第1章 婚約者筆頭

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第1章 婚約者筆頭

「青き雫よ、水面(みなも)に影を踊らせろ――「水鏡(ミラージュ)」」  パチンと鳴らされた指の音を合図に、綾那は指定された場所へ飛び出した。すると、目の前に水でつくられた壁が現れる。  ただ壁と言っても透明な水でできているので、僅かな揺らぎは感じるものの、綾那からは向こう側の景色が鮮明に見えた。  しかし竜禅曰く、少女達から見る景色――綾那の姿は、彼女らを取りまとめる侍女長に変わっているらしい。  綾那は意を決して息を吸い込むと、桃華一人を囲んで苛める少女らの背に向かって、声を掛けた。 「あなた達、そこで何をしているのですか」  少女らは桃華をなじる事に夢中で、綾那の存在に全く気付いていなかった。  それが突然声を掛けられると、面白いぐらいに肩を揺らして振り返る。全員、桃華同様まだ顔に幼さを残している。  少女らはサッと青褪めて、罰が悪そうに俯いた。その様子を見るに、どうやら自分達が『悪い事』をしている自覚はあるらしい。  見も知らぬ侍女長を演じるというのは、なかなかに無理がある。それでも綾那は竜禅に言われた通り、できうる限りの落ち着いた声色で話し続けた。 「彼女一人を囲んで、酷い暴言を吐いていたようですが……気に入らない事があるならば、颯月様に直接お話してはいかがですか」  その言葉に、紫色のスカートを履いた少女が――どうやら彼女がリーダー格らしい――冗談じゃないと言いたげな様子で、ブンブンと首を横に振った。 「そ、そんな恐れ多い事――颯さ……颯月様と直接お話なんて、できません」 「……できない? なぜです?」  人前で堂々と『颯様』と愛称で呼ぶのは、不敬なのかなんなのか。少女は『颯月様』と言い直して俯いた。  直接話せないという意味が分からずに問いかければ、少女はグッと唇を噛む。 「な、なぜって、そんな……婚約者でもないのに、私達の方から会いに行ける訳が――」 「――は?」  思わず漏れた綾那の「は?」に酷く責められていると思ったのか、少女達はまたびくりと肩を揺らした。  婚約者ではなく、それも颯月と気軽に会える間柄でもない少女達が、なぜ公式に『婚約者筆頭』と呼ばれる桃華に噛み付いているのだ。一体どんな思考回路をしているのか。  桃華と彼女らでは、立っている土俵(ステージ)が違うではないか。 (それがどうして、あんなに上から目線で桃華さんをなじれたの? まさか、彼女を婚約者の地位から引きずり下ろせば、同じ年頃の自分達が繰り上がりで新しい婚約者になれると思って……? いや、そもそもどういう基準で婚約者を決めているのか知らないけど、さすがにそこまで節操のない選び方ではないんじゃあ……)  改めて彼女らに目を向ければ、やはり青い顔をして俯いている。  もじもじと手遊びをしたり、スカートを握って皺を作ったりと、まるで教師に呼び出されて叱られている子供のような態度だ。  見た目通り、まだ中身が――考え方だって幼いのだろう。  この調子では、多少注意した程度では懲りずに同じ事を繰り返しそうだ。とは言え、いまだ部外者である綾那が首を突っ込みすぎるのも良くない。 (ただでさえ今は、竜禅さんの魔法で他人の姿を借りている状態なんだから……尚更)  綾那がわざと大きなため息をつけば、少女達はますます身を縮こまらせた。  悪戯に怯えさせるのも可哀相だが、そもそも悪い事をしているのは彼女らの方だ。自業自得だと反省して欲しい。 「とにかく、こんな事をしたって無駄ですよ。他人を貶めるよりも、もっと有意義な事に時間を使いなさい。この件は颯月様に報告いたしますからね」 「えっ……!? も、申し訳ございませんでした、どうかお許しください!」 「そんな事をされたら、颯月様に嫌われちゃいます……!」 「お、お許しください!」  