九 腫瘍/Tumor

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九 腫瘍/Tumor

谷川伊澄は、美容院に来ている―― アシスタントさんが私の切られた髪の毛を集めてゆく。爪を切った時のように、私「だった」ものが捨てられてゆく。私のかけら、さっきまで私の一部だった何かが。私というのは、どこからどこまでが私なの? 私が腕を失ったとしても、腕は私にならない。私は、私である方だ。私の脳のどこからともなく、生み出される何ものか、私。 萩原さんは魂を信じていないといった。死後を信じていないと。それではあまりにも悲しい。それであれば、悲しまないように、何事にも愛着は持たない。両親にも、絵本にも、恩師にも、文房具にも、何物にも愛着は持たない。不滅の存在なんてないのだから、いつかは愛着を持ったものと別れなければならない。その悲しみを考えたら、最初から空気のように過ごして、背景のように溶け込んでしまう人生がいい。何も持たないから何も失わない。アタシは誰とも深くならない。 亡き祖父と、すなわち生きている人間と別れることはとても辛かった。父や母、姉なら? 恐らくアタシは泣き崩れてしまうに違いない。二度と立ち上がれずに打ちのめされてしまうだろう。こんなにも愛されて育てられてきたのだから。アタシは破裂してしまう。そんな苦しむくらいなら何も手にいれたくはない。 早く独り暮らしをしたい。そして少しずつ家族とも疎遠になって、そのまま記憶から消え失せて、同級生の記憶からも消え失せて、恩師も、親族も、近所の人たちも、アタシという存在がなかったのだろうかと存在がぼやける時、その時アタシは安心して消えられる。私も悲しみたくないけれど、アタシを知る人にも悲しんでほしくないから。 アタシ……私、私という生き物。ヒトを識別する名がこんな簡単でいいの? 幼年のころに、思い悩んだその時から、私の中で「終わりの時」が始まった。モノの真の名を知ることで、モノを支配するという児童ファンタジーがあったけれど、どこからどこまでを真の名前で名付けることができるの? 名前? 名前は永久に保存されるの? 名前はいつ誕生するの? 名前が永久に保存されるなら、この世界の名前は増え続けるの? 名前って誰の? 私の名前は? 本当に谷川伊澄? 漱石のように「何をするのもいやだ。だが何かしなくてはいられない。なのに、何をしても、こんな事をしてはいられないという気分」というもの。厭わしい焦燥感と、方位を見失った磁石。とろけて枝に引っかかる時計、の針は落ちて世界は止まる。私の目的。 スタイリストさんがお茶を煎れてくれた。 魂って何? 脳科学でも数理生物学でも、最終的には人の心が確率に行きつくとすれば、魂というのはそこで確率として働くモノなのかもしれない。遺伝子みたいに、両親から半分ずつ受け継ぎ……人工授精はどうなるの? もしかしたら遺伝子と違って第三者のものが混じることもあるのかもしれない……物理的にコンピューターを破壊すると、機能しなくなるように魂をソフトウェアに例えても良いのかもしれない……人間が脳や脊髄を傷つけられれば、魂が先に壊れたわけじゃなくても、機能しなくなる部分が出てくるのは自然に思える……もう千年か二千年かわからないけれど、いつかは魂の存在が物理学によって証明される日が来るのかもしれない。でもきっと、その次にはまた否定され、肯定され、結局私たちはいつまで経ってもどこまで行っても何も分からず何かを探し続けるのかもしれない。 私は紅茶を、身体に流し込む。 私私私。私の瞬間が連なってきた、無限の私。捨てられる私、過ぎ去った私、私が捨ててきた、私たちの瞬間。私の瞬間の連続、一秒前の私と、この瞬間の私。知性と物質の境界。私は、決して死んでいないが保証のない生命、私は細胞の集合体。私わたし私とは誰? 試験管の中のアタシのDNA 培養されるアタシの実験細胞 意識を持つ部分が本当の私? ううん、逆、世界の方こそ私のおかげで存在している。私が認識している、この世界は私だけのもの。私が終了すれば、世界は意味をなさなくなり、世界もまた終わる。私が全てを背負っているのだ、私の気分次第で世界は今にでも滅びるし、必死に命乞いするだろう、それなのに、私の思い通りにならない? 愚かな世界、宿主(ホスト)が死ねば、寄生しているウイルスも存在できなくなるというのに、私(ホスト)の機嫌を損ねるとは。 何も思い通りにならない。私。私の世界なのに。 萩原さんの世界の中では「赤の女王」が既に走っているのだ。萩原さんは追い付けず、私は既に取り残されている。誰よりも速い、無敵の「赤の女王」が、誰にも追いつけない、走り続ける「赤の女王」。誰なの、名前のある、あなた? あなた――には世界はどう作られているの? あなたのために世界があるの? 木曜日の朝、萩原真一郎は普段通り目覚める―― 僕は時々、夢なのか現実なのかよくわからない夢を見ることがある。ここはエッフェル塔だ。たぶん。根拠は何もない。