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第1章 天使との邂逅
ゴボゴボと、やけに篭った水音が鼓膜を揺らして、綾那は意識を取り戻す。体中に何かがびっしりと纏わりついているようで、ひどく手足が重たく感じた。
(あれ、私、気絶して――)
目を開いたつもりなのに、変わらず暗転したままの視界に首を傾げる。そして「ここはどこ」とありきたりなセリフを呟いて――いや、呟いたつもりだったのだが、彼女の口から出たのは言葉ではない。ゴボリと空気の漏れる音と、口の中に広がる塩辛さ。鼻孔に走る激痛。
(水の中!?)
綾那は、慌てて手で口元を押さえた。それが大した時間稼ぎにならないと知りながらも、無駄に酸素を失いたくなかったのだ。
とにかく、急ぎ水面へ出なければ溺死する。
それは理解できるのだが、どこを見ても真っ暗闇に覆われていて、上が分からない。冷静に考えれば水中は浮力が働くのだから、力を抜いた状態で体の進む方向が上だろう。とは言え、こうも深い闇に包まれていては、己の体がどう動いているのか全く感覚が掴めない。
例えばここが海の中だとして、月明かりが一切届かない深度となると――少なくとも二百メートルは潜った場所だ。その距離を水面まで息継ぎなしで泳ぐなど、綾那には到底できない。
(まさか『奈落の底』って、こういう事!? 確かに海の中へ強制転移させられたら、死ぬしかない! それとも、あのイカ君に転移陣を壊されたから? いや、あれが本当にイカの魔獣だとしたら、転移先は海と繋がっていて当然って事も――!)
まるで現実逃避するように、取り留めのない思考が次から次へと浮かんでは消える。
せめて綾那に、水中で活きるギフトがあれば話は違っただろう。仮に今この場で全力の「怪力」を発動したって、なんの意味もない。拳圧だけでモーセのように海を割れるはずもないのだから。そもそもモーセは、拳で海を割っていない。
四重奏は全員、海の中に送られたのだろうか。それとも、転移陣が崩れた後に飛び込んだ綾那だけが?
こんな事なら、電話なんて後回しでアリスや陽香と一緒に飛ぶべきだった。アリスが最後口にした「一人にしないで」というセリフが、今も綾那の耳に残っている。
ぐっと目頭が熱くなったが、水の中に居ては涙が頬を伝う事もない。周りを見てもやはり暗闇が広がるだけで、我が家も、メンバーの姿も、何も見付けられなかった。
(アリスに、可哀相な事しちゃったな……たった一人きり、こんなところで死ぬんだ)
そう思った瞬間、綾那の体が見えない何かにグンと吸い寄せられた。
「ハ……ッごほっ、今度は何――えっ、声が……息も?」
視界は相変わらず暗闇に閉ざされている。しかし、唐突に浮力を失った体には、ずっしりと重力がかかっているようだ。呼吸もできるし、声だって出せる。
たっぷりと水を吸った髪と服が、肌に張り付く気持ちの悪い感覚。荒い呼吸を繰り返せば、喉と鼻の奥がかなり痛んだ。
綾那は訳も分からぬまま、少しでも状況を把握するために手を伸ばした。すると、すぐさまガラスのような、ツルツルと滑らかな感触の壁に突き当たる。それに手を這わせると、壁は緩やかなカーブを描いていて――どうも、綾那の周りを卵の殻のように包み込んでいるらしい。
「なん、なの? 本当に――」
状況が全く理解できずに、綾那はしばし呆然としていた。しかし、ややあってからハッとすると、肩に引っかかる鞄に手をかけた。
水でビショビショになっているが、スマートフォンは防水仕様のはずだ――いや、防水仕様といっても、開発者から「さすがに深海に沈めるなんて、想定していない」とツッコまれそうだが。電源が入るかどうか、試してみる価値はあるだろう。
暗闇の中、手の感覚だけを頼りに鞄の中を漁る。中からそれらしい板状のものを見つけ出すと、手探りで電源ボタンを押した。
眩しいくらいに光り輝く、スマートフォンのホーム画面。通常時であれば現在の時刻が表示されるはずなのだが、00:00という表示が点滅しているだけだ。