嫌われると分かっていて、何故こんな卑怯な真似をするのだろうか。なんの得にもならないのに。  綾那は鏡の裏側で眉を(ひそ)めたが、しかしすぐさま「(しか)り」と頷いた。 (いや、宇宙一格好いい男が絡む問題だもの。この子達の思考、判断力が狂ったとしてもおかしくはないよね。こんな幼気な少女達まで惑わせて、何て罪つくりな神なの? やっぱり颯月様って悪魔? 全くもう……生涯支持します!)  綾那は一人納得して脳内で誓いを立てた後、必死で頭を下げる少女達にゆるゆると首を振った。 「謝る相手が違うでしょう?」  その言葉に、リーダー格の少女はグッと息を呑んだ。彼女はちらりと桃華に目線を送ると、苦々しく顔を歪ませる。  その両隣に立つ少女達もまた、悔しそうに唇を噛んで黙り込んだ。  しかし、この問題児グループは一向に桃華へ謝罪しようとしない――このままでは埒が明かない。  綾那はまた息を吐いて、桃華を手招いた。それに気付いた桃華は、ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせている。 「あ、あの……?」 「颯月様に被害報告をしに行きましょうか」  明るく言い放った綾那に、少女達は弾かれたように顔を上げる。  そうして半ば自棄のように桃華へ頭を下げると、大きな声で「ごめんなさい!!」と叫んだ。  頭を下げられた桃華は、戸惑いがちに「別に、構いませんけれど――」とだけ答える。  即座に顔を上げたリーダー格の少女は、やはり苦々しげな表情で桃華を睨みつけると、綾那に対して「失礼いたします!」と挨拶をして踵を返した。  残りの二人も同じように挨拶すると、まるで逃げ去るように彼女の後を追う。  綾那は少女らの背中を黙って見送り、やがて完全に姿が見えなくなると、「はあぁ~」とため息を吐きながら脱力した。 「竜禅さぁん」  綾那は間延びした情けない声で、生け垣の裏手に向かって声を掛けた。  すぐさまパチンと指が鳴ったかと思えば、目の前にあったはずの水の壁が掻き消える。 「えっ……ど、どなた?」  魔法が消えたので、桃華にも綾那本来の姿が見えるようになったのだろう。オレンジ色の瞳を丸めて綾那を凝視している。  なんなら、綾那の風貌に警戒している節もあった。しかし、音もなく生け垣の裏手から姿を現した竜禅を見た途端「竜禅様!?」と、驚きと安堵が入り混じる複雑な声を上げた。 「侍女長がどのような人物か説明している暇もなかったのに、素晴らしい。作戦成功だな」 「竜禅さんの魔法のお陰ですよ。あと、「落ち着いた声色で」っていうアドバイス?」 「えっ、あの……こ、これは、一体どういう……竜禅様?」 「ご機嫌麗しゅう、桃華嬢。ここでは人目に付きやすい、場所を変えようか」 「は、はあ」  何が起きているのか、訳が分からない――といった様子の桃華は、竜禅の提案に頷くと、ちらりと窺うように綾那を見やった。  その視線に気付いた綾那は、敵意がない事を示すため、精一杯優しく微笑んだ。とは言え、よくよく考えればマスクで両目が隠れているので、ほとんど伝わっていないだろう。  しかし苦笑を浮かべる綾那に向かって、桃華は深々と頭を下げてくれた。  ◆ 「先ほどは庇っていただいて、本当にありがとうございました」  時刻は14時過ぎ。騎士達の昼食時間はとっくに過ぎていて、夕食時間にはまだ早い。  ちょうど厨房のシェフ達も休憩で中抜けしているのか、騎士宿舎の食堂には今、綾那達の他に誰も居ない。  姿勢よく椅子に座ってぺこりと頭を下げた桃華に、綾那は「礼儀正しいお嬢さんだなあ」と笑みを深めた。 「あの、私は桃華と申します。父が王都で『メゾン・ド・クレース』という服屋を営んでおりまして……私は普段、陛下のお膝元や騎士団へ衣類を卸す仕事をしています」 「あら? メゾン・ド・クレースと言うと――」 「はい。今、ウチの店の服を着て下さっていますよね」 「ああ、やっぱり!」  初日に、颯月に連れられて立ち寄った服屋だ。