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第1章 お約束
綾那が奈落の底に落とされてから、あっという間に一週間が経った。
その間、日替わりで綾那の元を訪れたのは竜禅と和巳。
彼らはいつも話し相手になってくれたが――肝心の幸成はと言うと、よほど団員の訓練や戦闘指南で忙しいらしい。
彼は就寝前に必ず「お休み、お姉さん」と顔を見せにくるものの、逆に言えばその程度の接点しかない状況だった。
幸成に認めてもらえない限り、綾那に自由はない。ただ彼にも職務がある以上、こればかりは焦っても仕方がない。大人しく機会を待つだけだ。
そして騎士団宿舎で過ごしている間、キューからの連絡も一切ない。
竜禅達は日々、綾那にリベリアスについて師事してくれる。
ついでに地図の見方も教わった結果、どうやらキューが向かった東部アデュレリア領は、王都アイドクレースから二百キロ以上離れた位置にあるらしい。
奈落の底には魔法、そして「表」の生活家電に似た魔具もあって文明的だ。
しかし、意外な事に車やバイクのような乗り物の魔具はなくて、移動手段は徒歩と馬車のみ。
いくら空を飛べるとは言え、何かと燃費の悪いキューの事だ。まずキュー自身がアデュレリア領へ到達するまでに、相当な時間を要するだろう。
次に、広大なアデュレリア領の中からギフトの気配を辿って、綾那の家族を探し出す。
そして最後に、家族を連れて――馬車または徒歩で――王都まで二百キロ以上の道のりを戻って来てくれれば、綾那はようやく家族の一人と再会できる。
ただ、普通に考えれば家族だって綾那と同様、身分証明ができないはずだ。
だから街に入る事すらできず、資金も働き口もないだろう。馬車の乗車賃どころか、生活費にも困窮しているはず。
まず間違いなく、徒歩での移動になるだろう。
二百キロと言えば、東京から静岡、浜松ぐらいまで距離がある。それを徒歩で進むとは、なんとも気の遠くなる話だ。
綾那の場合やや複雑な状況に陥っているものの、騎士達のお陰で生活できている。
皆も同じように、とにかく親切な現地人の世話になっている事を願うばかりだ。
(でも、キューさんが皆をここまで連れて来てくれたとして……私がここから出られないんじゃあ、意味がないんだよねえ)
綾那は俯き、細く息を吐いた。隣を歩く竜禅が目敏くそれに気付くと、僅かに膝を折って顔を覗き込んできた。
一人では自室から出る事すら許されない状況下で、外へ出る時は必ず誰かと共に行動している。
今日は竜禅が散歩のお供なのだが――揃いのマスクを付けて歩く男女二人というのは、果たして傍からどのような関係に見えるのだろうか。
「窮屈な思いをさせてすまないな」
綾那は竜禅の言葉にパッと顔を上げると、顔を横に振った。
「いえ、違うんです! 皆さんよくしてくださって、本当に助かっていますから! 今のは、その……家族はどうしているかと、思っただけで――」
宿舎の探検ばかりでは気が滅入るだろうと、今日は、王族の私有地内で働く使用人が住む屋敷の中庭までやって来た。
青々と茂った生け垣に囲まれた噴水には、見事な装飾が施されている。噴き出す水に光が反射するたび、キラキラと輝く。
そして隅には、八角形の屋根が可愛らしいガゼボ。
見れば見るほど、物語に出てくるような大豪邸だと思う。これでも王族の住まいではなく使用人の住まいだと言うのだから、末恐ろしい。
「それは……心配だろうな。貴女と同じく、この国には寄る辺がないだろうから」
「……ええ」
画面の中で動くメンバーの姿を見て大泣きしてからと言うもの、綾那はカメラの動画ファイルを一つも開けなくなってしまった。
ファイルどころか、カメラ自体を見るのも憂鬱だ。自室の引き出しの中にしまいこんで、目に入らないようにしている。
見たところで不安と寂しさを煽られるばかりで、一つも得がないからだ。
けれど職業病とはよく言ったもので、ここ数年ほぼ毎日動画の撮影をして生きてきたため、いきなりスッパリと辞めるのも落ち着かない。
それとなく確認してみると――魔具を使った物にはなるが――どうやらこの世界にも、写真や動画という概念はあるらしかった。
いまだスパイ疑惑の晴れない綾那が言うのも厚かましい話だが、試しにこうして竜禅達と一緒に歩いている間だけ、花や建物を撮影させてくれないかとお願いしてみた。
勿論、映してはならない物がある場合は注意してくれれば、すぐに辞めるから――と、ダメ元で。
竜禅が颯月に確認しに行った結果、彼は快く了承してくれたらしい。
以来、まだカメラをもつ元気はないので、時々スマートフォンで風景動画を撮っている。
家族と再会した時に、「こんなものがあった。あれが綺麗だった」と、見せてあげたいのだ。
