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第1章 鎧の騎士
暗い森の中、何かが地面を這いずる不気味な音が響く。木々の隙間から見える空――深海は黒一色で、当然星の瞬き一つない。辺りに街灯もなく、森に届くのは頼りない魔法の光源だけだ。
ほんの数時間前、「表」で魔獣狩りをしていた時とシチュエーションは似ている。
ただ違うのは、頼れる囮役が不在で、この森には綾那一人しか居ないという事。強いていうならば、綾那自身が囮――いや、獲物なのだ。
キューは、悪魔を倒すには強力な魔法が必要だと言っていた。だから、魔法を使えない綾那には討伐できないのだと。それは聞いたが、しかし切り落とした体の一部が意思を持って襲い掛かってくるとは、一言も聞いていない。
キューは、なぜ綾那に「足を切ればいい」なんて提案したのだろうか。もしかすると、あちらの依頼は保留したくせに、自分の願いだけはちゃっかり押し通した綾那へ対する、意趣返しのつもりなのか。
(キューさんなら有り得る! まだあの人の事よく分かってないけど、可愛らしいお声に反してなかなかに腹黒いという事は、十分に察したもの!)
綾那は、森の中を全力疾走しながら涙目になった。
(いや、でもそういえば、別れ際に「街へ急いだ方がいい」みたいな事を言っていたような!? もしかすると、この事態を予測した上で忠告してくれていた? いやいや、忠告するなら、ハッキリ言ってくれないと分からなくない? ああ、もう、まさかそんなにご立腹だとは思わなかった、キューさんごめんなさい!!)
大蛇がずるずると地面を這う音が、段々と近づいている気がする。恐らく、疲労から綾那の走る速度が落ちているせいだろう。
しかし逃げずに応戦したところで、相手が悪魔である以上は綾那に勝ち目なんてない。それどころか、攻撃すればするほど分裂して、あの蛇が増殖する未来さえ目に浮かぶ。
悪魔から生まれたモンスターと共に街へ向かうのは少々気が引けるが、今は綺麗事を言っている余裕がない。このまま街まで逃げきって、街に住む魔法使いとやらが蛇を何とかしてくれる事を祈るしかないだろう。
ただひとつ問題があるとすれば、街の明かりはまだ遥か先にあるという事だ。
「でもキューさん、良い事あるかもって、言ってたから……! 諦めるには、まだ早い――!」
折れかけの心を奮い立たせるように前を見据えて、綾那は息を弾ませる。思えば、今日だけで何度、絶対絶命を迎えたのだろうか。もう綾那には、「無理無理のムリ」と叫ぶ気力さえ残されていない。
もつれそうになる足を動かして、とにかく走り続けるしかないのだ――。
――と、その時。いきなり綾那の頭上に暗い影がかかった。
「え」
見上げると、地面を這っていたはずの大蛇がその巨体を器用に跳ね上げて、綾那目掛けて降ってくる姿が見えた。
あの体躯に押し潰されたら、確実に行動不能になるだろう。これはさすがに応戦するしかない。しかし倒せない、切れば増殖の恐れがある現状できる事と言えば――せいぜい、蛇の着地点を逸らすために横っ面を殴るぐらいだろう。
綾那は足を止めて右手を強く握りこむと、覚悟を決めた。
そうして綾那が蛇と向き合い、握り拳を振りかぶった――その瞬間、蛇の体がぱっくりと半分に裂ける。裂けた部分には鋭い牙がこれでもかと並んでいて、人ひとり頭から容易に飲み込める大きさの口に変化した。
その姿は最早蛇ではなくて、SF映画に出てくる地球外生命体である。
(あれっ、これ、ダメなヤツだな――)
死の間際に時間の流れが遅くなるというのは、どうやら真実らしかった。残念ながら走馬灯は流れなかったが、綾那を頭から飲み込もうと開かれた異形の口が迫ってくるのは、酷くスローモーションに感じる。
今更「怪力」のレベルを上げるのは、間に合わない。殴るつもりで足を止めたため、蛇をかわす事すら叶わない。
こうなってはもう、綾那に打つ手は何一つない。その事実だけが、やけにすんなりと理解できた。ただ「走馬灯でもいいから、せめてもう一度皆に会いたかったな」という心からの呟きと共に、綾那は目を閉じる。
しかし綾那を襲ったのは、地球外生命体から与えられる痛みではなく――瞼を閉じていても目を焼かれる程の眩しい閃光と、耳をつんざくような轟音だった。
「な、なに!?」
突然の事に身を縮こまらせ、それから慌てて目を開いた。けれど、瞼越しに受けた閃光があまりにも強烈だったため、視界は白んでチカチカと瞬いている。
視界を奪われるどころか眩暈までして、綾那はふらりと体を傾かせた。
そのまま、危うく後頭部から地面へ倒れ込むところだった彼女の肩を、硬い感触の何かが支える。
「――なんだ、やけにしぶといな」
「う……?」
綾那の耳に届いたのは、くぐもった低い声。間近で聞こえた声の主を探すため、くらくらと揺れる視界の焦点を必死に合わせる。
綾那の肩を支えているのは、紫紺色の全身鎧に身を包んだ人の腕だった。足先から頭まで完全に鎧で覆われていて、素性は分からないが――低い声と体格からして、男だろう。声がくぐもっているのは、顔を覆い隠すフルフェイスヘルムのせいだ。
身長約170センチの綾那よりも頭一つ以上高く、その背丈は二メートル近いだろうか。広い背中には――どういう原理で固定しているのか、謎だが――飾り気のない漆黒の大剣を、抜き身のまま背負っている。
(誰だろう、この人? 鎧……騎士――?)
