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『湯気の精』
3分経ち、カップラーメンの蓋を開ける。
白い湯気がフワッと立ち上がる。
『ちょうど食べごろだよ』
私には特殊な力がある。
湯気の精の声を聞くことができるのだ。
カップラーメンの蓋を開けた瞬間のその一瞬、フワッと立ち上った湯気に顔が現れ、私に話しかけてくるのだ。
『ちょうどいいぜ』
『ジャストのタイミング』
『今が美味しい瞬間だ』
そして、湯気が消えると湯気の精もフッと消えてしまう。
それは、カップラーメンに限ったことではない。風呂に入るときにも浴槽の蓋を開けたときにボワっと湯気の精が現れる。
『ちょうどいい湯だよ』
たまに勢いよく湯気が立ち上った時には『今日のお湯は熱いぜ!』なんて声を聞くこともある。
寒い冬の日に犬のポチを散歩させたときには、ポチが散歩の途中に落し物をする。するとそこから湯気が立ち上がる。
『始末しなよ!』
湯気の精は意外にきちんとしている。
大学生の頃、サークルの合宿に男女合わせて総勢10名ほどで出かけたことがあった。食事を終えると、みんなで露天風呂に入ることになった。と言ってももちろん男女別々だ。あちこちから立ち上った湯気が私に話しかけてくる。
『菜々子はお前のことが好きだぜ・・・』
「えっ、本当か?」
『いいか、俺はな、湯気の精だぜ』
『このお湯を通じて菜々子の気持ちを感じてるんだ』
『あの子はお前に惚れてるよ』
「本当か?」
『あぁ、間違いない』
私は運命の声を聞いた。
『告白してみろよ』
『きっとうまくいくぜ』
『早くしないと他の奴が狙ってるぜ』
どうやら私にはライバルもいるようだ。
『菜々子は待ってるよ』
風が流れると、その湯気の精は消えてしまった。
湯気の精の言っていることは本当だろうか。でも、今まで湯気の精が間違ったことを言ったことはない。ラーメンはいつだって食べごろだった。思い切って私は菜々子に告白した。
「僕と付き合ってくれませんか?」
「はい」
さすが湯気の精だ、間違っていなかった。
私たちは結婚し、娘が生まれ、その娘が5歳になった。
私は仕事が遅いせいもあり、風呂にはいちばん最後に入る。私はお風呂の蓋を開ける時がいちばん幸せだ。風呂の蓋をあける。フワッと湯気の精が立ち上る。
『パパと結婚する』
『パパ大好き』
なんて幸せな一瞬なんだ。湯気の精も喜んでくれる。
『よかったな』
ただ、この幸せは長くは続かなかった。
娘は反抗期となり、親への反発を心に抱えた。風呂の蓋を開けた時に娘の心を聞くことが辛い。
さらに娘は成長し、夢と現実の自分に折り合いをつける歳になった。自分のやりたいことと現実のギャップ、どうにもならないことへの苛立ち。私は湯気の精の声を意識的に遠ざけた。本心なんて聞かないほうが幸せだ。
湯気の精ともお別れだ。
娘が20歳となり一人暮らしをすることになった。いよいよ明日は引越しという日。私の部屋に娘が焼酎を持ってやってきた。きっと母親の差し金だろう。
「一杯作ってくれ」
私がそう言うと、娘はグラスに焼酎を注ぎ、お湯を注ぐ。そのグラスを無言で私に差し出す。フワッと優しい湯気が立ち、久しぶりに湯気の精が現れた。
『お父さん、今までありがとう。だってよ』
湯気の精が娘の気持ちを教えてくれる。湯気の精も野暮なことを言う、そんなことは言葉にしなくても伝わってくるものだ。
『湯気の精』でした。
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