「早く幸成の手が空けば良いのだが、アレでなかなか忙しい男なんだ。彼が職務を怠れば、団員の立ち回りにも関わる。実戦で不要なケガ人を出すのは避けたいからな」
「そう、ですよね……いえ、それは仕方ない事だと思います。私はこのまま待ちますので」
確かに、一刻も早く幸成に認めてもらいたい気持ちはある。
とは言え、タダ飯食らいの部外者である綾那が、我が儘を言っていいはずもない。今は生活を保証されているだけでも、十分にありがたいと思うべきだ。
(焦るのは、キューさんがアイドクレースに戻って来てからでも良い……か)
今はとにかく何事も前向きに考えなければ、また平静を保てなくなってしまう。
綾那はおもむろにポケットの中からスマートフォンを取り出すと、折角いいロケーションに来たのだからと撮影を始めた。
大きな噴水を映して、その周りを囲む生け垣を映して――ガゼボにレンズを向けたところで、人影がある事に気付き慌ててスマートフォンを下げる。
一体いつから人が居たのか分からないが、無許可で人物の撮影をするなど、プロのスタチューバーにあるまじき最低最悪の行為であった。
「ご、ごめんなさい、竜禅さん。無断で人を映してしまいました、すぐに消しますね」
「人? ああ、あれは――いや、かえって映した方が良いかも知れないな」
「え?」
今しがた撮ってしまったばかりのデータを消すため、スマートフォンを操作していたところ――竜禅の思わぬ言葉に、綾那は手を止めて首を傾げた。
相手の許可を取らずに無断撮影するなど、犯罪と変わらない。それにも関わらず映した方が良い相手とは、一体どんな人物なのだろうか。
そろりと顔を上げてガゼボを見やれば、竜禅が指差しながら説明し始めた。
「黄色いワンピースの少女が見えるだろうか」
「えっと……はい、見えます」
ガゼボには、複数人の若い女性が集まっているようだ。
使用人の制服なのだろうか――その多くは黒または紫と、暗色系の服装に身を包んでいる。
しかし一人だけ、竜禅の言う通り華やかな黄色いワンピースを着た少女の姿があった。
黒や紫という暗色に囲まれた明るい黄色は、遠目から見ると殊更目立つ。
「彼女は桃華嬢だ」
「桃華さん……あ、ちょ、竜禅さん、近付いても良いんですか?」
生垣で身を隠しつつ、ガゼボに向かって歩き出した竜禅。
綾那はどうするべきか迷ったものの、現状、自室以外での個人行動を許されていない。ここで一人待つのは良くないだろうと、ひとまず彼の後について行く事にした。
そうしてガゼボに近付けば、段々と少女たちの姿が明瞭になってくる。
竜禅が桃華と呼んだのは、まだ十八にも満たないように見える幼気な少女だ。
胸元に届く長さの黒いミディアムヘア。
アイドクレースの人間にしては、やや白い肌色。大きな瞳はオレンジ色で可愛らしいものの、その表情はどこか冷めている。
(こ、ここに来てから初めて女の人を見た気がするけど、細過ぎない? 陽香やアリスといい勝負かも……あんまり、隣には並びたくないタイプだな)
桃華だけでなく、その周りを囲む少女たちも皆、痩せすぎと言えるほど華奢な体つきだ。
綾那はつい、ひくりと口元を引き攣らせた。少女達は揃いも揃って細過ぎる。
自分一人で歩いている時なら「背が高くて、スタイルも良くて凄いね」と言ってもらえるのに、ああいう集団に囲まれた途端に「あれ? 思ったよりも肉感が――」なんて言われるのはお約束。
昔ならともかくとして、今は決して太っていないにも関わらず、だ。
これは四重奏のメンバーに囲まれて活動している時から、嫌と言うほど経験した現象である。痩せ型の集団に混じると相対的に太って見えるなど、酷い言いがかりだ。
思わずため息を吐いた綾那に、竜禅は続けた。
「桃華嬢は、颯月様の婚約者筆頭なんだ」
「はあ、颯月様のこん――こっ、婚約者ぁ!? 若過ぎませんか……!?」
「そうだろうか? 確か今年で十六だったと思うが」
「JK!? な、何と言う事でしょう……! いいえ、それでこそ神!? 親公認の婚約者なら、きっと淫行条例も適用されないですもんね! もしや、あの一角に居る女の子全員が婚約者ですか!? そっか、意外と年下の少女が趣味だったんだ……!」
「綾那殿。何を言っているのかイマイチ分からないが、少し落ち着いて欲しい」
竜禅は己の口元に人差し指を立てると、「静かに」と呟いた。
彼は腰を屈めて、ガゼボ近くの生け垣の裏手へ回る。ハッと我に返った綾那は、一度深呼吸してから「失礼、取り乱しました」と謝罪した。
そして、竜禅を追い同じく生け垣の裏手へ回ると、ひょいと頭を出して颯月の婚約者――桃華を見やった。
(予想以上に若い事には驚いたけれど、でも……うん、凄く可愛らしい女の子だな。今はまだ幼さが残っているけれど、ほんの数年で綺麗なお姉さんになりそう)
こんなに素晴らしい女性を囲っているなど、さすが颯月である。あのガゼボに集まっている少女の内、一体何人が彼の婚約者なのだろうか?
