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第1章 力試し
幸成は、華奢な女性を前にして大いに悩んでいた。
颯月より提案された腕相撲。
その土俵は――会議机では幅があり過ぎて難しいからと――お互い床に膝をついて、椅子の座面上で取り組む事となった。
颯月は綾那の肉付きが良いと論じていたが、まず比較対象であるこの領の女性が極端に細いのだ。
その訳は、王都に住まう婦女子にとって憧れの象徴的存在が、現国王の正妃だからである。
正妃は今年40歳になるが、街の者から怜悧な美妃だと称えられている。
アイドクレース領の人間らしく健康的に焼けた肌。癖ひとつない黒髪のストレートヘアは、年齢を感じさせない艶がある。
やや激しい気性に相応しい切れ長の釣り目に、酷薄そうな薄い唇。
全体的に細く薄い体躯は、華奢どころか風が吹いただけで倒れそうなほど頼りない。
中でも、これでもかとコルセットで締められた折れそうな腰は、領民の憧れの的である。
彼女に近付こうと無理な食事制限をする者も多いので、女性らしく柔らかそうな体というものからは縁遠い。
体質的にどうしても胸が育ちやすい者などは、「美しくない」「恥ずかしい」などと言って、布を巻いて潰すほどに徹底していると聞く。
他領から移住してきた女性は、王都の人間ほど極端ではないが――しかしこの街に長く住めば住むほど価値観が染められるのか、段々と細くなるし、胸の大きさも隠しがちになっていく。
全く、正妃の影響力は桁外れだ。
颯月は正妃と少なからず因縁があるため、彼女が苦手だという事を幸成も知っている。
とは言え、好みの女性が真逆になるほど深刻だとは思わなかった。
幸成はひとつため息をつくと、改めて椅子を隔てた正面に膝をつく女性――綾那を見やった。
確かに、何もかもが正妃とは真逆だろう。
この辺りでは珍しい白肌に、ふわふわと柔らかそうな水色の髪の毛。大きな瞳は桃色で、垂れた目尻が色っぽい。
顔に浮かぶ表情も正妃と違って弱々しいと言うか、おっとりしていると言うか――派手で華やかな顔立ちに似合わず、その性格は大人しそうだ。
中でも目を惹くのは、服の上からでも分かる豊かな胸元だろうか。
その大きさを引き立てるようにくびれた腰に、なだらかなカーブを描く尻。
外を歩くには少々露出が過ぎるのではと思う短いズボンからは、むっちりと程よく肉のついた足が伸びている。
アイドクレースの男は正妃のように細い女性を好みがちだが、確か他領では、綾那のような体の事こそ「男好きのする体」と言うのではなかったか。
「お姉さんいくつ?」
「え? 21ですけれど……」
颯月の2つ下だ。まだ若い。
一体、颯月は何を思って腕相撲なんて提案をしたのだろうか。
この応接室の中で言えば、幸成は颯月の次に腕力がある。全力で腕相撲に興じれば、彼女に怪我をさせてしまうに違いない。
スパイ疑惑がかけられているものの、本音を言えば年若い女性にそんな無体はしたくないものだ。
それにも関わらず、和巳でなくわざわざ幸成を指名した意図とは。
わざと負けて綾那に華をもたせたところで、彼女の得にはならない。
そもそも和巳には手を抜いたかどうかなど一目瞭然であるし、無意味だろう。
「なあ、颯……俺どうするべきなんだ?」
思い悩むよりも、指示を仰ぐ方が手っ取り早い。
そうして颯月を見やれば――行儀悪くも会議机に腰を下ろした彼は、その長い足を組み替えると不敵に笑った。
「どうもこうも、全力で行け。ああ、「身体強化」は使った方が良いぞ」
「は? ブ――「身体強化」を?」
「綾、アンタも遠慮しなくて良い。成は頑丈だからな」
「は、はい」
もしや颯月は、今まで彼女を泳がせていたのだろうか?
