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第1章 奈落の底
綾那は、透明な卵の殻に包まれたまま――まるで、ふわふわと宙を舞うシャボン玉のように――ゆっくりと森へ降りていった。
その周りを、どこか嬉しそうにぐるぐる飛び回る光。自称、慈愛の天使キューは、明るい調子で話しかけてきた。
『ねえねえ、君はどうして海の底に居たの? まさか、何の装備もなしに自力で潜ったなんて言わないよね? だって君、水面から三百メートル以上潜った場所に居たんだよ』
キューの言葉に、綾那は絶句した。
何の訓練も受けていない、綾那が――仮に訓練を受けていたとしても――酸素ボンベなしに水面まで泳ぎきるなど、到底できない深さ。
更に付け加えるならば、全く水圧に慣らしていない体をいきなり深海へ強制転移させられて、どこも潰れなかった事が既に奇跡だ。
いくら人間の体は大半が水分だから潰れにくいと言ったって、九死に一生を得るとは正にこういう事だろうか。
綾那はぶるりと体を震わせて、キューの問いに答えるべく口を開いた。
「キューさん、ギフトについては――」
『ギフト? ああ、分かるよ、うん。「表」のカミサマが分け与える加護の事だよね。確か、一人につき一個までっていう制限があるはずだけど、君は相当愛されたのかな? 少なくとも三つ――でも、水に関する何かを持っているようには見えないね』
「え? 凄い、見ただけで分かるんですか!?」
『当然! なんたって僕は、すごーい天使だから!』
えっへん! と誇らしげに飛び回る蛍火に、綾那は素直に感心した。一目見ただけでギフトの数や種類が分かるなど、まるで「鑑定」ののようだ。
四重奏のメンバー渚がもつギフトの一つに、「鑑定」というものがある。彼女は一目見ただけで、相手の所持しているギフトの数、能力の詳細まではっきり分かるらしい。
恐らく、キューにも綾那のもつギフトの詳細が見えているのだろう。天使というのが何者なのかは謎だが――キューの言葉通り、凄い事に違いはない。
「ええと……「転移」のギフトもちが大勢集まって作った、『奈落の底』行きの転移陣をくぐったんです」
『――ははあ、「転移」か』
今まで明るかったキューの声色が、唐突に一段低くなった。綾那は、何かおかしな事を言ってしまっただろうかと小首を傾げる。
しかし相手はただの光る球、表情も感情も読み取れない。綾那はひとまず気にしない事にして、説明を続けた。
「ただ、陣から出てきた、魔獣らしき触手に壊された状態のものを通ったので――恐らく、転移先の座標がずれて深海に繋がったのかと。そもそも『奈落の底』がどこかも不明なんですけれど」
『君がさっきまで居たところが、僕達がいうところの奈落だよ』
「え?」
キューの言葉に、綾那は目を丸めた。
『深海――正しくは、超深海だね』
「ええ!? 奈落って、地獄じゃないんですか?」
『うーん、人間のイメージする地獄とか奈落とかいうのは、よく分からないけど――僕達の中では、深く真っ暗闇に包まれたあの世界こそが奈落だ。そして今、君が居るこの世界が奈落の底……僕が作った、自慢の箱庭だよ! ああ、遅ればせながら、奈落の底へようこそ!』
どこまでも明るい調子で言ってのけるキューに、綾那は目を瞬かせた。そのまましばし沈黙してから、小首を傾げる。
「えぇと、あの……色々と、分からない事だらけなのですが」
『うん? なになに、まだ森に降りるまで時間あるから、なんでも聞いて?』
「まず、あなたは何者なんですか? 天使というのは、一体どういう存在なんでしょうか?」
『天使は天使だよお。ああ、「表」の世界風に言えば、カミサマになるのかな』
「カミ……その、「表」というのは?」
『君が生まれた世界の事。奈落、いや、海のずっと上。地球の――地表の世界だろう? 言うなればここは、「裏」の世界ともいえるね。地表じゃあなくて、地球の真ん中にずっと近くて深いところ』
