかし誰かが小屋から出て来るのを見ていない。だとしたら何処の扉の音なのか。  桃は、露天風呂の内部の構造を思い出してみた。  まず小屋に入ると廊下がある。しかし廊下と脱衣所、脱衣所と浴場を仕切る出入り口は木製の引き戸で、開けるとガラガラと音がするが、開き戸のようなバタンと鳴るタイプではない。しかし男湯を覗いた時に、浴場内にボイラー室に繋がる開き戸があったのを憶えている。 「鳴ったのは、あの扉しかない…」  桃は、お茶を飲み終えると時計を見た。 四時二十分。 「もう起きてるはずね」  そう言うと、熟睡する鈴菜を残して、浴衣のまま部屋を出て行った。    ホテルを出ると、隣の敷地にある従業員寮に向かった。  二階建ての小豆色の屋根をしたアパートが三棟建っている。桃はアパートの郵便受けを順番に見て、二つ目の棟の201号室の郵便受に(岩田香織)の氏名がマジックで書かれているのを見つけた。 一昨日の怪談会の時、仲居の仕事は朝早いから夜明け前から起きている事や、隣の敷地の寮に住んでいる事を聞かされていた。 「起きていてくれると良いな…」  201号室のドアをノックする。少し間を置いてドアが開いた。香織は、ドアの前に桃が居るのを見て驚いた様子だった。ホテルに宿泊している客が、プライベートな空間である従業員寮に突然やって来れば、驚くのも当たり前だ。  桃は、自分の行為が図々しく非礼なものだと感じて、まずそれを詫びた。 そして、どうしても香織さんに訊ねたい事がある、と懇願した。 香織は訝しそうにしていたが、桃の低姿勢な態度に負けたのと、業務時間外とはいえお客様に失礼があってはならないと考え、室内に招き入れた。  そして桃が浴衣に羽織りしか着ていないのを見て、寒いだろうからと、部屋の中央にある炬燵の、一番ファンヒーターに近い座布団に座らせた。桃は、炬燵に座ったまま何か思い悩むような顔で黙っていた。  香織はキッチンで珈琲を淹れて、それを桃に差し出しながら対面に座わった。 「訊ねたい事って何かしら?」  香織が様子を窺うように、俯き加減の桃の顔を覗き込むと、彼女は堰を切ったように話し出した。 「事件について訊ねたい事があるんです…」 「事件の事?」 「一昨日の夜、同室の吹雪さんがバスケ部のミーティングで呼び出されて、お姉ちゃんが独りになった隙に、犯人がお姉ちゃんを渡り廊下に呼び出したのだと、私、思ってます」 「そうかもしれないけど…」 「あの時、お姉ちゃんが部屋に独りになったのは、犯人にとって計画どうりなのか、偶然なのかは判りません。でも計画どうりなら、部屋割りを決める時と、ミーティングを決めた時にも、犯人が関わっていると思ったんです」 「それは、そうかもしれないわね…。ならやっぱり、関先生が犯人と云う事かしら。担任なら、部屋割りに関与出来るかもしれないわ」 「吹雪さんにミーティングの伝言をしたのも関先生だと聞いています。だから部屋割りとミーティングを決めた人物が誰なのか訊くために、関先生の後を追ったんです」 「追ったって、何時?」 「関先生が転落する直前にです」 「じゃあ、関先生の転落時に、近くに居たの?」 「はい。そして階段に居た時に、関先生が転落した後、上の露天風呂から物音がしたのを聴いています」 「音…」 「あの露天風呂、男湯にボイラー室に繋がる開き戸がありますよね。あれが鳴ったんだと思います。つまり露天風呂には他にも誰か居て、関先生を突き落とした後に、ボイラー室から逃走したんです」  桃はそこまで話すと、珈琲を一口飲んだ。 「何で突然、そんな事を私に説明するの?そういう事は速やかに警察に伝えた方が良いんじゃないかしら」  香織が戸惑いの表情で訊き返すと、桃は話を続けた。 「私、関先生が転落した時に、階段に居た所をクラスメイトに目撃されてます。警察が関先生の死について、偽装自殺の可能性があると考えているとしたら、私は被疑者です。証言しても、その内容を疑われるかもしれません」 「それが警察への証言を躊躇している理由なのね。じゃあ私に訊ねたい事と言うのは?」 「ボイラー室の開き戸の向こうの構造と、ボイラー室や脱衣場の小屋の鍵がどう管理されているかを訊きたかったんです」  香織はどう応えようかと迷ったが、桃の立場を不憫に思い、無理の無い範囲で協力する事にした。 「守秘義務に触れない範囲でしか答えられないわよ」  桃は顔を明るくした。香織がこんなに簡単に協力してくれるとは意外だった。 「鍵とボイラー室、どうなっているんですか」 「まずボイラー室だけど、浴場からの鉄扉の開き戸を開けると、冷泉を沸かすボイラーと、沸かした湯を露天風呂や大浴場に送るパイプがあるの。そして浴場とは反対側に、もう一つ鉄格子の開き戸があって、そこを出ると従業員専用の螺旋階段があるの。これは断崖の凹みに造られた階段で、新館からは見えないから知らなかったかもしれないわね。この階段を降りると旧館の裏庭に着くのよ」 「鍵はどうなっていたのですか} 「ホテル内外の施錠が可能な場所の鍵は、客室の物を除くと全て事務所に保管されているわ。保管の方法や細かい場所は、警備上の理由から言えないけど、ボイラー室の鉄扉と鉄格子の鍵も事務所に保管されていているわ」  桃は犯人の行動を順番に纏めてみた。 「犯人は事務所から鍵を持ち出すと、露天風呂に関先生を呼び出して、小屋の中から引き戸の摘みを回して鍵を掛けた。その後、関先生を崖下に突き落として、ボイラー室から外に出る。そして人目につき難い螺旋階段を使って逃走した」  すると、それを聞いた香織が、困ったような顔で横槍を入れた。 「ちょっと待って。確かに、警察の方から、関先生の転落時に、露天風呂の全ての施錠がされていたって聞いているわ。でも鍵は現場には無かったのよ」 「えっ…どういう事ですか」 「事務所には鍵束が二つあるけど、関先生の転落時には、一つは施錠された支配人の机の中に、もう一つは私が持っていたわ。新館の大浴場を利用した生徒さんからサウナ室のストーブが壊れてるって苦情があったから、旧館の大浴場にある使われていないストーブを代用するために、私がその作業を行っていたのよ。旧館の大浴場やサウナ室の開錠をする必要があったから、鍵束を持って行ったの」 「ほかに予備の鍵束とかは…」 「無いわ」 「…レストランを開錠した鍵は?第三の鍵ではないんですか?」 「私が持っていた鍵よ。作業の途中に、受付係が息を切らせながら駆けて来て、(香織さん、鍵の束は、どこですか。