十 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

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十 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

河原亜弓は自室の整理をしている―― そろそろ古いテキストは処分してしまおう。棚の上のこれは、画材か……絵を描くこともないだろうし、画材も処分してしまおう。その隣の整列された区画はめったに見ない、収納庫の死にスペース……おや、この絵は中学生の時の、懐かしい……大きく柔らかい球体を破って、今まさに鳥が生まれようとする絵。タイトルは『ある鳥の誕生』。この鳥にはヘッセの『デミアン』にちなんで名前を付けようと思った。でも、わかってくれる人がいなかったら嫌だから、あえて名前を付けなかった。 ――この鳥の名はアプラクサス より正確には、この鳥が飛んで行く神の名前が、アプラクサス。 昨日、他界した祖母の夢をみた。祖母の屋敷に私が訪れていて、私が見たことのない、ファンシーな部屋で、彼女は私に微笑みかけた。私は違和感を覚えて「違う」と言った。祖母は笑顔で首を振るので、私は再度「違う」と断言した。祖母が生きているはずはないから、しばらくして私は夢を見ているのだと気付いた。またその時、祖母の幽霊が夢を通じて私に会いに来てくれたという気持ちが、一瞬生じたが、すぐに己の哲学を思い出した。 亜弓「ごめんね。おばあちゃん。    私はね、あの世とか幽霊は信じていないんだ。    だから、これは夢だね」 祖母は悲しい顔をしたような気がするが、ぱっと見るかたなく消えてしまった。私はそのまま目を覚ました。冷たいことを言ったという後悔のような気持ちと、信念を貫いた満足感が半々だった。世の中には宇宙が、無から生まれたことを信じられない人種がいる。最初からあったと考える人達がいるのだ。 ――最初からあるとはどういう事だろう。我々は無から生じたというのに。 だから、無に帰ってもいつかは別の何かが生じるであろうことは予想ができるのに。であれば、魂の有無なんてどうでも良いのに。要は、宇宙は終わった後、またいつか無から新しい宇宙が始まるだろうということだ。人間はどこにも到着しない。あえて言うならすでに到着しているのだ。だからこそ人生は楽しまなくてはいけない、というか、楽しんだ方が得である。人生が夢であっても、夢でなくても、精一杯よく生きるということは後味を悪くするものではあるまい。今、この瞬間が大事なのだ。この、卵の殻を破る一瞬――良いことは現世にしかないのだから、来世とか暢気なことを言っている場合ではない。極楽浄土とは今この一瞬にあるものであって来世を期待するものではないのだ。 たとえどんなに危険な綱渡りだとしても、行き先がその綱しかなければ、渡り終えるか、落ちて死ぬかなのだ。私は綱渡りの棒なんか必要ない。またもし、目の前をとろとろ歩いてるやつがいたら―― 私は誰であろうと、走って飛び越えてやるよ。ツァラトゥストラ。 萩原真一郎は小論文対策の特別講義の最中、大講堂―― 講師「今、僕が板書した瞬間さぁ、    お前らいい子ちゃんはさぁ、そうやってパブロフの犬みたいに、    すぐノートに書き移し始めるよなぁ。    たまには、人の言ってることを理解して、自分で理解した内容を、    自分の言葉で書くようにしなよ?」 この講師の台詞はいつも緊迫感があるので、僕は冷や汗をかきながら受講している。今日のテーマは人が人を罰することについてだった。法学部受験者にありがちなテーマかもしれない。 個人的には、罰を与えるものは褒美を与えるものよりも厳しくなければならないと思う。褒美は取り消しができるが罰は取り消しがきかないからだ。罰を与えるというのは司法で、褒美を与えるというのは企業だろうか。 ――天国や地獄なんて信じないが、もしもあるなら、 ――きっと地獄の方が規律正しい。働く側ならば住み心地のいい世界だろう。天国は褒美を与える場所。地獄は罰を与える場所。嫉妬深い神様よりもよほど僕の苦痛をわかってくれる上司がいるだろう。そうして、何色にも染まらない漆黒の衣を身にまとう。 特別講義が終わった後、原田が話しかけてきた。原田は比較的人格者で、法学部を志望している。僕がちょっと尊敬する人の一人だ。 原田「人間って、司法試験に合格すれば    合法的に人を死なせることができるんだよね」 真一郎「いや、うまく言えないけど駄目じゃないですか? そういうの?」 たぶん、原田は僕を試してこんなことを言うのだと感じた。 原田「駄目っていうのは、条件反射的に教え込まれた道徳だよね?    でも実際、誰かが悪いことをしたということは    子供でもわかると思わない?」 真一郎「常に正しい判断ができるものかな?     いろんな人のいろんな事情があるかもしれないじゃないですか?」 