「な、なるほど?」
地球というサッカーボールの真ん中に、『奈落の底』というテニスボールが入っている――みたいなものだろうか。綾那はキューの話を聞いて必死に想像したが、イマイチしっくりこなかった。
「つまり、あなたのいう同族というのは――「表」でギフトを配るといわれている、神様の事ですか?」
『そういう事だね。君、鞄の中に核をたくさん持っているでしょう』
「え? ええ……」
綾那の肩にかかる鞄の中には、陽香と共に魔獣狩りに勤しんだ証の核が、七つほど入ったままだ。
本来ならば一旦自宅に保管して、役所が開いた頃に納品しに行く予定だった。しかし自宅が消え失せて、自分まで奈落へ転移してしまったので、荷物を整理する暇なんてなかったのだ。
『核は、ギフトを発現するための素だ。ギフトはカミサマが自分の力を分け与えたもの。だから、核からは同族の気配を感じる』
「ギフトの素……」
『加えて、君はただでさえ持っているギフトが多いでしょう? それで、奈落に落っこちてきた君の気配はすぐに分かったんだよ』
それはつまり、もしも核を持っていなければ、綾那を見つけるのが遅れたという事だろうか。その場合、確実に死んでいた。
綾那は鞄をギュッと手で握って――ややあってから、パッと顔を上げる。
「あの! 私以外にも、ここに来た「表」の人が居ませんでしたか? 三人ほど!」
『え? あぁ~……』
「皆、私と同じ神子です! きっと、キューさんがいうところの同族の気配が強いと思うのですが――!」
『うぅ~ん、それなんだけど……確かに、君より前にも「表」から色々飛んできた――と思う』
キューの言葉はどこか煮え切らないものだったが、それでも綾那は目を輝かせた。
(良かった! 皆は海の中じゃなくて、ここに――『奈落の底』に直接飛ばされたんだ! それなら少なくとも、生きてはいるはず!)
己の目で確かめるまでは安心できないが、それでも溺死したかも知れないという不安は取り除かれた。あとは早々に皆と合流して、元の――「表」の世界へ帰る方法を模索するだけだ。
今までと打って変わって明るい表情を浮かべる綾那に、キューはどこか申し訳なさそうな声色で続けた。
『ただ、その――本当に、たっくさん落ちてきたんだ。だから、なんていうか……君のいう三人がどこへ行ったのか、今の僕には全く分からないんだよね』
「――えっ」
『いや、でも大丈夫、確実に奈落の底には居る。もう海の中には人の気配を感じないから、そこは、うん――まあ、安心して?』
綾那は笑顔のまま凍り付いた。一体、何をもってして「大丈夫」なんて言っているのか。いや、確かに溺死していないのならば、最悪の状態は避けられているのだが――。
(どうしよう。陽香は銃を持っているから、まだ良い。渚も、意識のない状態でこんな所に飛ばされて混乱しているだろうけれど――家ごと飛んだなら、身を守るものはいくらでもあるはず。問題は――)
アリスは、家ごと転移させられては堪らないと、着の身着のままで家から飛び出していた。武器どころか手荷物さえ持っていなかったのだ。
思い出されるのは、彼女がイカモドキの触手に気に入られていた事。
穴に落ちる瞬間はアリスの体と触手が離れていたが、それでもイカモドキと同じ場所へ転移していないとは言いきれない。
そもそも武器云々以前の問題で、アリスには戦闘能力が一切ないのだ。彼女のもつギフトは、そういった事に特化していない。
綾那はぐっと唇を噛んだ。
メンバーの中では、まずアリスと合流するのが最優先だろう。しかし、見知らぬ土地をアテもなく歩き回るのが得策だとは思わない。
キューは、この世界を箱庭と呼んだ。しかし綾那の眼下に広がる世界は、箱庭と呼ぶにはあまりにも広大すぎる。