神と崇める男の甲斐性に1人ウンウンと頷く綾那だったが、ガゼボから甲高い怒声が聞こえてきて首を傾げる。
「颯様に気に入られているからって、調子に乗らないでよ!!」
(うん……?)
紫色のスカートを履いた少女が、桃華のか細い肩を押した。
よほど強い力で押されたのか、細い体を大きく傾かせた桃華は、ガゼボの柱にドンと背中を打ち付ける。
今、何が起きているのだろうか。綾那に分かる事と言えば、とりあえず『颯様』というのは颯月の愛称らしい――という事ぐらいだ。
「そうよ! 婚約者筆頭がなんだって言うの? 大勢居る中の一人のくせに!」
上から下まで黒い、まるで喪服のような恰好をした少女が同調した。
その隣では、これまた黒いロングワンピースの少女が、高い声で何事かを喚き散らしている。
桃華はと言うと、無言のまま形の良い眉を不快そうに寄せては、少女に押された肩を手で押さえて擦っている。
(え、ちょ、ちょっと待って、これって――う、嘘でしょう? こんな事って、現実に起こり得るの? まるで少女漫画でお約束のワンシーンじゃん!)
少女達が、たった一人の男を巡り争っている。
颯月の婚約者の中で最も有力らしい桃華を呼び出して、『その他』の少女達が苛めている。それも、寄ってたかって狩りでもするように。
まるで物語の中で起きるような出来事を目の当たりにして、綾那は己の鼓動が速くなるのを感じた。
このような状況下で不謹慎極まりないが、正直他人事の修羅場ほど見ていて高まるものはない。それが恋愛絡みであれば尚更だ。
(颯月様にとって、何よりも大事な桃華さんを苛める少女達……! 物語なら、ここで颯月様本人が華麗に助けに現れるとか、彼女の危機に気付いた颯月様から命令を受けた他の誰かが、コッソリ助けに来てくれるとかだと思うけど……!?)
思わずキョロキョロと辺りを見回したが、しかし周囲に他の人の気配はない。
綾那はやや肩を落とした後に「いやいや、誰も居ないなら私達が助けなきゃダメだよね?」と思い直すと、隣で片膝をついて身を低くした竜禅を見やる。
しかし綾那の視線に気付いた竜禅は、首を横に振った。
「颯月様と近しい立場の私が介入すれば、アレは悪化するだろう。その場しのぎの手助けにしかならないのなら、初めから何もしない方が良い」
「え? で、でも、あのままでは――」
確かに竜禅の言う事も理解できるが、それではあの少女はどうなるのか。
颯月と結婚したければ、己一人で恋敵を蹴散らす力を付けろと言う事か。
(そりゃあ、あんな神と結婚するとなれば、これからも周りに僻まれ続けるだろうし……自分が強くなるしかないんだろうけど、でも――)
綾那が眉根を寄せていると、またしてもガゼボから桃華を貶める声が聞こえてきた。
「いつもそんな色の服を着て、自分は特別だとでも言いたい訳!? どうして黄色なのよ!」
「そもそも颯様からプレゼントされたなんて、本当は嘘なんじゃないの?」
「颯様の色を纏わないなんて、婚約者の中でアンタだけじゃない! 非常識にも程があるわよ、どうして颯様は、こんな女を好きにさせているのかしら!?」
ワーワーと騒ぐ少女達に、綾那は「色?」と呟いた。すると、竜禅がすかさず説明してくれる。
「リベリアスでは、慕っている異性の瞳――または髪と同じ色の服やアクセサリーを身に纏い、相手に好意を伝える風習がある。彼女らは颯月様を慕うからこそ、あの色を纏っている訳だ。逆に、懇意にしたい異性へ好意を伝えるために、己の色を贈る事もある」
「なるほど、それであの子達は黒や紫の……あれ?」
「綾那殿?」
その時綾那の頭に思い浮かんだのは、初日に颯月から贈られた下着だ。
服には法則がなかったのに、なぜか黒、または薄紫の二色に統一されていた下着の数々。
「表」でも下着として別段珍しい色味ではないからと、深く気にしていなかったが――もし颯月が何かを意図して、あれらの色を指定していたとしたら?
