第1章 謎のイカ

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第1章 謎のイカ

 いきなり現れた謎の物体に、目を丸めて硬直する綾那とアリス。そして、ぽかんと呆けた表情をしつつもカメラのレンズを触手へ向けて、ちゃっかり撮影を続行している陽香。  誰一人として口を開かず、身動きもせず、ただ見た事もない謎の触手を凝視した。完全に未知との遭遇である。  触手の表面はつるりとしていて、吸盤も凹凸(おうとつ)もない。人の胴より太いソレは、先端へ向かうにつれて先細っている。どこかに目がついている訳でもないのに、触手はまるで獲物を品定めするように右へ、左へフラフラと揺れて――やがて、アリスの前でぴたりと動きを止めた。  そして次の瞬間、突然アリスを目掛けて動き出したのである。 「――はあっ!? なんで私!?」  逃げ出す暇も、抵抗する暇もなかった。触手はあっという間にアリスの胴体に巻き付くと、彼女を穴の中へ引きずり込もうとする。 「アリス!」  いとも簡単にふわりと両足を浮かせたアリスに、綾那は慌てて彼女の腕を掴んだ。  頭の中で「レベル1」と唱えると、ギフト「怪力(ストレングス)」を発動して――「怪力」には、大きく分けて五段階レベルがあるのだ――アリスを奪われてなるものかと、その場で足を踏ん張った。  触手はアリスに巻き付いたまま、しかし綾那の妨害によって彼女を穴に引きずり込む事ができずに、ギシリと動きを止める。  胴体を謎の触手に、片腕を綾那に拘束されたまま、アリスはそれぞれ真逆の方向へ引っ張られた。為す術もなくただ「ふぐぅ」と苦しげな声を漏らして、綱引きの綱と化している。 「お、オイ! ――オイオイオイ! なんだコレ、もしかしてイカの魔獣なのか!? マジスゲー、こんなの初めて見たんだけど!?」  緊迫した状況にどこまでも不釣り合いな、興奮を抑えきれないといった様子の歓声が上がった。陽香は相変わらずカメラを回したまま、触手、そして綾那とアリスをフレームに収める事に夢中になっている。  アリスは体のどこかからミチミチと嫌な音を立てながら、口の端を引きつらせて必死に声を絞り出した。 「ちょっ――ちょっと、陽香! アンタ、いつまで、そんな事やってんのよ! さては、現実逃避してるわね!?」 「なあアリス、アーニャ! もう少しで良いから、体の角度変えられないか!? 夜景モードで撮ってんだけど、やっぱ照明がないとキツイわ! 表情が不明瞭なのよな~!」 「バカ……ッ! 超絶ド級のバカ!! ――てか、ホントやめて! それ映りどうなってるの? 私の顔、ちゃんと可愛く撮れてるんでしょうね!?」 「あー? ……まあ、いつも通りに撮れてんじゃねえ?」 「ハッ!? 失礼ね、いつも通りの訳ない! 私、お風呂に入る直前だったのよ!? 最後にメイク直したの何時間前だと思ってるの? いつもの超絶カワイイ私と一緒にするなんて、ホント陽香って信っじられない!!」 「なんだよ、人を試すような事を聞くんじゃあないよ。()()()()()()()だぞ、アリス?」 「そういうところがなんだって言いたいのよ!?」 「ま、待ってアリス、あんまり暴れないで!」  ただ現実逃避しているだけとも言えるが、この状況下でどちらも通常運行すぎる。  自分などよりこの二人の方が、よほど肝が据わっているではないか――なんて思いながら、綾那は怪力のレベルを上げるべきか否か悩んでいた。  レベル1で触手と膠着(こうちゃく)状態となると、このまま綱引きを続けたところで、いつまで経ってもアリスを取り返せない。しかし、だからと言ってむやみにレベルを上げると、綾那と触手からそれぞれ逆方向へ引っ張られている綱――もとい、アリスの体が無事では済まない気がするのだ。 (困った事になっちゃった――)  綾那は眉尻を下げた。どうにか手を借りたくて陽香に視線を送るが、彼女はスマートフォンを手放す気配がない。それどころか、ますます『実況』に熱が入っている。 