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第1章 ヒロインの攻略
「本当にごめんなさい、取り乱しました……」
ようやく泣き止んだ桃華は、恥ずかしそうにしながら俯いた。目元と頬が真っ赤に染まっている。
綾那は「もう平気かな」と判断すると、彼女を拘束していた手を緩めた。しかし、離れようとすれば細い指が手首に巻き付いて、その場に引き留められる。
「桃華さん? 平気? ……まだ辛い?」
「う、あの……も、『もも』――」
「うん?」
前屈みになって桃華の顔を覗き込めば、何やら言いづらそうに口ごもっている。綾那がじっと待っていると、やがて彼女は意を決したように顔を上げた。
「も、桃です……っ!」
「あ……うん、桃ちゃん」
先ほど咄嗟につけた愛称で呼べば、桃華はガバリと勢いよく机に突っ伏した。唯一見える耳はリンゴのように赤く染まっていて、綾那は少々複雑な思いになる。
(なんか、喜んでくれているみたいだから良いんだけど……もしや桃ちゃんって、チョロい子? 自分で言うのもなんだけど、私に心配されるって相当なんじゃ――)
彼女の言葉から察するに――颯月目当ての女性達の手によって――今まで散々痛い目に遭ってきたのだろう
だから、綾那のような『同性なのに疎んでこない』存在が新鮮だという事は理解できる。しかし、それにしたって簡単に絆され過ぎではないのか。
思わず竜禅を見たが、彼の姿は知らぬ間に食堂から消えていた。
紳士的な彼の事だ。もしかすると、桃華に気を遣って食堂の外で待機しているのかも知れない。いまだスパイ疑惑の解けない綾那を置いて、どこか遠くへ行く事もないだろう。
(そもそも桃ちゃんが大泣きする原因を作ったのは、竜禅さんだった気がするけれど――まあ、済んだ事は良いか)
結果として、感情を爆発させた桃華は憑き物が落ちたように晴れやかな顔をしているのだから。
綾那は、机に伏して「ふふふ」と小さく笑っている少女の頭をぽんぽんと撫でた。
泣きながら日頃の鬱憤をぶちまけた桃華曰く、彼女は確かに颯月を尊敬している。
詳細は聞いていないが、彼に対して多大な恩があるらしい。だから桃華にできる事があるならば、なんでもしたいと。ただ残念な事に、そこにあるのは愛情でもなんでもなく、あくまでも恩返し――義理人情だ。
それが去年、訳あって彼の婚約者になる以外の選択肢がなくなってしまった。
しかも元々幼馴染だった事もあって、気付けば周囲が「桃華は颯月のお気に入り」「婚約者の筆頭」などと好き勝手に言い出す始末。
その肩書きを面白く思わない女性――そもそも颯月の婚約者ですらない者達が、こぞって桃華を攻撃し始めたというのが事の発端らしい。
桃華からすれば、いい迷惑だろう。曰く、尊敬していて人としては好感がもてるものの、颯月と結婚する気は微塵もないと言うのだから。
(これで、唯一絶対神の片想いが確定しちゃった……泣くほど困っている桃ちゃんには悪いけれど、私はひっそりと颯月様を応援しよう)
やや遠い目をする綾那だったが、手の下で桃華が身じろぐ気配を感じて意識を引き戻す。机から体を起こした彼女は、綾那を見上げてはにかんだ。
「あの――綾那様は」
「様は、やめて欲しいかな」
「えっと……綾那さんは、普段宿舎の方で生活を?」
「うん、そうだよ」
泣き腫らした桃華の目元は痛々しい。
綾那は思わず、その目元に指を這わせた。「早めに冷やした方がいいね」と呟けば、少女はくすぐったそうに肩を竦める。
「離れ――別館には、よく来られるんですか?」
「別館? ああ、さっきの中庭のある建物の事? 確か、この辺りで働く使用人さんが暮らすところなんだよね」
「そうです。私は離れに住んでいて、依頼が入る度に店舗から服を卸してくるんです――けど、あの、綾那さんが頻繁に遊びに来てくれたら、嬉しいなって。い、一緒にお店に行って、服を選ぶ、とか、外でご飯を食べる、とか……ぁ、あの、私! 王都の、美味しいカフェも知ってて」
恥ずかしそうに、そして自信なさげに呟く桃華を見て、綾那は小さく笑った。これだけ素直で可愛らしければ、それは颯月も首ったけになるだろう。
颯月は強引で不遜で、まるで俺様ヒーローだ。しかし、少女漫画のヒロインみたく強い女の子ではなくて、どちらかと言うと素直で従順な女の子が好みなのかも知れない。
――ちなみに、颯月の好みについては既に本人が公言しているのだが、その間ずっと意識を遊ばせていたため、綾那の記憶には一切残っていないのである。
「確かに楽しそうだけど……外を出歩くのは、まだダメって言われているから」
「えっ、どうして――あっ。ごめんなさい、機密事項ですよね」
しょんぼりと肩を落す桃華の肩をぽんと叩いて、綾那は口元を緩ませた。