(いやいや、違う、考えすぎだよね。違う違う、うん。もう、私としたことが、神を相手に何を自意識過剰になっているんだか……と言うか、100歩譲ってそうだとして、他人から見えない下着に「自分の色」って、なんか、それって、ちょっと――い、いや、やめた、やっぱりナシ! もうこの事は考えない!)
何やら、今後も黒や紫の下着を付け続ける事に、妙な抵抗感が生まれた気がする。
綾那は竜禅に「何でもありません!」と勢いよく頭を振って、即座に思考を切り上げた。
(今はそんな事よりも、桃華さんの事!)
ふうと息を吐いた綾那は、再び竜禅に顔を向けた。
「では、颯月様とはなんの関係もない私が止めに入るのはいかがですか?」
「…………関係ない事は、ないだろう」
「彼女らにとっては、ないでしょう? 私がどこの誰かも分からないはずです。お節介かも知れませんが、彼女はまだ幼いじゃないですか。こんな環境に置かれ続けては、精神衛生上よろしくありませんよ。大事な婚約者筆頭なんでしょう?」
綾那の言葉を受けて、竜禅は困ったように口をヘの字に曲げた。
そして、「うむ」と低く唸って顎髭をなぞったかと思えば、熟考するように黙り込んでしまう。
綾那が竜禅の許しを待っている間にも、ガゼボの少女達は桃華を責め立てている。何一つ反論しない桃華に、好き放題暴言を浴びせているらしい。
「一番良いのは、この場に幸成を呼ぶ事なんだが――」
「幸成様を?」
「ああ。彼が颯月様の従弟だという話はしたな? 桃華嬢は彼らの幼馴染でいらっしゃる。幸成とは相当親しいから、彼が桃華嬢を庇う分には周りの顰蹙を買う事もない。だが、まあ――そうだな。先に桃華嬢を攻略するというのは、存外悪くないかも知れん」
「こ、攻略?」
一体何の話だ。
綾那が頭上に「?」を浮かべていると、不意に竜禅は口元を緩ませた。
「綾那殿、私と動きを合わせられるだろうか? 「水鏡」を使おうと思う」
「みらーじゅ。えっと、それは……魔法でしょうか?」
「ああ、このマスクと同じ原理だ。貴女と彼女らの間に、魔法の水壁を置く。すると彼女らが貴女を見た時、間に置かれた水壁に映るのは貴女ではなく、全く別人の姿になる。私と揃いのマスクをしたまま出ていくのはまずいし、だからと言って素顔を晒されるのも困る。それに、その水色の髪は記憶に残りやすい。波風は最小限に――どうだろうか?」
「なるほど」
どうやら「水鏡」というのは、人と人の間に水壁をつくり、その壁に偽物の景色を映し込む魔法らしい。
竜禅にもらったマスクのような、外から見るのと内から見るのとでは全く見え方が違う、マジックミラーに似た作用をもつのだろう。
「あの位置に壁を出すから、声掛けだけで彼女らを止めて欲しい。この範囲から出てしまうと「水鏡」が解けてしまうから、あまり動かないように――映す姿は侍女長、できるだけ落ち着いた声色で話して欲しい」
竜禅の説明に、綾那は「やります」と大きく頷いて見せた。
(上手く行くか分からないけれど、試しにやってみよう)
いくら少女漫画のような燃える展開だと言っても、燃えて良いのはあくまでも物語を読んでいる間だけだ。
今目の前で現実に苛められている少女を、見て見ぬ振りなどできない。綾那は大きく深呼吸すると、竜禅の合図を待った。
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