やはり綾那は他領から送られてきたスパイで、颯月は全て分かった上で逃げ場のない本部まで誘い込んだのか。
そして今、「アイドクレースを舐めればどうなるのか分からせてやれ。全力で潰せ」と、そういう事なのだろうか。
であれば、幸成としても遠慮する事はないだろう。
「ねえ、お姉さん。いいのかな、全力で」
幸成は念のために問いかけた。
問いかけと言っても、最早「例え怪我をさせても恨んでくれるなよ」という念押しに近い。
スパイならば言葉の意味くらい正確に読み取れるだろう。彼女の目を真っ直ぐに見やって、口元だけの笑みを浮かべてやる。
問題の綾那はと言うと、どこか困ったように微笑んで小さく頷いた。
真意はどうであれ、確かに颯月が気に入るだけの事はある。それほどに彼女は美しい。
ただ、それが何だと言うのか。スパイ疑惑の晴れない女を、颯月の傍に置いておく事などできないのだ。
しかし、やはり見た目通りに柔らかい綾那の手と組み合うと、幸成はほんの少しだけ罪悪感を覚えた。
せめて「身体強化」だけは使わずにおこうと決めて、勝負開始の合図を待つ事にする。
◆
綾那は、目の前の男――幸成を見た。
颯月よりも少し短い黒髪は癖ひとつなく、硬そうだ。恐らく綾那よりも年下で、まだ十代ではないだろうか?
颯月とは方向性が違うものの、十分に整った顔立ちをしていると思う。
全体的に軽薄そうな雰囲気だが、人懐っこい笑顔を浮かべる人だ。まあその割に、綾那を見る目は一切笑っていないのだが。
射貫く様な鋭い瞳は美しい金色で、四重奏のメンバーを思い起こさせる。
(渚と同じ色)
キューには、辛くなるだけだからメンバーの事はなるべく考えないように、と言われていたが――どうしても考えてしまう。
綾那自身、手放しに無事とは言い難い状況なのだ。彼女らは今頃、どこで何をしているのだろうか?
ヴェゼルのような、勝ち目のない敵に襲われていなければ良いのだが。
やや思考がずれてしまったが、綾那は幸成に手を組まれた事で我に返る。
剣ダコが多いのか、大きな手は硬くて皮も分厚い。確かに颯月の言う通り頑丈そうだ。
組み合った時の感覚からして、「怪力」のレベル1では勝負にならないかも知れない。
とは言え、明らかに油断している様子の幸成相手に、最初から飛ばして怪我をさせては大変だ。
(ひとまず、レベル1で様子を見てみようか)
やや悩んだものの、勝ち負けの前に腕っぷしの強さだけ示せればいいのだ。
どうせすぐにレベル2まで引き上げられる状態なのだから、焦る事もないだろう。
綾那は意を決すると、小さく息を吐いた。
「では、いずれかの手の甲が座面についた時点で終わり、という事でよろしいですか」
綾那と幸成の間に立つ和巳の言葉に、二人は手を組んだまま頷いた。
組まれた手の上に和巳の手が重なって、「始め!」と開始の掛け声が上がるのと同時に、それが外される。
綾那は初めから現時点で使える分の最大の力を出して、幸成の腕を傾けにかかる。
「ハ――? ぐ……ッ!?」
思いがけず力の強い綾那に、虚を突かれたような声を漏らす幸成。
しかし、すぐさま我に返ると、あっという間に己の腕をスタート位置まで戻した。
そうして即座に体勢を立て直すと、綾那の腕を沈めようと一気に力を強める。
(わあ、やっぱり強い……うん、レベル2でも平気そうだね!)