急いで持って行かないと)って訊くから、サウナ室の中から(鍵なら、湯船の縁に工具と一緒に置いてあるわよ)って教えたら、その鍵を手にして戻って行ったわ。あの時、関先生が転落して、レストランの鍵を開ける必要があったみたいね」 「それじゃあ、関先生の転落時に、露天風呂で鍵が使われる事は絶対に有り得なかったんですか…?」 「そうなるわね」  それを聞いて、桃は意気消沈した。 「じゃあ小屋を施錠したのは関先生で、やっぱり自殺だったのかな。私があの時に聴いた扉が閉まる音は何だったんだろう…」  二人の間に気まずい空気が流れる。 「あ、じゃあ、そろそろお暇します…」 「う…うん、そうね…」  桃は炬燵から立ち上がると、背中に哀愁を漂わせながら玄関の外に出た。  そこに浴衣の袂に入れていた桜の携帯電話が鳴った。画面を見ると、『荻原』と表示されている。こちらからの発信に気付いて、掛け直してくれたのだろう。 「荻原だけど、桜?さっき電話くれたよね」 「あの…私、桜の妹の桃っていいます」 「あ、そうなの…。さっき電話くれたの妹さん?桜はどうしたの?」  荻原は姉が亡くなった事を、まだ知らない。桃は姉が亡くなった事を話した。 荻原は突然の桜の死の報告に言葉を失った。 「お姉ちゃんに関する事で、荻原さんに訊きたい事があるの」  まだ衝撃から立ち直れていない荻原は、暗い声で返事をした。 「訊きたい事…?」 「お姉ちゃんの携帯電話の発信履歴を見たら。一昨日の夜に荻原さんに電話した履歴が残ってたけど、何を話したのか教えてほしいの」 「その電話があった時、俺は風呂に入っていて電話に出れなかったんだ。風呂から上がってから、桜からの着信と、留守番電話にメッセージがある事に気付いたんだよ」  それが本当なら、転落死する直前に、桜が残した最後の言葉が分かるかもしれない。 「お姉ちゃんからのメッセージ、何て言ってるの?」 「十四日が過ぎちゃうけど、チョコをくれるって内容だった。でも留守電にメッセージを入れてる途中で、桜に話し掛けた人が居で、メッセージは途中で切れてた」 「その人の声も録音されてる?」 「桜が(修学旅行から帰ったら渡すから…)って言った所で、ノックの音が聞こえるんだ」 「つまりその留守電にメッセージを入れたのは、お姉ちゃんがまだ客室に居る時かしら。それで、その後は?」 「女の人が、(滝川先生の事について、桜ちゃんに秘密の話があるって言ってる方がいるの。二十三時十五分に、六階の渡り廊下に来てほしいそうよ)って言ってる。そこで桜が(また後で掛け直します)って言って留守録が切れてる」  桃は、ノックの人物について、個人の特定に繋がるような特徴がないか訊いてみた。すると意外な言葉が返って来た。 「その女の人、ノックの後に名前を名乗っているよ」 「名前を名乗ってる?そのお姉ちゃんを誘い出した人が?」 「(香織だけど、桜ちゃん居る?)って…」 「…香織!」  桃はその場で凍りついた。201号室の前で電話をしていた話し声は、ドア越しに室内に筒抜けだった。振り向くと、半分開いたドアから、包丁を手にした岩田香織が、こちらを睨みつけていた。  十  京都駅を出てから十五分が過ぎた頃、和花の携帯電話が鳴った。画面には『夢路』と表示されている。電話に出ると、やや乱暴な口調で夢路がぼやいた。 「お前、何処に居んねん!座席に居らんから、新幹線中探したけど、乗ってへんやんけ!」 「桃を探すために、賀茂さんとパトカーに乗って貴船に向かってるんだ」 「その桃の事やけどな。重要な情報がこっちに入って来おった」 「桃に関する重要な情報?」  和花のその言葉に、賀茂や春野も、携帯電話から聞こえる夢路の声に聞き耳を立てる。 「中学の頃に荻原て居ったやろ。今は、別の高校に通てるけどな。マナーにして鞄に入れとった携帯電話に、そいつから何度も着信入っとってな。さっきそれに気付いて電話したら、あいつ今朝の五時頃に、桜の携帯電話を使っとった桃と話したて言いよんねん」 「桃の奴、桜の携帯電話のロック解除に成功したんだ」 「ほんでな、桜が掛けた電話の内容を、桃に訊かれたて言うとった」 「どんな内容なの?」 「荻原の留守録に、香織さんが桜を渡り廊下に呼び出す声が録音されてたそうや」 「香織さんが、桜を渡り廊下に…」 「その留守録の記録、重要な証拠やろ。賀茂さんそこに居るなら、伝えたってえや」 「わかった、伝えておく」  言伝するまでもなく、賀茂は電話の声に聞き耳を立てている。 「香織って、あの仲居のか…」  賀茂が助手席で呟く。 「それと留守電の内容を桃に教えた後、(香織さん、止めて下さい!)って悲鳴が聞こえて、通話が切れたらしいわ」  賀茂が、岩田香織の住所を調べて急行しろ、と他のパトカーに無線で伝える。  和花は、何か進展があったら伝えると夢路に言って電話を切った。  賀茂が和花に確認する。 「桃ちゃんに危険が迫っとるかもしれへんから、確認のために一応訊いとくわ。ほんまに貴船で間違いないな?桃ちゃんが掛けた電話は貴船から掛けた言う事なんか?」  和花は、桜の幽霊の懇願するような表情を思い出した。 「このまま貴船に向かって下さい」 「その仲居の香織さんは、桜さんを渡り廊下に呼び出す伝言をしたのに、それを黙っていたのですね。犯人の共犯者、もしくは犯人そのものだという事でしょうか?」  和花の隣に座る春野が賀茂に向かって訊く。 「ほんまに桜ちゃんを呼び出したのが岩田なら、確かに関の共犯かもしれへん」 「桜さんも関先生も、岩田香織が自殺に見せかけて殺害したという、単独犯説は成り立たちませんか?関先生の自殺を証明するのは、筆跡鑑定の出来ない、携帯電話に残された遺書だけでしょう。同僚として毎日接していて、関先生の真面目な性格を知ってますから、とても人の命を奪うなんて思えないんです」 「せやけど鍵束に現場不在証明があるんですわ。誰かが関先生を突き落としたなら、その後ボイラー室の鉄扉と鉄格子か、脱衣所の小屋の引き戸から外に出て、施錠せなあかん。その鍵束は、一つは施錠された机に、もう一つは旧館大浴場で作業しとった岩田が持っとった」 「岩田香織と鍵束が旧館にあった事は証明されているのですか」  和花は、その鍵束の一つを岩田香織が持っていたのが気になって訊いた。 「受付係りも、旧館大浴場で作業をしていた岩田に声を掛けて、工具と共に置いてあった鍵束を掴んで急いで戻ったと証言しとる」  しかし何かトリックを使えば、露天風呂に在ったはずの鍵と岩田香織を、そこには無かった様に見せかける事は出来ないか。