画面の上部を確かめると――当然といえばそれまでだが――圏外になっている。海中には基地もアンテナも建っていないだろうから、もちろんWi-Fiも飛んでいない。
続いて画面を操作して、ライトを付けると周りを照らした。ガラスでできた卵型の壁の向こう側――真っ暗闇をじっと観察しながら、綾那はうーんと唸る。
「このガラスごと、どんどん下に引っ張られてる……?」
ゴボボと音を立てながら、泡がガラスを撫でるように立ち昇って行くのが見えた。発生する泡の動きを見るに、なかなかのスピードで下降しているようだ。
綾那は思わず、ひくりと口の端を引きつらせた。
昔テレビで、深度四百メートルに達すると、金属バットが無残に潰れてしまうほどの圧がかかる――と見た覚えがある。謎のガラスのおかげで溺死は免れたものの、次は圧死の恐怖に苛まれるなんて。
なるほど、これは確かに奈落の底――もとい、地獄である。
「でも意外と、なんともない……ような?」
高低差のある山道を車で走行しただけでも、気圧の変化で耳が詰まる。その比ではない速さで真っ直ぐに下へ引き込まれているにも関わらず、現在、綾那の体に違和感はない。
相変わらず卵型のガラス膜は、音と泡を立てながら真下へ潜り続けている。綾那はしばらくの間ぼんやりとガラスの壁、そして壁を伝う泡を眺めていた。
正直、アリスから「自宅が消えた」という電話を受けてからというもの、今日は非現実的なトラブル続きだった。家がなくなり、イカモドキに襲われ、メンバー全員と離れ離れになり、たった一人で超深海に投げ出された――と思えば謎の膜に包まれて、更なる深みへ誘われている。
綾那の精神は、とっくに限界を迎えていた。スマートフォンのライトを点けたまま、おもむろにムービーアプリを起動する。そのままインカメラに切り替えて掲げると、動画の撮影を始めた。
恐らく四重奏には、現実逃避する際にとりあえず動画を撮影する癖でもあるのだろう。
「――はい、皆さんこんにちは、綾那です」
画面に映っているのは、頭から足先までびしょ濡れで、いつもより引きつった笑みを浮かべている綾那の姿だ。背景は卵型のガラス越しに見える、闇一色である。
暗闇でスマートフォンのライトに照らされただけの顔が映ると、ちょっとしたホラー映像だった。
「私は今なんと、深海に居ます! なぜこんな事になったのか、全く分かりません! アリスが言うには――」
こんな闇ばかり撮影しながら状況を解説したところで、所詮は逃避に過ぎない。言葉を重ねるほど虚しくなるのか、画面に映る綾那の目からは段々と生気が失われていった。
「せめて陽香が居れば、彼女のギフトで深海魚ウォッチング――いや、暗視ゴーグルがないと、さすがに? 他の皆はどうなったんでしょうか――私は……私は、これから、どうなるんでしょう」
スマートフォンを握り込んで、瞳を閉じて両膝を抱える。もう画面には何も映っていない。
「皆が一緒なら、こんな訳の分からない状況でも、楽しかったでしょうね――」
綾那の声は随分と震えていて、水っぽかった。
閉じた瞳からぽろぽろと涙が零れる。拭ってもとめどなく溢れる涙の対処を早々に諦めると、ただ膝を抱える腕に力を込めて顔を伏せた。
――どのくらいの間、そうしていただろうか。
綾那はふと、閉じた瞼越しに強い光を感じて顔を上げた。どうやら光源はスマートフォンではなくて、足元。己が引き込まれている先の海底にあるようだった。
(底まで沈んだ――というか、あの光は? 海の底が割れて、下から光が漏れ出しているのかな……海峡? 海溝? 実際に見た事がないから分からないけど、海の底にあんな強い光源があるなんて、初耳)
じっと観察していると、体がぐんぐん光へ向かって吸い寄せられている事に気付く。どうやら綾那を包む卵の行き先は、あの割れ目らしかった。
「死なない、よね?」
あの先が本当の地獄かも知れない。そういえば、海底にも火山があったような。綾那はそんな事を考えながら、ごくりと喉を鳴らした。
卵はどんどん光に近付いていく。綾那は、あまりの眩しさに目を開けているのが辛くなった。ぎゅっと目を閉じて、卵ごと光の中へ飛び込む。
パシャン! ――と水音がして、恐る恐る目を開けた。