「もしかして桃ちゃん、金木犀の香水か何か使ってる?」
「香水? あ、えっと、和巳様から分けて頂いた金木犀のポプリが――」
「へえ、ポプリを入れたネックレスか。それって、いつも持ち歩いているの?」
「はい、花の色……と、匂いが好きで」
桃華は、黄色いワンピースの下に隠していたらしいチェーンに指をかけると、その胸元からネックレスを引き出した。
シルバーで作られた丸い籠のようなチャームがついていて、籠の中には黄色い金木犀のポプリが閉じ込められている。恐らく、ポプリの匂いが薄まる度に、中身を交換できるつくりなのだろう。
「魔法みたいなものだと思って欲しいんだけどね? そのポプリがある限り、どこに桃ちゃんが居るかだいたい分かるの」
「え? このポプリがあれば……ですか?」
「そう。半径十キロ圏内は追えるから――たぶん、桃ちゃんが街中を歩いていても、ある程度は場所が分かっちゃうかも?」
「そ、そんなに遠くまで? どうして……って、ああ、機密事項が」
「うん、詳しくは言えないんだけど、でも、だからね? 桃ちゃんが宿舎の近くを通りかかってくれたら、顔を見に行けるかなって」
綾那のもつ二つ目のギフト、「追跡者」。これは、本人が目標に決めた対象の匂いを、半径十キロメートルまで追跡できるという力だ。
ただ一度に追える匂いは一つだけ。常人と比べれば嗅覚が発達しているものの、日常生活でほとんど使い道のない力――「表」では、ハズレギフトの一つとして数えられている。
発動者が「いい匂い、好きな匂いだな、ついて行きたいな」などと思った対象を無意識の内にターゲット設定して、知らぬ間に追跡してしまう事も多い。
追跡は発動者の意思でいつでも解除できるし、当然、半径十キロメートル圏外へ対象が出てしまうと、追跡できなくなってしまう。
先ほど桃華を抱き締めた際、綾那は無意識の内に「いい匂い、ついて行きたい」と思ってしまった。
つまり、綾那の中では既に桃華のターゲット設定が済んでいるのだ。他によほど強い香りを嗅ぐか、もっと綾那好みの香りに出会わない限り、別の匂いがターゲットになる事はない。
「ただ、まあ――私一人じゃ出歩けないから、桃ちゃんに気付いたとしても探しに行けるかどうか、怪しいんだけど。でも、私もまた会いたいな」
「あ、綾那さん……!」
綾那が笑いかければ、桃華は表情をぱあと明るくして頷いた。彼女は本当に素直で可愛らしい少女だ。綾那に妹は居ないが、もし居たとしたらこんな感じなのだろうか。
(いや、たぶん実際、こんなに素直で可愛いJKの妹なんて居る訳がないよね……天使だもん。キューさん、これが『天使』なんですよ、お分かりですか……?)
今ここには居ない恩人――人ではなないが――に対して、綾那は脳内で失礼な事を語りかけた。そうして桃華と顔を見合わせて微笑み合っていると、食堂の外がにわかに騒がしくなる。
大きな足音を立てながら誰かが駆けて来たかと思えば、バン! と勢いよく扉が開かれた。一体何者か知らないが、尋常ではない様子だ。綾那は反射的に桃華の前に立つと、扉に目を向けて――そして、首を傾げた。
「……幸成様?」
「え、幸成?」
ゼーゼーと肩で息をする幸成。その姿に名前を呼びかければ、綾那の後ろから桃華がヒョイと顔を覗かせた。
幸成は今日も漆黒の騎士服を身に纏っていて、職務中だという事が分かる。
しかし何が起きて、一体どこから走って来たというのか。軽薄そうな雰囲気の彼は鳴りを潜めて、余裕のない切羽詰まった表情でこちらに向かって歩いてくる。
(あれ? もしかして、怒ってる?)
距離が近付く度に幸成の表情が明瞭になっていくが、目だけでなく口元の笑みすら消えている。それどころかギュッと眉根を寄せて、射貫く様な強い視線が綾那を捉えて離さない。
まあ正直、彼が怒っている原因に心当たりがないかと問われれば、そんな事はない。疑惑が晴れるまでは人との接触を避けるよう言われていたのに、色々とやらかしたのだから。
しかも接点をもった相手は、颯月の大事な婚約者の桃華だ。
気付けば竜禅の姿は消えているし、スパイ疑惑のある綾那が桃華と二人きりで親交を深めているし、綾那自身なかなか酷い状況であると思う。
(――ついに消される可能性について)
綾那は遠い目をする。
しかし、幸成の背後で食堂の扉を閉める竜禅の存在に気付くと、「最悪、竜禅さんが何とかしてくれる――と、嬉しいな」なんて、半ば現実逃避に近い祈りを抱いた。
あっという間に綾那の目の前までやって来た幸成は、「あのさ」と、常より低くドスの利いた声を上げる。
「どうしてこんなふざけた状況になっているのか、説明してくれる? お姉さん」
(しょ、初日に詰め寄られた時より怖い――!)