つまり単独犯の岩田による、関先生をスケーブゴートにするための、偽装自殺の可能性はないかと、和花は目を瞑って黙考した。    その頃桃は、何処かの廃墟の一室で目を覚ました。  周りは暗くて何も見えない。  身体を動かしてみようと四肢に力を入れてみたが、両手は後ろ手に、足首もがっちりと縛られていて身動きが取れなかった。肌に触れる感触から、粘着テープで拘束されているのが判った。誰か居ないかと声を出そうとしたが、口も粘着テープで塞がれていて声も出せない。  何故こうなったのかを思い出してみた。香織の寮で、荻原君と電話をしていたのを覚えている。その後、香織に包丁を突きつけられて部屋の中に引きずり込まれた。そして畳の上に押し倒されて首を締められ、桃の意識はそこで喪失した。  それにしても、ここは何処なのだろう。身体を捻って向きを変えて、目を凝らして暗闇を見ると、微かに光の線が見えた。桃はそれを部屋の出入り口の隙間だと判断した。戸が僅かに開いて部屋の外から明かりが差し込んでいる。不意にその明かりが大きく左右に広がり、光の中央に人影が現れた。  明かりが入ったせいで、部屋の中を確認出来るようになった。窓の無い埃にまみれた六畳ほどの室内に、ホルマリン漬けの爬虫類や両生類が置かれた棚と、実験器具の置かれた机、そして人体模型があった。何処かの学校の倉庫だろうか。  コンビニ袋を持って入室した香織は、机の上の実験器具を退けてそこに腰掛けた。 「喉乾いてない?逃走に必要な人質が脱水症状で死んだら困るわ」  そう言って桃に近寄り、口のガムテープを剥がしてくれた。呼吸がしやすくなった桃は、思い切り深呼吸した。香織は袋からペットボトルを取り出すと、桃に水を飲ませた。 「ここ、何処なんですか?」  桃が訊くと、香織は笑みを浮かべて机に戻った。 「私が子供の頃に通っていた小学校よ。今は廃校になっているけどね」  香織は自分もペットボトルの水を一口飲むと、ゆっくりと息を吐いて桃を見据えた。 「私が桜ちゃんを渡り廊下に呼び出す声が、誰かの留守電に記録されてるんでしょ。だから貴女には人質になってもらって、私は逃げないと」 「香織さんが、お姉ちゃんを殺した犯人だったんですね」 「そうよ、完全犯罪を目指したつもりだったけど、上手く行かないものね。関先生の転落時のアリバイを作るために、新館のサウナのストーブを壊した時は、火傷までしたわ。そんな努力が、留守電の一件で全部台無しよ」 「旧館に居たように見せかけて、露天風呂に居たって事ですか?じゃあ香織さんから鍵を受け取ったという、受付係も共犯だったんですか?」 「受付係の名誉のために言っとくけど、あの子は無実なのよ。鍵束と私の現場不在証明は、受付係に協力してもらったんじゃなく、旧館の幽霊に協力してもらって作り上げたの」 「旧館の幽霊?」  香織はペットボトルの水をもう一口飲むと説明を始めた。  和花は、工房の引き戸を開けると、薄暗い室内を覗き込んだ。しかし蝋燭に浮かび上がる室内には、六角堂の姿は無い。 「六角堂…居る?」  小声で呼んでみたが返事は無い。室内に立ち入り、次の間を覗き込むが、綾音の姿も見当たらない。仕方がなく和花は、誰も居ない工房の卓袱台の座布団に座り込んだ。 「クスクス…」  背後から笑い声が聞こえて振り向くと、河童が嘴を歪ませて笑っていた。 和花が睨むと、河童は下品な笑い声で言った。 「妹さんも、殺されちまったのだろ?」  その隣りの赤鬼も、牙を剥いたまま笑う。 「攫われちまったんだろ。餓鬼の生肉は美味いからな。今頃犯人に喰われちまってるさ」  和花は物の怪の野次には返事をせず、彼等に背中を向けた。河童の野次は受け入れ難いが、その言葉に和花は少なからず動揺していた。荻原の証言が事実なら、桃は香織に危害を加えられた可能性がある。もしかしたら河童の言う通り殺害された可能性もある。  しかし桜の幽霊は、桃の身が危ないと危険を知らせていた。それが本当ならば、早朝五時に荻原と通話して身に危険の及んだ桃は、桜の幽霊が現れた十一時の時点でも、まだ同じ状態にあるという事だ。香織に危害を加えられてから六時間経っても、まだ状況が変わらないのならば、直ちに桃の命を奪おうとしている訳では無いと考えられる。 「それも時間の問題かもしれぬ。殺害されるまでの僅かな猶予にあるだけかもしれないぞ」  背後で天狗が野太い声を出した。その言葉に、和花は頷いた。 「何とか恋人の窮地を救いたくて、六角堂に泣きつきに来たのか?」  天狗が問うと、和花は静かに振り返って、首を振った。 「今は貴船に到着するのを待つしかない。桜の導きと、賀茂さんを信用するしかないんだ。ここに来たのは、関先生の転落時の香織さんの現場不在証明を看破出来ないか、六角堂に相談しに来たのさ」 「六角堂と綾音は神社に参拝しに行っている。暫く待つしかないな」  天狗に言われると、じゃあそうするよ、と応えて和花は畳の上で仰向けに寝転がった。  関先生が転落した際に、香織さんと鍵束は旧館大浴場にあった。もし香織さんが犯人なら、この二つが露天風呂になければいけない。そして関先生の転落時には露天風呂にあった二つが、受付係りより早く、旧館に移動したのだ。 「どうやって移動したんだろう…。鍵を手にして階段を走って降りて、新館の正面もしくは通用口から入館して、渡り廊下から旧館大浴場に向かったのかなあ…」  和花が呟くと、天狗が応えた。 「新館の通用口近くには夢路が居たのだから、気付かれずに通るのは無理だろう。正面入り口も防犯カメラがあるのだから、それを避けて通るのは難しい。しかし犯人が全館の鍵を所持していたなら、旧館の正面入り口を開錠して入館する事は可能ではないか?」  そう言われてみれば、その通りだ。 「それが可能かどうかは、足の早さにもよるな。露天風呂から旧館大浴場へ向かうよりも、受付係りの居た新館一階から向かう方が、どう考えても距離は短い。香織って奴は、よほど駿足なんだろうな」  赤鬼が、和花と天狗の話に横槍を入れた。河童もいやらしい目つきで、ニヤニヤ笑いながら言った。 「その方法じゃ、受付係りに遅れたら現場不在証明は失敗じゃねいかい。それよりも、露天風呂から旧館大浴場は高低差があるのを利用して、その二カ所を細い糸で繋げて、鍵束の輪を糸に通して滑らせれば、ほんの数秒で露天風呂から旧館大浴場まで移動出来るんじゃねいかい?」 「香織さんと鍵の、両方が移動しないと駄目なんだ」  和花が反論すると、工房の入り口から声がした。 