「ッ……、オイ、ちょっと!? 待っ……!」
「幸成? 何を遊んでいるんですか」
「遊……っ、違う、待て待て、違う、コレは……ッ!」
レベル2まで引き上げた綾那は、まるで幸成の限界を探るように、徐々に力を込めていった。
苦しげに歪んだ表情に、ぷるぷると震える幸成の腕。
対する綾那は自身の腕力ではなく、あくまでもギフトを発動しているだけ。その涼しげな表情が歪む事はなく、腕の震えも一切ない。
まさか、幸成が何かおかしな忖度をしているのではないかと、和巳は訝しむような表情で彼を見やった。
真剣勝負をしているにも関わらず妙な疑いを掛けられた幸成としては、堪ったものではないだろう。
そうこうしている間にも、幸成の震える腕がゆっくりとだが確実に座面へ近づいていく。焦りの表情を浮かべた幸成は、声を張り上げた。
「お、おい、颯ッ! 「身体強化」! 使って良いんだよな!?」
「だから言っただろう、最初から使った方が良いって」
笑い交じりに告げられた颯月の言葉に、幸成は大きく頷いた。
そして、口早に魔法の詠唱らしき言葉を紡ぎ始める。
「は――、爆ぜろ、緋色の炎! 熱き焔を我が身に宿せ、「身体強化」!」
「っわ、あ……っ!?」
詠唱を終えると同時に、一瞬幸成の体が光に包まれた。すると、いきなり彼の力が増した。
先ほどまで「怪力」の力を刻んでいた綾那だったが、己の手の甲が座面スレスレまで倒された事に焦ると、慌ててレベル2で使える最大の力を出す。
しかし、それでも腕をスタート位置まで戻す事はできない。
互いの力は拮抗するように、進みも退きもせず、完全に動きを止めてしまった。
体を強化するらしい魔法込みとは言え、「怪力」のギフトもち相手にここまで張り合えるなど、幸成は相当な膂力をもっている。
綾那は握り合った震える拳を見ながら、素直に感心した。「表」ではまず会えないタイプの人間だ、と。
ただ困った事に、相手が生身の人間である以上、綾那はもう「怪力」のレベルを上げられない。レベル3以上にすると、怪我云々の話では済まないからだ。
幸成が疲れるのが先か、それとも綾那が疲れてレベル2を保てなくなるのが先か――ここから先は根比べである。
「幸成、まさか貴方……本気なのですか?」
「~~っはァあ!? 俺が、本気出して、女の子に負ける訳、ねえだろ!? こっからだ、こっからァ……ッ!!」
「いえ、しかし……見たところ、「身体強化」を使っても勝てそうにないんですけれど……」
「るッせえ、まだ手ェついてねえだろうが! 邪魔すんな!!」
半ば叫びに近い怒声を上げながら、幸成は己の全てを絞り出すように腕に力を込めた。
僅かに綾那の腕が傾きを大きくしたものの、しかし座面につくまでは至らない。
(うーん、どうしよう。もう力は示せただろうし、そろそろ負けちゃっても……)
すっかり止め時を失った綾那が、そんな事を考え始めたその瞬間。
2人が肘を置く土俵――椅子の座面が、みしりと鈍い音を立てた。
(こっ、壊れちゃう!?)
綾那はびくりと体を揺らすと、思わず「怪力」を解除した。
それと同時に、綾那の手の甲は座面のクッションへ勢いよく沈められる。
ただ、ダァン! と大きく響いた音の割に、綾那の手に痛みはなかった。
「そこまで!」
「――ッシャオラアァア!!! 見たか、和巳ィ!!」
「…………はあ、まあ」
幸成は、勝敗が決すると同時に勢いよく立ち上がった。
そうして両腕を掲げると、大きなガッツポーズをしながら声高に吠える。
そんな幸成に対して、和巳は黙って胡乱な目を向けた。
その瞳は、「女性相手にそんなにはしゃいで、恥ずかしくないのか? お前」と物語っているようだ。
綾那は椅子の座面が壊れていないかの確認をしてから、ゆるゆると立ち上がった。
すかさず竜禅が、僅かに膝を折って彼女の顔を覗き込む。
「怪我は?」
「あ、いえ、ありません!」
ぶんぶんと両手を振って微笑む綾那を見て、竜禅は口元に笑みを湛えて頷いた。
一連のやりとりを眺めていた颯月は、パンと拍手を打って机から立ち上がる。
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