そして彼が贈ってくれた服のブランド。  婚約者である桃華の父親が営む店で、しかも頻繁に王族や騎士団へ衣類を卸しているとなれば――団長の颯月がメゾン・ド・クレース御用達(ごようたし)だとしても、何ら不思議はない。 「ええと、それで、貴女は……? 竜禅様と同じマスクと言う事は――」 「いや、彼女は違う。このマスクは、私とは全く違う理由で付けている」 「そうなんですか? たぶん北の……ルベライト領の方ですよね。こんなに真っ白な方、初めて見ました。青い髪も幻想的で、素敵です」  オレンジ色の瞳を細めて人懐っこい笑みを浮かべる桃華に、綾那もまた「ありがとうございます」と笑みを返した。  最低限の礼儀として、こちらも自己紹介をしたいところだが――しかし、和巳から一度「スパイの疑いが解けるまでは、他の者と接触しないように」と言われている。  ここまで手を出しておいて今更だが、彼女に関してはどうなのだろうか。綾那は、まるで助けを求めるように竜禅を見やった。 「桃華嬢、彼女は綾那殿だ。訳あって騎士団の宿舎に身を寄せているが、詳細は機密事項で話せない。ルベライトではなく、異大陸から来られた方とだけ言っておこう」 「まあ、異大陸ですか?」 「よろしくお願いします、桃華さん……いえ、桃華様?」 「あ、そんな! 私の事は桃華と呼んでください」 「でも、颯月様の婚約者筆頭なんですよね? 未来の騎士団長夫人じゃあないですか」 「……えっ?」  綾那の言葉に、桃華はこてんと可愛らしく首を傾げた。その反応に、綾那もまた首を傾げる。 「確かに、筆頭なんて呼ばれていますけど……でも私、団長夫人になるつもりは微塵も――」 「ええ!? えぇえ……っそんな、まさか! 私の唯一絶対神、片想いなんですか……? そんな、そんな事が? あの顔の何が気に入らないの? 人類の至宝なのに! ああ、なんて可哀相な颯月様! お、お願いだから結婚してあげてよぉ……っ!!」  もしや颯月は、団長が行使できる権力を振るって、桃華を力ずくで婚約者にしたのだろうか?  しかし想いが通じ合わないままでは結婚に踏み切れず、身動きが取れなくなってしまった。それを周りが「団長が結婚するまで、自分達は待つ」と、遠慮しているのではないだろうか。 (そんなところまで少女漫画なの? くぅう、幸せになって欲しい……!)  いくら不遜な颯月でも、惚れた女が相手では弱いのだ。なんといじらしい事だろう。是非とも桃華には、彼の願いを叶えてあげて欲しい――のに、結婚する気が微塵もないなんて酷すぎる。  すっかり取り乱してしまった綾那は、頭を抱えて狼狽えた。その様子を見て、桃華がオロオロと立ち上がる。 「か、顔? 至宝??」 「桃華嬢。どうやら綾那殿は、やや病的なレベルで颯月様に魅了されているらしい」 「みっ、魅了!?」 「ちょ、りゅ、竜禅さん! そんな、誤解を生むような事を婚約者筆頭の桃華さんに言わないでください! 私が魅了されているのは、颯月様ではなくて颯月様のお顔です!」 「つまり、誤解ではない気がする」 「魅了……そんな――ではもしや、綾那様も、筆頭の私が疎ましいと……?」 「はい!?」 「助けてくれたから……綾那様は違うんだって、思ったのに――」  しおしおと花が枯れるように落ち込んだ様子の桃華に、綾那はマスクの下で目を(みは)った。  ――竜禅のせいで、颯月の大事な婚約者が勘違いしてしまったではないか。  しょんぼりと椅子に座り直す桃華の真横へ移動すると、綾那は慌てて床に両膝をついた。  馴れ馴れしく触れて良いものか分からないが――マスクで表情が見えない分、せめて態度で伝わるようにと――そっと桃華の膝に手を置く。 「違います、桃華さん。疎ましくなんて思っていません」 「でも……私、いつも颯月様を慕う女性に」  オレンジ色の瞳を潤ませる桃華に、綾那は「なんて事をしでかしてくれたのだ」という思いで竜禅を一瞥した。