「その和花君の反論は間違っている。正確には、香織の『声』と『鍵』が移動しなければならないのだよ」  漸く六角堂と綾音の二人が、工房に戻って来た。  六角堂は卓袱台に、そして綾音は、 待たせてご免なさいね、と上品な声音で囁くと次の間に向かった。 「声だけが移動…。そうか、受付係りは香織さんの姿は見ていないのかもしれない。でもどうすれば声だけ移動する事が…」  和花は納得しつつも、疑問を口にすると目を閉じて黙考し始めた。しかし六角堂がそれを遮った。 「手っ取り早く説明しよう。目を開けてごらん」  言われるままに和花が目を開けると、さっきまで妖怪人形が並べられていた粗末な木造の壁が取り払われ、工房は床と卓袱台だけを残して、周囲は星空に囲まれていた。 「うわっ…空に浮いてる!」  恐る恐る床の端まで這って行き眼下を覗き込むと、俯瞰の構図で華京亭の新館と旧館の屋上が見えた。その横には、断崖の上の露天風呂も見える。  露天風呂の男湯に、何かが蠢いている。 「あの作務衣と髪型は香織さんだ…」  遠目で確認し難いが何とか判断出来た。  その足下には、黒のパーカーを身に着けた関先生が倒れている。そして断崖の階段には、浴衣を着た少女が登って来るのが見えた。 「桃…」 「これは推測から造られた、関先生が転落する間際の、華京亭の再現映像だよ。見ての通り、今まさに関先生が断崖から突き落とされようとしている」  六角堂は和花の横まで来て、同じように眼下を覗き込んだ。 「関先生が…」  香織によって崖下に放り投げられた関先生を見て、和花が声を上げる。  関先生は傾斜のある断崖を転がりながら滑走して行く。そして階段を下っていた桃の横を通り過ぎて、傾斜の先端から中空を舞うと、そのままホテル一階のレストランの天井を突き破った。 「ここからが重要だよ」  六角堂が露天風呂のボイラー室に入って行く香織を指差す。 音を立てて開き戸を閉めると、その内扉を施錠し、ボイラーから突き出る配管の一つに近付く。そして何やら手元を動かしている。 「何をしてるんだろう」  和花が訝しげに、香織を見詰める。 「ヒントをあげよう。物が移動するには、自力か他力で動くしかない。鍵束は自分で動けないから、他力で旧館まで移動するしかない。移動経路にはその他力が働く必要がある」  眼鏡少年は眼鏡を光らせて、判ったっ、と声を上げた。 「ボイラーと旧館大浴場を結ぶ配管に鍵束を入れて、流れるお湯の力で移動させたんだ!」 「香織は、その古い配管に錆びて開いた穴に、鍵束を押し込んでいる所さ」  六角堂がいつの間にやら取り出した双眼鏡で、香織を望みながら応えた。 「僕にも見せて下さい」  和花が六角堂の掌から、双眼鏡をむしり取る。双眼鏡を覗くと、香織が旧館大浴場に繋がる配管のバルブを両手で回しているのが見えた。 錆びて開いた穴から、お湯が吹き出る。香織は時間を計っているのか、腕時計から視線を離さない。そして一分すると、バルブを閉めた。 「旧館大浴場の方を見てごらん」  六角堂の指示で旧館に双眼鏡を向けると、二階の天井から上が半透明に変わっていて、上空からでも大浴場が見て取れた。  旧館大浴場の湧出口からは、お湯が湧き出ている。良く見ていると、そこから鍵束が飛び出して、大理石で造られた湯船の縁に落ちた。そしてお湯の湧出も止まる。  そこには香織が大浴場で使っていたはずの工具が置かれている。鍵束と工具は、最初から纏めて置いてあるように見えて不自然さは無い。 「あと少しで、受付係りが旧館大浴場に駆けつけて来て、香織と会話をするはずだ。受付係りが来る前に、香織を見てごらん」  双眼鏡を再びボイラー室に合わせると、香織は配管の穴に耳を当てている。  眼鏡が光る。 「この後、香織さんと受付係りが会話をする…そうか、伝声管だ」  双眼鏡を大浴場に戻す。そこに丁度、受付係りが駆けつけて来た。受付係りは、大浴場の入り口の引き戸を勢い良く開ける。  すると大浴場内に香織の声が響いた。 「誰?何か用?」  ボイラー室を見ると、香織は配管の穴に向かって喋っている。 「香織は、配管に聞き耳を立てて、旧館大浴場の引き戸が開く音を合図に、誰かが来た事を確認したんだ」  六角堂が和花に説明するが、和花は経過を見守るのに夢中で聞いていない。そして慌ただしく三度大浴場に双眼鏡を向ける。良く見ると、サウナ室には明かりを点けたままの懐中電灯が置いてあるのか、室内が明るい。受付係りは、その湧出口から聞こえる声が、サウナ室に居る香織の声だと勘違いして、返事をしている。 「香織さん、鍵の束は、どこですか?急いで持って行かないと!」 「鍵なら、湯船の縁に工具と一緒に置いてあるわよ」  香織が説明すると、受付係りは工具の横の鍵を掴んで、急いで走り去った。 「以上が香織と鍵の、現場不在証明の偽装の顛末だよ」  その声に振り返ると、六角堂は再び座布団に胡座をかいて、綾音が淹れた粗茶を啜っていた。いつの間にか周囲の星空も消えて、また妖怪だらけの何時もの工房に戻っている。和花も卓袱台に戻ると、粗茶を啜った。 「なるほど、これで全て解けた気がします」 「それで良いのかい?寛いでいる場合じゃないだろう」 「大切な事を忘れているわよ。今は香織さんと鍵の現場不在証明よりも、桃ちゃんの行方の捜索が優先なはずよ」 「あっ忘れてた」 「それじゃ、こっちにいらっしゃい」 「君に見せたい物がある」  綾音と六角堂は、和花を次の間に招いた。  十一 「ボイラー室の配管の穴に物を入れて、旧館の大浴場に流すと、湧出口から出て来て、湯船の縁に落ちるのよ。そこに予め工具を置いておけば不自然じゃないでしょ。受付係は、知らずに利用されていたのよ」 「じゃあ、本当の共犯者の幽霊っていうのは…」 「幽霊の正体は、配管に開いた穴から風が入って、旧館の湧出口から呻き声みたいな低い音が鳴るの。関先生の殺害を思い立った時に、その幽霊の配管を利用しようと閃いたのよ」 「でも螺旋階段から逃げても、新館一階の通用口には夢路が居たし、正面入り口には防犯カメラがあります。鍵束もないから、旧館正面入り口からも戻れない。どうやって旧館二階に戻ったんですか」 「崖から降りて来る配管は、旧館の裏庭を通って、旧館の壁の下から壁伝いに二階の大浴場に向かうの。その配管を登って窓から大浴場に戻ったのよ。旧館大浴場から露天風呂に行く時も、それを逆に辿ったの。