彼は元々、綾那に対しては口元だけの愛想笑いしか見せない。とはいえ、それでも常に笑顔を絶やさなかった男が、眉根を寄せてゴミでも見るような冷たい瞳で見下ろしてくる。
綾那は体を強張らせながら、蚊の鳴くような小さい声で「な、なんで、でしょう……私も知りたいです」と答えた。
まるで救いを求めるように竜禅へ視線を送ったが、悠々と歩く彼とはまだ距離がある。
「百歩譲って、別館に行ったのは禅が案内したせいだから許すよ。けど、よりによって桃華に手を出すか? 颯の目が届かないなら、何をしても良いと思ったの?」
「いや、えっと、そういう訳では」
「良いよ、俺が目を離していたのが悪いから。禅も和巳もお姉さんのこと疑ってないから、ひとつもアテにならないって分かっていたのに――仕事ばかり優先した俺の手落ちだ。お姉さんもそう思うよな?」
「いやあ……ハハ」
――これは、どうしたものか。
乾いた笑いを漏らす綾那と、それを苛ついた様子で見下ろす幸成。食堂内の空気は最低最悪だ。
しかし、そんな2人の間に折れそうなほど華奢な少女が割り込んでくる。綾那は、まるで自身を庇うように立つ桃華の背中を見て、目を瞬かせた。
「なに桃華? 悪いけど、今お前の相手してる暇ない――」
「ど、どうして綾那さんにきつく当たるのよ!」
「ハ?」
「機密事項だって言うから、詳しい事は分からないけど……でも、綾那さんは私の事を助けてくれたのに! いい人なのに、どうして責めるの!?」
「おい桃華、お前なんか変――アレ、お前、泣いたか……?」
「変じゃない! 泣いた事も今は関係ない! ……幸成は助けてくれなかったくせに!」
桃華はそうまくし立てると、体を反転して綾那に抱き着いた。彼女の言動に、幸成は目を丸めて狼狽えている。
「ちょっ、オイ、桃華!?」
「桃ちゃん、急にどうしちゃったの……?」
「――も、『桃ちゃん』って何!?」
「あっ」
いきなり口論を始めてしまった桃華が心配で、つい愛称で呼びかけてしまう。すると幸成は、信じられないと言いたげな驚愕の表情で綾那を凝視した。
颯月の事を『さん』付けで呼んだだけで怒り狂った、幸成だ。恐らく、その婚約者の桃華を愛称で呼ぶ事だって看過できるはずがない。
(私、終了のお知らせ――)
また自分で自分にトドメを刺してしまったではないか。どうしてこう迂闊なのだ。
――なんて後悔しても、済んでしまったものは仕方がない。愛する四重奏のメンバーよ、私は先に逝く。
綾那はそっと両目を閉じて、食堂の天井を仰いだ。
「嘘だろ。颯だけじゃなく、桃華まで誑し込んだのかよ……一体どうやって? やっぱ洗脳魔法の一種だろ――」
「え、えっと」
幸成の震え声に目を開けば、彼は随分と青い顔をして俯いている。
洗脳魔法でもなくでもなく、桃華の場合はただ単に同性の友人が居ない事が原因だ。同性の友人に対する免疫がゼロだから、綾那が少し優しくしただけで簡単に転がり落ちて来た――ただそれだけの事である。
ただ、ひとまず幸成から放たれる鋭い殺気のようなものは消えたので、命の危機はなくなったのかも知れない。
(それはそれとして、この先どう収拾をつければ良いのか分からないけれど)
そうして綾那が考え込んでいると、ようやく傍までやって来た竜禅が口を開く。
「綾那殿、すまない。よい機会と思って訓練中の幸成を呼びに行ったものの、確実に呼び出すために色々と端折ったせいで、予想以上に過熱してしまった」
よい機会とは、一体なんなんだ。特に今日思ったが、どうやら竜禅は人と違う感性を持っているらしい。
紳士的な仕草は身についているのに、そのくせ己の言動で周りがどのように感じて、どのように動くかという人の機微には疎い。ややキューに通じる何かを感じるほどだ。
まあ、彼なりに良かれと思って行動した結果だと言うならば、綾那は黙って受け入れるしかないのだが――。
「おい禅、ちゃんと説明しろよ。桃華に何があったんだ?」
「別館の中庭を歩いていたら、桃華嬢が複数の少女に囲まれているところへ出くわした」
「何? もしかして、また絨毯屋の娘かよ」
「さあ……正直、あの年頃の少女は見分けがつかん。特にこの辺りの女性は、揃いも揃って黒か紫だしな」