しかし彼は、首を傾げるばかりで悪びれた様子が一切ない。 「あの、確かに魅了はされています。でも慕っていません」 「何も、慕っていないと言い切る事はないのでは……」 「だって、本当に慕っていませんから。まだどういう方なのかも詳しく分かりませんし……ただ、ご尊顔が好みで仕方ないと言う事だけは認めます。ええ、そこは間違いありません」  キッパリと言い放つ綾那に、竜禅はむうと低く唸った。そんな二人のやりとりをよそに、桃華がついに大粒の涙を零し始める。  綾那はギョッとして立ち上がると――まるで幼い子供をあやすように――彼女の頭を胸に抱いて、後頭部をぽんぽんと撫でた。  抱き締めた細い体からは、ふんわりと優しく、甘くて落ち着いた香りがする。  秋に花をつける金木犀とよく似ていて、綾那はつい「わあ、この匂い好き。どこまでもついて行きたくなっちゃうな――」と、やや変態じみた感想を抱いてしまった。 「うぅっ、私の事が嫌いなら、これ以上優しくしないでくだざい゛ぃ……!」 「い、いいえ、だから、嫌いではありませんよ。嫌う理由がありませんから――」 「嘘つき! 優しくして、私が心を開いたら裏切るくせに! わ、私と仲良くしたって、颯月様に口添えするなんてできないのに――どうして皆、私を利用するの!? どうして使()()()()と気付いた途端に、踵を返して私を捨てるの……!」  この少女は一体、今までどんな目に遭っているのだろうか? 綾那はさすがに「わー、ますます少女漫画のヒロインみたーい!」なんて、呑気な事を考えられなくなった。  綾那の腕から逃げ出そうと、泣きながら身を捩る桃華の痛々しい姿に同情してしまう。颯月は何故、愛しい婚約者がこんなになるまで放置しているのだろうか?  彼は神だから何をしたって素敵だが――目の前で可愛らしい少女が大泣きしているのを見ると、ほんの少しだけ人間性を疑ってしまう。 「あの……桃華さん、少しで良いから、話を聞いて?」 「いや! ~~~~やだぁ、もう、放して……皆きらい、嫌い!」  しっかりしているように見えたが、やはりまだ十六歳の少女なのだ。  本人が望んでこうなったのかどうか分からないが――いや、まず間違いなく望んでいないだろう。騎士団長の肩書をもつ颯月の婚約者という立場なんて、ただ生きているだけで重圧がのしかかるに違いない。  くわえて、彼を慕う他の女性達から日常的になじられ、口添えをしろと乞われ、利用され、裏切られて……好きで着ている黄色い服さえ、貶されるのだ。  そんな生活が続けば、あっという間に限界が来るに決まっている。  一体いつからこんな生活を強いられているのだろうか。颯月の幼馴染と言うからには、物心ついた頃からずっと――という事も十分にあり得る。  綾那はひとまず、相手が偉い人の婚約者筆頭だとか、自分が単なる部外者だとか、そういう面倒事は一切気にしない事にした。  今腕の中に居るのは、ただの女子高生だ。モテ過ぎる彼氏の事で悩み泣いている、五つ年下の女子高生。そして綾那は、近所のお姉さんみたいなものだ。  腕の中で暴れる桃華をやや力ずくで抱え直して、綾那は穏やかな声で話しかけた。 「桃ちゃん、いい子だから落ち着いて」  いきなり愛称で呼ばれて驚いたのか、桃華はびくりと体を硬直させた。彼女が暴れなくなったタイミングを逃してはならない――そんな思いでもって、言葉を紡ぎ続ける。 「ごめん、今まで大変だったんだね。でも大丈夫、私は何もお願いしないし、苛めないから」 「でも、でも……っ」 「どうすれば落ち着けるかな? お部屋に戻る? それとも、お話を聞こうか? ……どうすればいい?」 「~~~~うぅ、あぁ……っ」  桃華はそこで初めて、ぎゅっと綾那の胸に縋りついた。  ぽろぽろと涙を零して、子供のような嗚咽を上げて泣く桃華。綾那はただ黙って、彼女の頭を撫でるしかなかった。
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