それなら旧館の廊下に不自然な足跡も残らないでしょ」  香織はトリックの説明を終えると、コンビニ袋からオニギリを取り出して桃の口元に差し出した。 「人質に死なれては困るから食べて」  朝から何も口にしていない桃は、それをかじりながら香織に訊いた。 「そんなトリックをあれこれと考えてまで、どうしてお姉ちゃんや関先生の命を奪ったんですか」  興奮気味に訊いたため、口からお米が三粒飛んだ。 「関先生はスケープゴートとして、桜ちゃんは人の幸せを奪おうとするからよ!桜ちゃんは、奪ったらあかんものを私から奪おうとしたんや!」  そう応えながら、殺害時の感覚が両手に蘇る。砂を詰めた靴下で後頭部を殴りつけ失神させた際の鈍い衝撃。そして突き落とした後の糸の切れた操り人形を眺め見るような感覚。   記憶が想起されて、震えるほど興奮気味になる。 「お姉ちゃんが香織さんの幸せを?」  香織はその質問を背中で受けながら、自分を落ち着かせるために、机に戻って腰掛けた。   その刹那、桃は体の下に転がっていた実験器具の硝子片を手に取って隠した。 「私のじゃない、私の大好きなお姉ちゃんのや。桜ちゃんが、私のお姉ちゃんの彼氏と抱き合っているところを見たんや」  香織はそう吐き捨てると、目を瞑ってあの時の記憶を脳裏に思い描いた。  その日香織は、十年近く逢っていない大好きな姉と、再会しようと考えていた。  しかし、突然自分が姿を現したら、姉は困惑するかもしれない。姉と香織は本来は姉妹だが、今はそれぞれの養父母の元に里子に出されて別々の人生を歩んでいる。  そこで香織は、ある人に橋渡しをお願いする事にした。  もう一年も前から姉の所在を知りながら、互いの境遇に配慮して接触を躊躇してきた。    その間に姉の今の生活を色々と知り、滝川という素敵な恋人が居る事も分かった。その滝川に再会の橋渡しをお願いしようと心に決めていた。  そして、その滝川への接触に、その日を選んだ。  香織は自分の仕事が終わると、滝川が勤める進学塾の前で彼が出て来るのを待った。しかし塾の生徒が次々と帰宅する中、夜の十時を回っても滝川が出て来る気配はない。香織は塾に残っていた講師に声を掛けた。すると滝川は今夜は急用で出勤していないという。  予定外の事に戸惑ったが、また明日があると、自分のアパートへ帰途についた。しかしその途中、多摩川に架かる橋の上で、その光景を目撃した。  橋の上に滝川が居た。女性を抱きしめている。一瞬姉かと思ったが、それは違った。制服を着た高校生くらいの女の子だ。  香織の中で幸せが、軋む音を立てた。姉の幸せは、それ遠巻きに眺める自分にとっても最良の幸福だったからだ。 「それが、お姉ちゃんだったんですか?」  香織が説明を終えると、桃は困惑の様子を見せた。 そして何かを思い出すと香織を問い質した。 「それって去年のクリスマスイブの慧心橋での事じゃありませんか?」 「…どうして知ってるの」  去年の暮れの十二月二十四日。桜は受験の悩みからノイローゼ気味になり、家を飛び出し数日間行方不明となった。家族からの携帯電話への連絡は拒絶していたが、滝川の携帯電話からの呼び掛けには応じ、彼に身柄を保護された。保護された時、桜は多摩川に身を投げようかどうかと決めかねて、橋の上でうずくまっていた。滝川先生は優しく桜を抱き締めて、何時でも先生が付いているからと勇気付けた。  香織は、それを滝川の浮気と勘違いしたのだ。そう桃は訴えた。香織は自分の凶行を定めた確信が揺らぐのを恐れ、桃の疑いを打ち消すように怒鳴った。 「相合傘を窓に書いて、花巻桜が渡り廊下に来るのを物陰で待って居た時、思ったんや。花巻桜が、二つに別けられた『花巻桜』と『滝川』の名前を、一つに合わせたら、そのまま突き落とそう。せやけど、合わせんかったら放っておこうってな。そしたら、あの子は相合傘を合わせよった。滝川さんの事が好きやったんや!」 「確かにお姉ちゃんには滝川先生に対する恋心があったかもしれない。でも、それで滝川先生を奪い取ろうと考える姉ではありません。それにあの相合傘は、『花巻桜』『滝川』の文字を縦線で消した後に、私と和花の名前を書いて合わせてありました。お姉ちゃんの名前と滝川先生の名前を一つにするためではないんです」 「何やて…私はそんなん知らんで!」 「お姉ちゃんが窓を開けたから室温が下がって、香織さんがお姉ちゃんに近付いた時には、相合傘は見えなくなっていたのではありませんか」  香織の中の確信がグラグラと揺らぎ始める。 「もういいわ!」  香織は机から飛び降りて、桃を黙らせるために口に粘着テープを貼ろうと近付いた。  桃はそのチャンスを逃さなかった。  会話をしながら、硝子片で両手の粘着テープを切っていた桃は、香織が近付いて来ると体当たりして、そのまま転倒させた。そして頭を床に打ち付けた香織が呻いている隙に、両足のテープも剥がして、部屋の外に飛び出した。立ち上がった香織の両腕が、背後から桃の髪を掴もうとしたが、間一髪でそれを逃れて廊下に躍り出る。そして勢い余って廊下の反対側の壁に体ごとぶつかり、反動で弾かれる。気を取り直して周りを見渡すと、右手は行き止まりで左手は廊下が続いている。桃は壁にぶつかった反動からバランスを取り直すと、左手に向かって疾走した。背後から香織の怒声が聞こえたが、何を叫んでいるのかは聞き取れなかった。  廊下の右側に連なる窓からの風景は、地上一階に見える。しかし窓には目張りがしてあって、簡単には開きそうにない。  十秒も走ると廊下は突き当たりになり、その先は左右に別れていた。左手には階段が、右手の廊下の先には下駄箱が見えた。出口もそこにあるはずだ。下駄箱を目指して走ると、硝子張りになった両開きの扉に辿り着いた。硝子の向こうには校庭が見える。扉の内側の取っ手に付いた摘みを回して開錠する。しかし扉は開かなかった。良く見ると、扉の外側の二つの取っ手に、鎖が巻きつけられて南京錠がかかっている。  桃は硝子を割って外に出るために、道具を探した。辺りを見回すと、金属製の傘立てがあった。その傘立てを硝子張りの扉に叩き付けた。硝子に罅が入る。もう一度叩き付ければ割れるかもしれない。  再び傘立てを持ち上げた刹那、背後で息遣いがした。振り向くと、包丁を持った香織が襲いかかって来た。その包丁の一撃を手にした傘立てで防ぐ。そのまま傘立てに体重をかけて、香織の身体を押しのけると、再び廊下に戻った。  そして他に出口はないかと、来た道を走って戻る。 「桃ちゃん。鬼ごっこがしたいんか?」  