原田「人間なんていつか死ぬんだからさ?    それが後だろうが、少し早まろうと構わないじゃない?    集団に害を及ぼす可能性のある個体がいない方が、    社会にとっては都合いいんじゃないかな?」 真一郎「でもさぁ……     嫌いな人とか、確かにいますよ。     それでも僕はみんな好きだし。     それに、特権というのはどうでしょう?     同じ土俵に降りてこない者が裁いてはいけない。     というのが僕の持論で、     例えるなら、ヒトは獣を殺しても、獣からは裁かれない。     殺されたくないなら殺してはならないという     ルールを守る必要がないほど、     ヒトの方が強いから。     司法試験に合格した人って、その、     ホモ・サピエンスの側でしょう?」 原田「萩原君のは理想論のような気がするけれど……    でもまあ、僕は、世の中が嫌いだけど、    萩原君の考え方みたいなのはいいね。    みんなが萩原君みたいに優しい世界なら法律っていらないのかもね?」 真一郎「ううん? 僕にもわかりません。それはそれでルールが必要かも。     面倒くさい人でごめんなさい」 原田「いや、大丈夫だよ。僕は時々、僕ばかり苦しむなんて不公平だ、    って怒りにおかしくなりそうなこともあって、    みんな死んでしまえばいい。    みたいな乱暴なこと考えることもあるけれど。    ちょっと挑発するようなことを言ってごめんね。    萩原君は過激な考え方に対してどう思うんだろうって、知りたかった」 真一郎「いや、全然。僕は原田君が、誠実な人だと知っているから」 少し興奮して、声が震えていて、自分でもはずしたな、とか格好悪かったなと思ってしまった。刃物で直接斬りあった時代と異なり、引き金を引くと人間が死ぬ時代になって、兵士はヒトを殺しやすくなったという。僕らは自分たちが想像している以上に、人の命を軽く考えているのかもしれない。 午前の授業が終わった。休み時間に飲みものを求めて、透たちと自販機へ向かった。 後ろには透が並んでいるだけだと思い、 「何にしようかな」とのん気にぼやいていたら 「早くしろよー」と知らない声に急かされた。 後ろに並んでいたのは透ではなかった。僕は慌てて普段は選択しないコーヒーのボタンを叩くと、急いで缶を持ってその場を離れた。透は少し離れた階段で待っていた。 真一郎「てっきり透ちゃんが後ろにいるんだと思って、     話しかけたら知らない人でびっくりした」 透「ああ、そういうの俺もあるわ。   この前、葉山君だと思って『よぅ』って手を振ったら、人違いで、   でも恥ずかしいからさぁ。そのまま手を降ろせないじゃん?   だから遠くの人の方に視線を変えて手を振り続けた」 真一郎「わかりすぎる」(笑) 透「話が変わるんだけどさ」 透が妙な議題をあげてきた。 透「人の気持ちって、生物学的にはどうなんだと思う?   例えば人の好み。これって、コロコロ変わった方が良いのか?   それとも一つ、心に決めた好みにこだわるのが自然なのか?   ぶっちゃけると、特定の個体に対する恋愛感情」 真一郎「人以外の生物はコロコロ変わるみたいだよ。     集団遺伝学的な戦略として。     身もふたもないたとえだけど、     異性に貢物をする生物がいるんだけど、     そいつらは脈がないとわかると     諦めて違う個体にアプローチするらしい。     でも、ヒトは見込みがないと知っても、     諦めずに執着しちゃうらしい」 透「子作りのことだけ考えると、ってことか?   でも、肉体的には同性でもカップルが成立することを考えると、   ホモ・サピはそれ以上の何かを考えてるんだろうな」 真一郎「あー、自信ないんだけど、     ホモ・サピ以外にも同性愛ってあったと思う」 透「そうなの?」 真一郎「うん。たぶん。肉体と心の性別が違うってのは、     他の生物でもあり得ると思う。     あと、そもそも逆に、心の性別が同じでも     恋愛してはいけないってこともないだろうからね。     というかさあ。恋愛については、俺の名前の由来の例の作家が、     すっごく立派なアンソロジー出してるから。今度持ってこようか?     それには福永とか梅原、太宰も入ってるんだけどさぁ」 透「え……いや、めっちゃ長くなりそうだからいい。   うーん。ホモ・サピって不思議だな。   みんなして自分の居場所を求めている。   自分の存在理由を疑わなくてすむように。   自分だけが特別な存在になりたいと願う。 真一郎「そもそも存在理由なんて、多くの生物にはなくて、     みんなマシーンみたいに生きてるだけなのにね。     まあ、金集めに満足した金持ちはいないってことだね」
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