「――さあ、突如現れた謎の魔獣に捕らわれた、アリスの運命や如何(いか)に! そして、綾那は……!? これは確実に、「イカだけに」ってテロップ不可避だな――なあアーニャ! ここで一旦動画分けるべきかな!? それとも、短い広告を挟んで一本の動画でまとめるべきかな、どう思うよ!?」 「と――途中で広告を挟む動画は最近、評判が悪いから……!」  いつの間にか綾那まで現実逃避して、イカと綱引きしつつ――スタチューバーとして――真面目に返答する。陽香はその答えに満足したらしく、にんまりと邪気のない笑みを浮かべた。 「あー、だよなあ。やっぱ途中で広告入ると「もー!」ってなるよな、スタチューはテレビじゃあないんだから。――ところで今、どんな感じ? いけそうか?」 「助けて欲しい、かも、知れない……!」 「え、マジ? いやあ……でも今はカメラ回す人、他に居ないからさ……ナギが居れば頼めたんだけど……いやあ、そうか――困ったな」 「いやあ、じゃ、なくてね……!」  そうして陽香が撮影の中断を渋っている間に、状況はますます悪化した。膠着状態に焦れたらしい触手が更に力を増して、アリスの体を強く引いたのだ。  綾那はつい咄嗟に、怪力のレベルを2まで引き上げた。すると、触手が強く胴に食い込んでしまったらしいアリスが、言葉にならない息を漏らした。 「アーニャ、ダメだ! 一旦アリスは放した方がいい、このままじゃ千切れるぞ! ()()()()、さすがに動画にできねえって!」 「――動画にする必要はあるのかな!?」  同じく声を張り上げた綾那に、陽香は即答する。 「あるだろ、あたしらスタチューバーだぞ!! とにかく、アリスは一回そのイカ君に預けろ! どうせすぐにあたしらも後を追うんだから、まあ――なんかこう、大丈夫だろ!?」 「ま、待って、嫌よ! 勝手に預けようとしないで! そもそも、何を根拠に大丈夫って!?」 「仕方ねえだろ、師匠に連絡しない事には飛べないんだから! どこに飛ばされるか分かんないんだぞ!」 「じゃあ、アンタが今すぐその撮影をやめて、師匠に連絡をするっていうのはどうかしらね!? 名案じゃない!? ふぐうぅう……っ!」  刻一刻と限界が近付くアリスを見て、綾那は向かって叫んだ。 「陽香ごめん、一回スマホ置いて、まずはアリスを助けよう! それが無理なら、私はこのままアリスと一緒に飛ぶから、代わりに師匠へ連絡して!」 「げー、マジかよ……はあ、せめてアリスが引きずり込まれるシーンだけは、押さえたかったんだけどな」  陽香は「仕方ない」と呟いて、ようやくスマートフォンをズボンのポケットにしまった。そのまま右手を己の腰元へ伸ばすと、裾から服の中へ突っ込んだ。  華奢で小柄な彼女には、明らかにオーバーサイズのダボつくトップス。その下にある防弾チョッキのホルスターから――対魔獣用に国から携帯を許可されている――ハンドガンを抜き取った。  その銃口には、発砲音を抑えるためのサプレッサーが取り付けられている。陽香は両手でグリップを握り、大穴の端ギリギリに立つと、触手へ銃口を向けて狙いを定めた。 「じゃあアリス、祈れ!」 「い、祈るって、何に!」 「イカ君がお前を手放すか、手放さないか――運試しだ!」 「運……!?」 「アーニャ、今からこのイカ君を撃つけど……最悪の場合だ! もし執念深いヤツだったら、余計に力が強まるかも知んないだろ! その時は、アリスが千切れる前にリリースするんだぞ!?」  綾那はぐっと言葉を詰まらせる。しかし今は他に方法もないため、大きく頷いた。 「分かった、お願い!」 「行くぞ!」  パスンパスン! と、まるでサバイバルゲームで使用するモデルガンのように、軽い銃声が鳴り響く。しかし、その音に反して威力は本物だ。  綾那の手からアリスを奪い去ろうと、穴から真っ直ぐに伸びていた触手。動きが少ない上、このような至近距離では撃ち漏らす事もない。  銃口から撃ち放たれた二発の弾は、見事触手に命中した。白い肉片(にくへん)が宙を舞い、銃創からは透明な体液が噴き出す。 「ッピャアァーーーー!!」  穴の底に潜む()()が出したものなのか、辺りに甲高い悲鳴が反響する。いきなり痛覚に襲われて驚いたのか、触手は力と動きに激しさを増した。 (ああ、ダメ、これは()()()()()だ……!)  綾那は、掴むアリス越しに感じた触手の動きに、慌てて彼女の腕を放した。これ以上続けたら、本当に千切れてしまうと思ったのだ。  アリスに巻きついたまま、まるで鞭のようにしなって暴れる触手。綾那が急に腕を放した反動なのか、それとも銃創の痛みに耐えられなくなったのか――よりによって大穴の真上で、その拘束が解かれてしまう。  宙に投げ出されたアリスは、涙がいっぱいに溜まった瞳で綾那の姿を捉えると、血色の悪い唇を震わせた。 「やだ、一人に、しないで……っ!」  ――お願いだから、一緒に落ちて。  そう続くはずの言葉は、暴れ狂う触手が陽香の足元の地面を抉り取った轟音にかき消された。 「ぅおい!? マジかよ!」 「アリス! 陽香!?」  大穴に吸い込まれて、完全に姿を消してしまったアリス。更に、己の足元を抉られた陽香まで両足を浮かせて、体を穴へ傾けた。慌てて伸ばした綾那の手は、虚しく空を切る。陽香は焦った様子で口を開いた。 「アーニャ! 師匠に連絡! ()()()に来るのはそれからだ、忘れずに頼んだぞ!?」  アリスに続き穴の中へ消えた陽香に、綾那は両膝をついて項垂れる。 (完全に、選択を誤った気がする――)  例え怪我をさせてでも、アリスの腕を放すべきではなかった。いや、そもそもあの状態で、イカを攻撃したこと自体が誤りであったのかも知れない。  気付けば触手も穴の中へ逃げ込んだのか、この場に取り残されたのは大穴と綾那だけだ。  綾那はグッと唇を噛むと立ち上がって、鞄の中からスマートフォンを取り出した。通話履歴の中から師の名前を探し出すと、迷わずタップしたが――四重奏の保護者は、なかなかに忙しい人である。  数回鳴った呼び出し音の後、かちりと通話が繋がったかと思えば、通話口から聞こえてきたのは「ただいま電話に出る事ができません。ピーという発信音の後に――」という、決まり文句だった。  綾那は、たった一分足らずでこの非現実的な状況の説明をしなければならないのか――と頭を抱えた。しかし、繋がらないものは仕方がない。動揺する頭を必死に回転させ、受話口に向かって口を開く。  まず、「転移」のギフトもちと(おぼ)しき人間に、渚が家ごと攫われた事。残された転移陣に全員で飛び込む事。明日の授賞式は欠席する事。独断で勝手な行動をする事に対する謝罪と、そして最後に、今まで世話になった事に対する礼を詰め込む。  ひとまず、最低限伝えたい事は言い残せただろうか。綾那は通話を切ると、スマートフォンを鞄の中にしまい込んだ。それから大穴に目を向けて――ヒュッと息を呑む。 「あぁあ……あのイカモドキのせい、なのかな」  大穴の外周ギリギリ、その淵に立っていた陽香。そこを地面ごと抉り取られたのだ。  綺麗な正円だったはずの大穴は、綾那がほんの少し目を離した隙に、潰れた楕円に形を変えていた。今もぐにゃぐにゃと形を変化しているらしく、その動きはまるで、大穴が咀嚼(そしゃく)しているように見える。かなり不気味だ。  この大穴そのものが転移陣なのだ。どうもそれを触手に力ずくで崩されたせいで、壊れてしまったらしい。 (絶対に行き先の座標が変わってる。今から追いかけても、皆と合流できないかも――)  どくどくと脈打つ心臓に、綾那は目を閉じる。  瞼の裏に映るのは、アリスが最後に見せた絶望的な表情。そして珍しく焦った陽香の表情と――もうかれこれ数時間は見ていない、渚の眠たそうなジト目だ。  皆と転移先が異なるとしても、この場に一人残ったって仕方がない。仕方がないのだ。  綾那は目を開くと、意を決して大穴に飛び込んだ。 (――ああでも本当! カメラもないのに紐なしバンジーをさせられるなんて、なんだか凄く勿体ない気がする!)  穴に吸い込まれる瞬間にそんな事を考えてしまう綾那も、結局は酷い動画バカなのだろう。体を襲う浮遊感、そして完全に暗転した視界に、そのまま意識を手放したのであった。
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