「マジ? オッサンじゃん……」
「当然だ、私がいくつだと思っている? 気になるなら、綾那殿に映像を見せてもらえ。遠目だが恐らく映っているだろう」
竜禅の言葉に、綾那はようやく彼が「撮った方が良い」と言った意味を理解する。
ちらりと幸成に一瞥されて、綾那は何度も頷いた。
データを消そうとしていたところを竜禅に止められたので、ガゼボを撮った映像ならまだスマホに残っている。ただ距離があったため、少女らの顔が明瞭に映っているかどうかは怪しい。
「私は手助けができないから、見守るだけに留めていたのだが……綾那殿が我慢ならんと言い出してな」
「いや、あの、我慢ならんなんて言っていませんけれど」
「似たようなものだった。ただ、綾那殿の姿を見せる訳にはいかないから、彼女に「水鏡」で侍女長の姿を重ねて、声だけで少女らを追い払ってもらった。そうして綾那殿に関する口止めを含め、落ち着いて話そうと食堂まで来たものの――桃華嬢が、綾那殿をいたく気に入ってしまって」
「だって、綾那さんは私を助けてくれたんですもの。颯月様関連で私にお願い事なんてないって言うし、苛めもしないし、優しく抱きしめてくれるし――ホラ、どこかの誰かさんは仕事ばかりで、気付いてもくれないじゃない?」
「…………悪かったよ」
桃華がじっとりと目を眇めれば、幸成は気まずそうに目を反らした。どうやら、二人が幼馴染で親しいと言うのは本当らしい。
互いに遠慮のない話し方をしていて、とても微笑ましい――これが、綾那の進退に関わるような話題でなければの話だが。
「とにかく、私の事が原因で綾那さんを悪く言っているのなら、それはお門違いよ。まさか綾那さん、いつも幸成からこんな扱いを? 信じられない……」
桃華にギュッと強くしがみつかれて、苦笑する。彼女が味方になってくれるのは嬉しいが、どこをどう切り取っても悪いのは綾那なのだから。
「桃ちゃん、違うんだよ。幸成様のアレはお仕事だからね」
「仕事って……?」
「機密事項だ」
素っ気ない一言を返すだけの幸成に、桃華が眉を寄せた。ムッとした表情の彼女に、またしても口論が始まりそうな気配を感じる。
機密事項だ、なんだと言われているが、綾那はこれ以上争いの火種になりたくない。
「ごめんね。実は通行証も無いのに、こっそり街へ入っちゃったんだ」
「えっ……」
「ちょっと、お姉さん!?」
「異大陸から来て、この国の事が何も分からなくて……だから、幸成様達が保護してくださっているんだよ。あまり幸成様の事を悪く言わないでね」
「なんで勝手に話すかな……! お姉さんの手引きしたのが、誰だと思――」
「幸成」
「ぐっ……だああ、もう!」
幸成は苛立った様子で、ガリガリと頭を掻いた。
恐らく、密入国の手助けをした颯月の立場を案じての事だろうが――綾那は彼の名を出していない。危うく幸成が口を滑らせかけたところを、竜禅が引き留めて事なきを得る。
桃華はしばし驚いた表情で綾那を見上げていたが、やがて首を横に振った。
「桃は、綾那さんを信じますから。他に手がなくて、仕方なくですよね? 別に悪い人だとか、犯罪者だとか、そんなはずがないですもんね? きっとすぐ、保護観察も終わりますよね」
「う、うーん、どうかな」
何せ今回の事で、元々低かった幸成からの信頼度が氷点下まで落ち込んだはずだ。
彼自身、まだ仕事で忙しくて綾那に構っている暇はないのだろうし、とてもすぐに保護観察が終わるとは考えられない。
思わず口元を引きつらせていると、不意に幸成が「分かったよ、お姉さん」と低く呟いた。
「俺が間違ってた」
「え?」
「仕事がどうとか、時間がどうとか、そんな事を言っている場合じゃねえんだな。このままお姉さん放っておくと、何しでかすか分かんないもんな」
「ゆ、幸成様?」
「うん、明日からずっと俺がお姉さんのこと見ててあげるから、安心してよ? ――早く保護観察、終わると良いな」
引きつった口元に、いつまでも険のとれない金色の瞳。
怒りを上から無理矢理に抑え込んだような歪な笑顔を浮かべる幸成に、綾那の顔は青白く染まった。
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