なぜか亜弓もいる。不自然だから夢だと思ったが、夢と認識できるからには覚醒しているのだろう、だから、今見ているこれは夢ではないのだと思った。亜弓は中学生の頃の運動着姿で、高所を気にせず、鉄骨の上をジャンプして、走り回っている。まるで曲芸師だ。僕は自分が立っていることさえ精一杯なのに。手のひらにじんわり、冷や汗を感じた。今一度、亜弓が大きく跳んだこの瞬間、ふと、狙いがずれたのか、着地すべきところに足場は無かった。このままでは落下してしまうだろう。僕が助けなくては、僕が手を出さなくては――でも、どうやって? 今まで何度も手を差し出すことはできただろうに、届かない、届かないと諦めることしか知らなかったこの手を、どうして伸ばすことができるだろう。――いや、決心したのだ。今まで何度も通り過ぎてしまったこの手を、今度こそ手を伸ばしたいと。万一、次の機会があったら必ずと。 ――今度は必ず   手を伸ばして見せる 僕は亜弓のために手を伸ばして、掴んだ。つかめるはずがないと思っていた手を掴んだ。 突然の救助に亜弓は驚いたような表情をした。その直後、嘲笑うのではないが、気の毒そうに軽く微笑むと、彼女は ――バーカ、お前には無理だよ。 と言い、一緒に落下した。塔の下はなぜか海になっていて、荒波がうねっていた。まもなく二人とも海面にたたきつけられるだろう。彼女の表情が見えなくなった。 僕は夢を見ていたことに気付いた。 ――どうして、僕に無理だと断言できる? 登校し、ホームルームが終わった後、ふらふらと透が近寄ってきたから、難し気に手を組んで問いかけてみた。 真一郎「数学の単位にかけて、友よ、聞いてくれ」 透「なんだ? ソクラテスの真似事か?   いいぞ、友よ、続けてくれ」 真一郎「小学生の頃読んだ落語でねえ、言葉は忘れたけど、     効率化を笑いの種にする話があってね」 透「うん」 真一郎「なんでも、大勢の人を雇っていたけれど、     どうも人数を減らしてもやっていけそうだからと、人減らしてさ」 透「うん」 真一郎「そのうち、少人数でもまだ余裕あるからって、     家族だけでやっていこう、ってなってさ」 透「うーん、うん」 真一郎「次には、まだまだ余裕があるから、連れ合いと別れちゃおう」 透「ええー?」 真一郎「最後には、自分一人でも回せるから、なんだ、     自分は必要なかったのかって、死んじゃうという」 透「いやいやいや」 真一郎「俺はこの話のどこかにロジックの無理があると思うんだが」 透「ふむ」 透は二秒くらい考えた。 透「従業員の再募集はかけられる。   再婚も……ハードルは高いけど、やり直すことはできる。   しかし、人生はやり直せない。不可逆的だ。   とすると、リスク管理としては、   やり直せないことに手を出すのは効率的とは思えない」 真一郎「……ほぉー」 透「で、数学の単位はどうする?」 真一郎「ください」 透は机をバンバンと軽く叩いた。 透「かけてねぇじゃねぇか!」(苦笑) 真一郎「そんな簡単にスマートな答えが返ってくるとは思わなかった」 透「いや……以前、似たようなツッコミをする機会があってな……   君、エミリー・ディキンソンって知ってる?」 真一郎「詩人?」 透「なんで疑問形なんだよ」 真一郎「透ちゃん、たまにマニアックな人知ってない?     倫理や国語の参考書に出てくる人なら、百歩譲ってわかるけど」 透「ああ、たぶん、予備校の英語の講師が言ってたんかな?   で、その中にな『私は美しさのために死んだ』ってのがあって、   執筆しとる場合かー!って」 真一郎「え? それツッコミどころ?」 透「いやいやいや、死んでるんだぞ?   執筆してる場合じゃないだろ?」 真一郎「ええー」 僕はしばし呆然とした 真一郎「でも、透ちゃんの『神は死んだ』のツッコミどころがわかった気がする」 透「うん、納得はしないけど理解はしたって感じだな。わかるよ。」 定刻になるため、透は自席に戻った。 お昼休み、時々学食を利用することがある。今日がその日だ。カウンターで、カレーの食券とともに50円玉を渡す。 真一郎「大盛りお願いします」 「はいよ」と威勢の良い声が聞こえ、すぐに大盛りのカレーが用意された。 透が相向かいに座る。 透「こういう裏メニューって、どうやって誕生するんだろうな?   最初に言い出したやつか、やり始めたやつがいるわけだろ?」 真一郎「発想と、対応力の勝利だね。     俺はその人たちを天才とほめたたえるよ」 透が周囲を見渡した。 透「この中に、その天才がいるかもしれないってことか……」 急に、僕と、その架空の天才たちの間に空間ができたような気がした。 真一郎「意外と、透ちゃん、自身のことだったりして」 透「いや、俺じゃないよ。俺だったら、まっ先にキミに自慢してるからな」 真一郎「……そっか」 僕は軽く笑うと、残りを黙々と食べ続けた。
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