背後から聞こえる香織の声に恐怖しながら全力で走った。    次の間に入ると、綾音は床板を上げた。すると床の下には階段があった。綾音が黙ってランタンを六角堂と和花に渡す。 「さあ行こう」  六角堂が地下に続く階段を降り始める。 「この下に何があるの?桃の行方を探すんじゃなかったのですか?」  和花も後を追う。 「今の所、香織さんが桃ちゃんをどこに連れて行ったかは、皆目見当がつかない」 「じゃあ、どうやって桃の行方を探せば…」  すると六角堂が、懐から小さな鍵を取り出して振り向いた。 「私達元型は、集団的無意識の小部屋の鍵を持っている。それを使って、集団的無意識と意識の間を行き来しているのさ。その集団的無意識の小部屋から、桃ちゃんの意識を探れば、居場所も判るかもしれない」  その突飛な話しに和花はたじろいだ。 「わ…判るの?」 「人間の無意識は、集団的無意識という根底で繋がっているからね。ユング先生も知らない事だが、一度集団的無意識に潜れば、誰の意識に接触するのも可能なのさ」 「その小部屋が、この階段の先に?」 「そうだ、ほら見えて来たよ」  六角堂の肩越しに見ると、階段の終点に粗末な扉があった。扉には、『ここより集団的無意識』とプレートがある。六角堂が鍵を差し込み扉を開けた。小部屋の中には井戸が一つあった。 「意識をシンクロしたい人物を思い浮かべながら、井戸を覗いてごらん。その人の視点で周りが見える筈だよ」  和花は言われるままに、井戸の中を覗き込んだ。頭の中には、桃を思い浮かべた。  井戸の水面に映像が見える。  華奢な二本の腕が傘立てを持ち上げて、硝子の扉に叩きつけるのが見えた。赤と青のミサンガに見覚えがある。桃の視点に間違いない。だが一体何をしているのか。  そこに現実世界の、運転席と助手席で会話をする、賀茂と中嶋の声が聴こえた。 (貴船だけじゃ、桃ちゃんの居場所判らへん) (無線で確認した所、岩田は軽自動車を所有しているけど、寮の駐車場に見当たらないと報告がありました。もうこの辺りは貴船ですから、その軽自動車を目印に探すしかありませんね)  和花はその会話を聞きながら、桃の視界に軽自動車が見えないか注視した。しかし罅割れた硝子の向こうには、遊具のある校庭しか見えない。そして硝子の扉には、取っ手に鎖が巻いてあり、開かないようになっている。  使用されていない校舎かもしれない。  パトカーの中にある物理的肉体の瞼を開いて言った。 「学校を探して下さい、この辺りに廃校があるはずです!」  押しのけられて下駄箱に背中を打ち付けた香織は、足下に落とした包丁を拾い上げると、ゆっくりとした足取りで桃を追った。桃は、T字路を真っ直ぐ進み、階段を上っていく。  この小学校に通っていた香織は、その先には出入り口が無い事を知っていた。 「袋のネズミや」  そう呟いて歩調をやや早める。  香織はこの鬼ごっこのような状況を楽しんでいた。こうして桃を追いかけていると、子供の頃に、この校舎で姉とよく追いかけっこをしたのを思い出す。  それに、あの山での恐怖の一夜も。  姉妹が貴船神社に着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。  神社に着くと、二人は本殿に参拝して、参道を戻った。 「姉やん、何をお願いしたん?」 「中学の受験の事やわ。香織ちゃんは?」 「受験の事、お願いしたんやね。香織のお願いは秘密」  そして帰宅するにはまだ早いからと、境内で鬼ごっこやかくれんぼをして遊んだ。夢中になって遊んでいると、何時しか夕闇が迫っていた。 「お腹減らへん?」  姉が言った。妹は、まだ遊び足りないのか、少しぐずった。 「そろそろ帰らへんと、お母はんが心配するやろ」  姉が帰宅を促すと、妹は突然走りだした。追いかけると、妹は参道の途中にある獣道の入り口で待っていた。 「急に駆け出して、どないしたん…?」  姉が息を切らせながら訊く。 「おばちゃんとこに行こ」 「おばちゃん?」 「こないだ林檎もろたねん」 「誰なん?知り合いなんか?」 「この先に住んでるおばちゃんや。また林檎くれるかもしれへん。姉やんも行こ」  姉は少し躊躇してから、獣道に分け入って行く妹の後を追った。獣道は長かった。辺りは鬱蒼とした木々に覆われ、夕闇も迫って薄暗い。 「ほんまに、こんな山の中に人が住んどるんか?」  妹の背中に声をかけたが、返事をしない。それどころか妹は歩みを早めて行く。姉は置いていかれないように早足で進んだ。  やがて木々の疎らな開けた場所に出た。 妹に追い付いて様子を伺うと、地面を見詰めて何か考え込んでいる。 「どうしたん?ここ何やの?」 「ここがおばちゃんの家やねん。林檎の木が生えとるやろ」  辺りは雑木林で、林檎の木など見えない。代わりに、大小の石が円錐形に積み上げられていた。良く見ると、石の隙間から長い毛髪が幾本か垂れ下がって、風に揺れている。  姉は薄ら寒くなり、妹を叱った。 「何言うとんのや、林檎なんてどこにもあらへん!」 「せやけど、ここがおばちゃんの家やねん。おばちゃん居らんから、留守かもしれへん。姉やん待っとこ」 「もう、わけがわからへん。早よ帰ろ」  姉が目くじらを立てると、妹が叫んだ。 「あ、林檎や。おばちゃんがくれたんや」  そして道も無い雑木林に分け入って行く。姉も慌てて後を追った。  すると大きな杉の木の下に、腐りかけて異臭を放つ林檎が、二つ捨てられていた。 「姉やんと香織の分やで」  妹はそれを掴むと、一つを姉に差し出して、もう一つを口に運ぼうとした。 「そんなん食べたらあかん!」  姉が妹の腕から林檎を払い落とす。  妹は泣き出した。宥め付けても泣き止まない。しかも泣きながらおかしな事を言う。 「橋姫のおばちゃんが怒っとる。姉やんのせいや」  そして怖い怖いと泣きじゃくる。 「おばちゃんなんて居らん、静かにしいや!」  困惑しながら怒鳴ると、妹は怖い怖いと叫びながら、更に山深い雑木林の奥へと走って行く。辺りは既に夕闇の中だ。これ以上山に入ったら、遭難して帰宅出来なくなる。  妹を捕まえようと、姉も全力で走った。 妹の名を叫ぶ。しかし暗闇の中、前方を走る妹の足音がするだけで返事は無い。暗くて姿も微かにしか見えない。  暫く追いかけっこをしていると、その足音が聞こえなくなった。 「香織ちゃん!どこに居るの?」  小走りで進みながら妹を探す。  ザワザワと木々が揺れる。  足音が聴こえた。  