「…………うん?」
綾那の頭上には、直視できないほど輝く謎の発光物があった。最初は近すぎてよく分からなかったが、段々距離ができると、それが巨大な球体である事に気付く。この光こそ、割れ目から海底に漏れていたものの正体だろうか。
では、先ほど通り抜けた割れ目はどこに――と見上げたが、頭上には墨で塗りつぶしたような漆黒が一面に続いているだけで、割れ目も何もない。星はないが、まるで夜空のようにも見えた。
ふと足元を見やれば、どうやら眼下には森が広がっているらしい。
「うーん……うん? 森――?」
綾那は「いやいや」と乾いた笑いを漏らした。そして、「海の中に森が広がっているなんて、あり得ないでしょう」とセルフ突っ込みを入れる。心を落ち着かせるために、一度目を閉じて深呼吸すると改めて眼下を見下ろした。
――いや、森だ。まごうことなき森である。
輝く謎の球体に照らされてはいるが、光が下まで行き届かないのか、全体的に薄暗い。さながら真夜中の森といったところだろうか。
森を抜けた先には、まるで街のような光の塊も見える。大小様々な建物からは人工的な光が漏れていて、暗闇の中よく目立った。
いまだ透明な卵の殻に包まれているため、確認はできない。しかし眼下には、肺呼吸ができそうな世界が広がっている。ここは明らかに水の中ではない。
「うーん……?」
そうして悩む間にも、綾那を包む卵はふよふよと森へ降りていく。
とんでもない高さから謎の卵に包まれて落ちている訳だが、そもそも暗闇で景色がよく見えないのと、降下するスピードが海の中と比べて著しく減少しているおかげで、不思議と恐怖感はない。
透明な壁に手を付いて、綾那はじっと夜の帳がおりた世界を見下ろした。もちろん、右手に握ったスマートフォンのレンズを向ける事も忘れない。
『あーあ、つい手を出しちゃったけど、どうしようかな』
どこからともなく響いた声に驚いて、綾那は周囲を見回した。ふと見れば、ガラスの周りを蛍のようなものがくるくると回っている。
その小さな光を目で追っていると、またしても少女のような、声変わり前の少年のような――なんとも中性的な声が辺りに響いた。
『どうして「表」の人間が、あんなところに居たんだろう? 変な場所で同族の気配がしたから、見に行ったものの――普通の人間で、たまたま核をたくさん持っていただけっていうオチ。でも、見ちゃったからには無視できないし? 溺死も圧死も、きっと苦しいもんね』
どうやら声の主は、目の前を飛び回るこの蛍火のようだった。綾那は目を瞬かせて、無言のまま蛍を観察する。
『はぁあ、でもだからと言って、どうしよう? 今の僕の力じゃあ、「表」に戻してあげる事もできないのに……なんか今日、いっぱい落ちてくるんだよなあ。本当に面倒くさい――』
光は綾那が凝視している事など気にも留めずに、ただ独り言を呟いては悩んでいるようだ。綾那は少し考えてから、思い切って声をかけてみた。
「あのう、すみません……あなたは、なんなんでしょう?」
『――ん!?』
綾那の問いかけに、くるくる飛び回る光がピュンと跳ねた。光は綾那の顔の前まで近寄ると、じっと見定めるように動きを止めた。
『え……?』
「あ、あの?」
『ええ!! なんで、嘘でしょう? どうして僕が見えるの? 声が聞こえるの!? ――あっ! 違う、普通の人間じゃあない! 君、もしかしてアレか? ええと、確か……そう、『神子』ってヤツだろ!?』
びゅんびゅんと激しく上下する小さな光を目で追いかけて、綾那は躊躇いがちに頷いた。
『なるほど! 道理で同族の気配が強いはずだ、僕が惹かれたのは核だけじゃあなかったのか……うん、よく分かった。それじゃあ改めて――初めまして「表」の神子くん。僕は美と愛を司る、慈愛の天使だ! 愛のキューピッドともいうね、略してキューでいいよ!』
「き……きゅー、さん?」
やたらと高い熱量の自己紹介に、綾那は目を白黒させる。キューと名乗る自称慈愛の天使は、至極愉快そうな笑い声を上げた。
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