自分の身に何が起こっているのか分からないまま、綾那は鎧の男をじっと見つめた。恐らく、この辺りが目だろう――という部分を見ながら幾度か目を瞬かせたところで、視線に気付いたらしい鎧の男が頭を傾けて、綾那を見下ろす。
すると男は、なぜびくりと体を硬直させた。しかしそれも一瞬の事で、鎧の中で短い咳払いをしたあと、綾那の肩に添えていた腕を下ろす。
「動けるなら、下がっていてくれるか」
彼の言葉にハッと我に返った綾那は、慌てて辺りを見回した。そういえば自分は、あわや地球外生命体に捕食されるところではなかったか――と。
ひとまず言われた通り男の後ろへ下がれば、ちょうど正面に、何かが横たわっているのが目に入った。
(もしかして、ヴェゼルさんの足?)
真っ白だった体躯は、何故か黒く焼け焦げている。まさか先ほど綾那の視界を潰した閃光の正体は、魔法か何かだったのだろうか。
であれば、鎧の彼によって倒されたという事か――なんて思ったのも束の間、ぐぐ、と身じろいだ黒焦げの物体に、綾那はヒエッと上げかけた悲鳴を飲み込んだ。
(あんな姿になっても、まだ生きてる!)
こんな生き物が蔓延る世界、魔法が使えない綾那が生活するにはハードモード過ぎる。そもそもギフトが通じなければ、綾那なんてただ派手なだけの女に過ぎない。
しかも不幸な事に、ヴェゼルには顔を覚えられてしまった。今後もこうして、綾那を害そうと地球外生命体を送り込んでくる可能性がある。
そうなれば奈落の底に居る間、常に命の危機に晒される事になるではないか。己の身を守る手段もなしに、メンバーを探すなんて甘い事を言っている場合ではない。
思わず頭を抱えていると、鎧の男が背に担ぐ大剣を手に取った。あれだけの大きさでは、かなりの重量があるだろうに――片腕一つで悠々と大剣を構えたその立ち姿は、剣の重みを全く感じさせない。
「――響け雷鳴、紫電の咆哮」
(え……っ、わあ、もしかしてコレ、魔法の詠唱!?)
鎧の男が言葉を紡ぐと同時に、辺りの空気がぴんと張り詰めた。
彼を中心に見えない何かが渦巻き、空気が薄まっていくような感覚。これがキューの言っていた、マナを体内へ取り込み、魔力に変換するという事だろうか。
綾那は初めて見る光景に、己の置かれた状況も忘れて心を躍らせた。
「万物を穿つ閃光、剣を満たせ――「属性付与」」
何もない空間に大きな火花が飛び散ったかと思うと、彼が持つ大剣の刀身目掛けて、紫色の雷が落ちた。
刀身全体を覆い、まるで稲妻が走るようにバチバチと不穏な音を立てる紫色の光。その光は妖しく、そして美しく、綾那はほうと感嘆の息を漏らした。
鎧の男は大剣を下段に構え直すと、いまだ横たわったままのヴェゼルの足目掛けて真っ直ぐに駆け出して、得物を真横に一閃する。
たったそれだけの動きで、ヴェゼルの足は真っ二つに切り裂かれた。しかも、まるで追撃するように紫色の雷に身を焼かれて、跡形もなく爆発四散したのである。
体が塵一つ残らず吹き飛べば、いくら悪魔の一部でも再生できないだろう。
男は汚れを払うように大剣を振るうと、再び背に担いだ。あの大剣も、魔法の力で磁石のように固定されているのだろうか。
両腕を組んだ男は、何事もなかったように綾那を振り返った。
「怪我は?」
「へ? あ……いえ、ありません! あの、ありがとうございます、お陰様で命拾いしました」
綾那は魔法の幻想的な輝きに目を奪われていたが、ハッと我に返ると慌てて頭を下げた。
「いや、いい――それで?」
「それで……?」
彼の言わんとしている事が上手く理解できず、綾那は首を傾げる。
――それで、とは。もしかすると口先だけの謝礼ではなく、金銭を要求されているのだろうか。命を救ってもらったからには、綾那とてそれ相応の礼をしたい。しかし、この国の貨幣がどんなものか未知数の綾那には、少々荷が重い要求であった。
すっかり困ってしまって、尻眉を下げる。何も答えられない綾那に、男は焦れたように続けた。
「こんな夜中に、森の中で女一人。何をしていた?」
その言葉に、綾那はなるほどと納得した。
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