しかしその足音は、前方ではなく背後から聴こえて来る。  姉は走る速度を上げた。  しかし追って来る足音は、つかず離れず付いて来る。  妹が言っていた『橋姫のおばちゃん』を思い出した。橋姫とは、あの伝説にある鬼女の事だろうか。追いかけて来ているのは、その鬼女かもしれない。  恐怖が込み上げて来る。  走りながら振り向いた。しかし背後の闇には何も見えない。  姉は全速力で逃げた。  しかし木の根に躓いて転倒してしまった。  鬼女の足音は近付いて来る。  姉は慌てて近くの茂みに身を隠した。  どれくらい、そうしていただろうか。足音が去っても、茂みの中でうずくまっていた。恐怖で動けなかったからだ。 「姉やん…」  ふいに声をかけられた。  茂みから頭を出すと、薄く月明かりが射す暗闇の中に、妹のシルエットが見えた。 「ここやと、おばちゃんに見つかってまう。もっと良い隠れ場所に行こ」  妹に手を引かれて行くと、大きな杉の木があった。二人は、その大木のウロに隠れた。   二人は恐怖の余り、何時間もウロの中で抱き合っていた。そして何時しか眠ってしまい、気がつくと夜が明けていた。  日の当たる大木の中から、恐る恐る顔を出す。 「朝が来たから、おばちゃんも諦めたんや。もう帰ってもええみたいや」  妹が眠気眼を擦りながら言った。それから二人は山中をどう歩いたのか、気付くと麓の町に居た。  まだ太陽は真上にあった。  そこから二人は自宅まで歩いて帰った。しかし一晩留守にしたのを、両親に咎められると思い、勝手口からこっそりと家に入った。  そして仏間で父親と鉢合わせると大騒ぎになり、両親は二人の無事を喜んで泣いた。 「それにしても、何があったんや」  父親の問いに、姉は詳しく昨夜の怪異を語った。  香織も姉と同じように説明したが、真相は話さなかった。  真相は語る訳にはいかない。  あの一夜の怪奇現象は、全て香織の自作自演だったからだ。  そんな話を両親に出来るはずがない。  自分の髪を数本抜いて、石を積み上げた隙間に挟んだ。腐りかけの林檎は、八百屋の裏口にあるポリバケツから盗んだ。  茂みに身を隠し、姉が通り過ぎると、今度は姉を追いかける。  そして二人でウロに隠れて一晩経つのを待った。  朝になって下山しても、帰宅は正午になる。その日の午前中に予定されていた試験を、姉は受けられない。  姉は私立の中学の受験を受けて、合格すればその私立中学に近い遠戚の家に預けられる予定だった。  香織にはそれが耐えられなかった。 大好きな姉と離れ離れになるのは、絶対に嫌だった。 「桃ちゃん。何処に逃げても無駄やで。そっちに出口はあらへん」  微笑を浮かべながら香織が叫ぶと、桃は恐怖から階段を駆け上がる速度を上げた。  二階に着くと、桃は教室の一つに飛び込んだ。何処か隠れる場所はないかと室内を見回す。教壇の上の教卓の下ぐらいしか身を隠す場所はない。教卓の下に身体を滑り込ませると、身を屈ませた。  部屋の外から階段を上る香織の足音が聞こえてくる。 「桃ちゃん、お姉ちゃん失って悲しかったなあ。私も子供の頃に姉やんと離れ離れになって悲しかったわあ。せやから桃ちゃんと私は仲間や。殺したりせえへんから出ておいで」  廊下から聞こえるその声は、徐々に近付いて来る。  桃は震えながら身を潜めていたが、更なる窮地に気付いた。  廊下側とは反対の隅に、大きな姿見が置かれている。鏡には、身を屈める桃と、教室の出入り口が映っている。教室の引き戸を開けたら、隠れて居る場所が一目瞭然だ。  香織の狂った声が近付いて来る。そして教室の前で止まった。  今にも引き戸が開いて香織が入って来るのではないかと、鏡から視線を逸らせなかった。  そのまま教卓の下から動けなくなった。      十二  和花のいう通りに、この地区にある廃校に向かうと、裏庭に軽自動車が止めてあるのに気付いた。中嶋に命じてパトカーを停車させ降車すると、賀茂は裏門を動かしてみた。門に掛けられた小振りの南京錠は、壊されて地面に落ちている。賀茂と中嶋は、軽自動車に近付くと、車のナンバーを確認した。報告のあった軽自動車のナンバーと一致する。  フロントガラス越しに車内を検分したが、人影は見当たらない。しかし運転席から伸びた足跡が、一旦リアウィンドウの下に立ち寄った後、校舎の窓の下へと続いて、そこで消えていた。  その大き目の窓は割られている。ここから校舎に入ったのだろう。  黒崎夢路からの情報では、花巻桃は岩田香織に拉致された可能性がある。だとすれば、拉致した際に凶器を使用して、今もその凶器を使って花巻桃の身柄を手中に収めている可能性がある。 「容疑者は凶器を持っとるかもしれん。中嶋、無線で応援呼んだ方がええな」  中嶋が無線を使って、付近を警邏しているパトカーに応援の要請をする。 「それと中嶋、拳銃抜いてええで。但し抜くだけで、撃ったらあかん。わいには警棒貸してくれや」  中嶋は、賀茂に警棒を渡しながら訊いた。 「二人で突入するんですか。それじゃあ、応援を呼んだ意味が…」 「一応、応援は呼んだけどな、桃ちゃんの身に危険が迫っているかもしれへんねん」 「でも他の警邏が駆け付けて来るまで、五分も掛かりません。それくらいなら、待っても問題ないでしょう」  頭上から、少女の悲鳴が聴こえた。遮蔽物を通したような、くぐもった声ではない。 「屋上や!」  賀茂は叫ぶと、割れた窓ガラスから校舎の中に飛び込んだ。  悲鳴を聴いて、和花と春野が車外に出て来た。中嶋は、二人に車内に戻るように指示すると、自分も賀茂の後を追った。  賀茂は校舎に入ると、屋上に繋がる階段を探して廊下を全力疾走した。そして廊下を右に曲がると階段が遠くに見えた。下駄箱の前とT字路を過ぎて階段を駆け上がると、瞬く間に屋上への出入り口に辿り着いた。  屋上の出入り口の扉は、僅かに開いている。中嶋が追い付いて来ると、二人はゆっくりと屋上に出る。 屋上の隅で香織と桃が揉み合っていた。香織の手には包丁が握られている。 「その包丁を床に置いて、両手を頭の上に挙げながらこっちを向くんや!」  賀茂が叫ぶと、香織がゆっくりと振り向いた。  香織は桃の身体を左腕で抱えると、右手に持った包丁を突きつける。切っ先が僅かに桃の首筋に食い込み、赤い雫が滴る。そして桃の身体を抱えながら後退りし、手摺りに腰をぶつけた。  痛みに呻く桃を見て、賀茂は手にした警棒を床に置いた。 「わかった。ほな、警棒を下げるから、君もその包丁を下ろしてくれ。