第12章 始まりの森

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第12章 始まりの森

 眩い光が収束したのち、そっと瞼を上げれば、そこは暗い森の中だった。じりじりと肌を焼くような、ヘリオドールの乾燥した空気は一切感じられない。綾那の肌にすっかり馴染んだ温暖な気候に、ほうと安堵の息が漏れる。 「アイドクレースの――東の、森ですかね?」  鬱蒼とした森なんてどこも同じだろうが、それでもどこか懐かしい感じがするのは、綾那が自分の足で何度か訪れた事のある場所だからか。隣に立つ颯月は、「そうらしいな」と軽い調子で答えた。彼の腕からは、いつの間にか天使の姿が消えている。  二人を「転移」するだけして、そそくさと逃げたのだろうか。よほど王都に戻りたくない――と言うか、『四重奏』に会いたくないらしい。  ふと木々の隙間から空を見上げれば、やはり世界のどこに居ても変わらぬ魔法の光球が浮かんでいる。その先には、墨のように黒く塗りつぶされた「表」の超深海。綾那は確かめるようにゆっくりと瞬きをしてから、改めて颯月を見やった。 「戻って来ましたね、私達」  颯月の生まれ故郷アイドクレースに。激怒しているらしいという、ありがたい前情報付きの『四重奏』が待つ王都に。そして、二人が出会ったこの森に。  暗い森の中うっそりと細められた赤い瞳は、より一層妖艶に揺らめいて見える。天使が消え、腕が自由になった事でまた抑えが利かなくなったのだろうか。ぎゅうときつく抱きすくめられると、彼の匂いが鼻孔を満たした。こうする度、いつもと――彼が人間だった頃と変わらぬその匂いに安心して、それと同時に不思議に思うものだ。  お互い継承されたのは記憶だけで、どちらも一度死んでいる。創造神ルシフェリアによって新たに創り出された体を得たものの、それは人ではなく、悪魔として生きるためのもので。  とは言え、愛する颯月と同じ時間を生きるための措置だ――後悔はない。ないのだが、しかしそれは当人の意識だ。王都で帰りを待つ皆は、一体どんな想いを抱いているのか。 (やっぱり、なんと言うか――こう、悪い事したなって気持ちはある……)  後悔はないが、()()()罪悪感がある。微妙に――程度しか悪びれる事ができず大変申し訳ないが、確かにある。  そうして小さく唸る綾那の尖り耳を、颯月の太い指がなぞった。いまだ慣れないその過剰な刺激に肩を跳ねさせて、「もう」と犯人を()めつける。  すると、彼は気分を害するどころかくつくつと喉を鳴らした。 「()()綾が、俺に向かってそんな不満げな顔をするなんてな」 「……こういうところも()と違って、好みから外れましたか?」 「まさか。お前はそういう顔をしていても、俺の事が好きで仕方ないって気持ちが透けて見える。もっと構いたくなるだけだ」  低い声で「そもそも、大して怒っても――嫌がってもいないだろう?」と囁かれて、図星を突かれた綾那は口を噤んだ。憤慨するどころか、むずむずと胸の奥がくすぐったくなって、口をもごつかせる。 「なんか、『お前』ってくすぐったい……」 「綾にしか使わない、お前は俺の最愛だから」  くすぐったさと多幸感に、どうしたものかと考えあぐねる。しかし、また耳に悪戯しようと伸びる手をひしっと掴むと、「早く「変換(コンバート)」をかけてください」と目を眇めた。  確かにルシフェリアの助言通りだ。これはいけない、本当によくない。見せかけの虚像を重ねるだけの「暗示(イミテーション)」だと、目に映らないだけで結局この尖り耳は露出したままだ。  何かの拍子に誰かの手が耳に触れたら、どうなるか――何もないはずの場所に妙な感覚があるのも変だし、謎に過剰な反応をする綾那を、周囲の者は白い目で見るだろう。 「悪魔の綾も可愛いのに、もう前の天使に戻っちまうのか?」 「ええと……天使だった過去はないんですけどね。ひとまず、街の中――騎士団の宿舎に入るまでは、この姿だと困るでしょう? 陽香達はもう、ルシフェリアさんから事の次第を聞かされているみたいですし……私達にどんな事が起きて、どう悪魔化したのかもバレバレです」 「まあな。今後人前では「変換」をかけ続けて、「幸い悪魔化せずに済んだ」と人間のフリをする事もできなくはないが……老いだけは、どうにも」  この「変換」を使って、ダイオウイカや猫など、人外の姿に変化していたヴェゼル。アデュレリア領で老若男女の姿に変化して、人々を洗脳し続けていたヴィレオール。  一見すると万能な変身魔法のようにも思えるが、その実、()()()()()()()()()()()()()()()()()という制約があるらしい。  つまり、魔法の発動者である颯月の記憶にある姿――彼自身が()た幼少期から現在の青年期までなら、自由自在に姿を変えられる。しかし自身が年を重ねた姿には変化できない。何故なら、そんな姿は見た事がないからだ。  綾那についても同様で、彼が見た事のある姿は二十一歳の――人間だった頃の綾那と、悪魔になった今の綾那。そしてルシフェリアが度々披露した幼女姿だろうか。  例えば黒歴史真っただ中の十四歳の姿などは、写真でも見せた事がないので「変換」できないという訳だ。  下手に姿を見せれば最後、何度も「変換」されまくって常にふくよかな姿で過ごす羽目になりそうである。彼には、今後も当時の姿を見せないよう徹底しなければならない。 「いや――そうか。「変換」を上手く活用すれば、綾と性的倒錯(とうさく)した関係も楽しめると言う事か……?」 「……颯月さん、早く帰りましょう」 「またとんでもない楽しみができた、俺は本当に幸せ者だ――」 「颯月さーん」  何度か呼びかけると、颯月はようやく魔法を使う気になったのか、静かな声色で淀みなく詠唱し始めた。人間には詠唱が伝わっておらず、悪魔にしか使用できない闇魔法も多いと聞くが――特に洗脳系のものだ――恐らく彼は、既にルシフェリアから詠唱の文言を学んでいるのだろう。  そして、学んだ詠唱全てを丸暗記済みに決まっている。 「追憶の海より(きた)伊吹(いぶき)よ、二重(ふたえ)の幻影をまことに変えろ――「 変換(コンバート)」」  さすが『闇』魔法と言ったところか。颯月が詠唱を終えると、綾那の体を黒い靄のようなものが覆った。視界が黒く塗り潰されて、彼の姿も見えなくなる。  数秒間その状態が続いたが、やがて靄が晴れると、綾那の目の前には悪魔ではなく悪魔憑きの颯月が立っていた。効果自体は「暗示」の虚像と変わらないが、しかし「変換」で得た実体は――本来闇魔法の効果を受けないはずの――颯月の目すら欺くはずだ。  ちらと上目で見れば、途端に紫色の左目がとろりと和らいだ。 「ああ……おかえり、俺の天使」 「ウ゛、うぅっ……! これ以上好きにさせて、どうするつもりですか……っ!」 「………………聞きたいのか?」 「間が怖いから良いです」  もしや、これから「変換」する度にこんな喜ばれ方をするのだろうか。毎度こんな歓迎を受けていたら、いずれ多幸感でおかしくなりそうだ。  綾那は胸中で「王都には、ギュってしてから帰ろう」という決定を下すと、今度は自らの意思で颯月の腕に囲われに行った。
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