果たしてどうしたものか――と考え込むが、綾那はキューの発した言葉の中で、引っかかる点を思い出した。
「キューさん、「今の僕には全く分からない」と仰いましたか?」
つまりそれは、何か条件さえ満たせば三人を探し出す方法があるという事ではないのか。祈るような気持ちで問いかけると、キューは一度大きく上下した。
『そう! そうなんだよ。実は今、天使としての力をほとんど失っているんだ』
「では、もしかして力が戻ると皆を探せますか?」
『おちゃのこさいさいだよ! なんてったって僕は、すごーい天使なんだから!』
はっきりとした口調で言い切るキューに、綾那はまた明るい表情を取り戻した。
「その力は、どうすれば元に戻りますか?」
『うーんと、その話をするには、まず君にこの世界の仕組みを説明する必要があるかな。さっきも話した通り、この奈落の底は僕が作り出した世界だ。他の天使――いや、カミサマは皆「表」で過ごしているから、この世界に存在するカミサマは僕一人だけ。ここまではいい?』
「はい」
『奈落の底には、「表」と違ってギフトが存在しない。配り手のカミサマが僕しか居ないんじゃあ、あまりにもしんどいからね。ただその代わりに、魔法があるんだ』
「魔法!? それはもしかして、ファイアーボールとかウインドカッターとか、ゲームのような?」
なんて面白そうな世界だろうか。まるで漫画やゲームの世界のようだ。綾那はつい、好奇心と興奮のままに頬を紅潮させた。
『そう、でも攻撃魔法だけじゃあない。ある程度の事は全部、魔法でどうにでもできる』
「ある程度の事――というと?」
『まずこの世界では、化学が発展してない。例えば――電気? 「表」では科学発電所があるだろうけど、こちらの発電所には雷の魔法が得意な人間が常駐していて、それぞれの地域へ魔法の電気を供給する。それを使えば、「表」でいうところの電化製品も使えちゃうって訳! もちろん化学で作られたものじゃあなくて、魔具っていう全くの別物なんだけどね』
それは、同じ地球だという割に随分とファンタジーな世界である。綾那は感心したように相槌を打って、先を促した。
『でも、魔法って万能じゃあないんだよね。この世界の大気中には、マナと呼ばれる成分が含まれているんだ。魔法を使うためには、マナを体内に取り込む必要があるんだけど……無限じゃあなくてね』
「それは、「表」でいう石油やガスみたいな、エネルギー資源のようなものなんですか? 魔法を使えば使うほど消費されて、いずれはなくなってしまうと?」
『いや、厳密に言うと違う。無限ではないけれど、魔法を使うたびに消費される訳じゃあなくて――その都度、大気中へ還るんだよ。マナを体内に取り込んで魔法を使う、魔法を使えばマナは大気に還る、その繰り返しさ。循環型のエコなエネルギーだね』
この世界のエネルギー源が循環型であるのならば、差し当たって問題はないように思える。綾那が首を傾げると、キューは途端に深刻な声色になった。
『暮らすのが普通の人間ばかりなら、問題ない。魔力量――体内に取り込めるマナの絶対量が決まっているから、いたずらにマナを吸い込むとか溜め込むとか、ないからさ。ただここ最近、普通でない人間が増えすぎていてねえ』
ため息交じりの言葉に、綾那はますます首を傾げた。黙って先を促せば、キューは辟易した様子で続ける。
『天使の僕が居るんだから、居て当然と言えばそれまでなんだけど――この世界には、悪魔も居るんだよ』
「悪魔?」
『そう。まあ、一番偉い悪魔王は行方不明になって久しいから、問題ないんだ。でも最近、その部下二人が好き放題やってくれちゃってさあ』
嘆くキューに――正直、トップの行方が分からなくなっているのに問題ないと言い切るのは、どうなのだ――と思いつつ、綾那はごくりと喉を鳴らした。
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