下ろすのが嫌やったら、桃ちゃんの首筋から離すだけでもええ」  中嶋も拳銃をホルスターにしまう。すると香織は緊張した面持ちのまま、桃の首筋から僅かに包丁を話した。  そして賀茂と中嶋の背後に視線を向けて、震える声をもらした。 「姉やん…」  賀茂が、視界から香織の姿を外さないように背後を見ると、春野と和花が立っていた。 「香織ちゃん…なの…?」  春野が香織と真っ直ぐに見詰め合う 「やっと姉やんと話す事が出来た…。久しぶりやね、琴乃姉やん…」  香織の頬に雫が伝う。たった一人残された肉親との再会に身体が震えた。 「私、姉やんに逢うために、あちこち探し歩いたんや…。それに姉やんの幸せを守るために、頑張って花巻桜を殺したりもしたんや…」 「香織ちゃん…何で…」  目の前の岩田香織が生き別れた妹で、事件の犯人だと判ると、春野はその場に泣き崩れた。 「姉妹…なんですか。でも何で、春野先生の幸せのために、桜を殺害しなければならなかったんですか」  和花が訊いた。 「姉やんの愛する人を、花巻桜が奪おうとするからや。せやから、あんた達の修学旅行に使われるホテルを調べて、従業員として入り込んで、花巻桜を始末する機会を狙っとったんや」 「私の彼を、桜さんが…?」 「去年のクリスマスイブの夜に見たんや…」  香織が橋の上での、滝川と桜の目撃談を説明する。  すると春野が立ち上がり、香織に間合いを詰めながら言った。 「それは滝川が、桜さんの自殺を止めた時の事ね。その後、彼が桜さんを私のアパートに連れて来て、二人で桜さんを勇気付けるための晩餐を、ささやかだけど行ったのよ」  凶行に及んだ動機が誤解だと判り、包丁を持つ香織の指先が震えた。姉が守ろとしたものを誤って奪ってしまったのだ。 「ほなら…私は…何で二人もの命を奪ってもうたんや…」  香織は激しい眩暈を覚えた。足下がふら付き、バランスを崩して、桃の身体を抱えたまま、手摺の外に傾く。 「あかん!」  それを見た賀茂は突進した。春野も香織の身体を掴もうと前に出る。しかし賀茂と春野の腕は届かず、二人は地上四階の屋上から落下して行った。  二人の身体が地面に激突し、衝撃音が辺りに響く。  和花は、手摺りに駆け寄ると、眼下を覗き込んだ。 「桃!」  しかし横たわる岩田香織の姿しか見えない。 「あ…あれ、桃…?」  背後から声がした。 「和花…」  振り返ると、桃が立っていた。 「えっ…?どうなってるの…?」 「こっちの台詞よ…。香織さん、どうなったの?」  和花と桃は、互いに見詰め合った。  洛中の一画にある病院の一室で、ベッドの上に半身を起こした桃と、その横に置かれたパイプ椅子に腰掛けた和花は話し込んでいた。  あんなに色々な事があったのに、二人はそれが嘘の様に、普段と変らない様子でいた。 「あの転落した桃は、桜だって言うの?」 「うん、教卓の下に隠れてた時に、目の前の鏡の中から私が飛び出して来て、香織さんの方に走って行って、囮になってくれたのよ。絶対にお姉ちゃんだと思う」  そこに賀茂警部補がノックもせずに病室に入って来た。 「あかん…校庭の何処を探しても、桃ちゃんが見付からへん。確かに岩田香織と一緒に転落する所を、この目で確認したのに…何処にも居らへんねん」 「ここに居ます」 「それは判っとんねん。わいが探してるんは、転落した偽物の…どっちが本物で偽物かは判らへんけど、兎に角もう一人の方や」  それを聞いて桃は微笑した。 「香織さんは、どうなったのですか?」  和花は、一命を取り留めたはずの、香織について訊いてみた。 「意識もはっきりしとって、聴取にも素直に応じとるし、反省の態度も見せとるわ」  賀茂は聴取の内容を、手短に話した。  桃は父母が帰国するのを待って退院する事になった。  和花はその日の夕方には東京に向かう新幹線に乗っていた。  車内で、和花は目を瞑り、六角堂と最後の対話をしていた。 「幽霊の正体か…。こうは解釈は出来ないだろうか。君達が見た幽霊は、桜ちゃんの死を知っていた誰かの無意識が生み出した幻影じゃないかな」 「誰かの心に生まれた幻影?」 「人間の無意識は、根底で繋がっているから、その誰かの無意識が作り出した幻影が、集団的無意識を通じて君達の前に現れたんだ」 「誰かって誰の?その人は、どうしてそんな事をする必要があったの?」 「桜ちゃんの幽霊は、渡り廊下に相合い傘のトリックがある事や、桃ちゃんが貴船に拉致された事を知っていた。この二つの情報を知っていたのは、1人しか居ない」 「…犯人の香織さんだ」 「そう香織さんだよ」 「でもどうして香織さんの無意識は、桜の幽霊なんか造り出して、僕や桃にメッセージを伝えたのさ…」 「香織さんは、賀茂さんの聴取に、最初の殺人の際に足が震えていたと応えている」 「殺人を犯すのが怖かったのか、もしくは極度の緊張状態にあったんですね」 「どちらにしろ躊躇していたんだ。暴走している自分にね。でも意識は、それを止められなかった。だが無意識は違った」 「誰かに止めて欲しかったのですね。だから無意識が僕や桃の前に現れて、偽装自殺のトリックを看破させるために、(渡り廊下を見て)のメッセージを伝えた」 「京都駅の時も同じだよ。止めて欲しくて、メッセージを伝えたんだ」 「桃の身代わりになった、鏡から出て来た桜も、香織さんの無意識が生み出した幻影?」 「自分の意識が行おうとしている凶行を、無意識が阻もうとしたのかもしれない。あくまで解釈だけどね」  貴船の廃校の屋上で、京都府警の鑑識は作業をしていた。  足下を注視していた鶴田は首を傾げた。賀茂の話を聞いた時は、彼がおかしくなったのかと不安になったが、その血痕を見付けて一安心した。 「なんや、賀茂はんが桃ちゃんの幻影見た言うとったけど、ちゃんと血痕が付いとるやん。包丁突き立てられた桃ちゃんは、幻影やあらへんやんわ…」  すると、横に居た若い鑑識係りが言った。 「せやけど、本物の被害者は転落してへんて言うてましたやん。包丁で刺されて、一緒に転落したんは、やっぱ幻影ですわ」 「ほな、この血液は誰のもんやねん」  二人は、首を捻った。 「まさか、被害者が言うように、双子の姉の幽霊の…」  若い鑑識係りは、そう言って微かに震えた。                                     了              
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