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十二 樹立/Establish
金曜日、自室にて
引き出しの中の「はぎわらしんいちろう」という名札を眺めながら、僕は小学生の頃を思い出した。あれは小学校の二年生の、帰り道だったと思う。ガードレールが物理的に歩道を仕切っていたため、通学路で誰かが立ち止まると、後ろの子供もみんな通れずに立ち止まらざるを得なかった。あの日、キリスト教の熱心な活動家が、紙芝居をしていて、道も塞がれていた。それに――
子供の僕には、それが避けて良いものなのか、つまり授業のように聴いていかなくてはいけないものなのか――
区別がつかなかったから、みんなに混ざって話を聴き始めた。
――イエス・キリストは処刑された後よみがえりました。
それはすごい。……でも、それなら、きっとその人は死なないわけだから、今も生きているのだろう。そのあと、あらためて死ぬというのはへんだと思う。その人には今は会えないの?
――人間は、最後の日を迎える時、神様を信じていれば天国へ
天国か。……はやく天国へ行ければいいのに。なんで、みんなはやく天国へ行かないの?
――天国では争いは無く、あらゆる幸せが
でも、天国で生きている人たちは、どうして生きているのだろう? 何かもくてきがあるの?
たとえば一日中、お花ばたけをさんぽして、きれいなたてものをながめて、ゆっくり過ごして、それは何のために?
――神様を信じなかった人たちは地獄へ
じごくか。どのみち死んだあとも、何かがあるんだ。むしろ、死ねなかったから、まだ生きているのかな。
一通り話を終えると、大人は紙芝居をしまい、子供たちは再び帰り路についた。帰宅するまでの間に、紙芝居に対する疑問がいくつも現れては消えた。
――でも、僕の両親はそんなことを教えてくれなかった。それに、ギリシア神話の本にもそんなことは書いてなかった。神様って、たくさんいるのではなくて? 今日の人が話していたのと違う。それに、それに、紙芝居に出てきた建物が、お寺とか神社とあまりにも違う。死後の世界の建物って、統一されていないの?
――お母さん、今日、神様の話をみてきたの
――僕は天国に行けるの?
――その人のいうことの、すべては信じないようにね。神様はたくさんいるの。
――その人の神様は、その人の神様であって、みんなの神様じゃないの。
僕には「その人の神様」というのが納得いかなかった。神様というのは絶対的なものであるはずだから、人ごとに異なる神というのは神様じゃないような気がした。
土曜日、学習室にて
隣の席に座っていた透が、ふと僕の前髪をいじった。
透(小声)「いいよな、キミの髪の毛ってさらさらだもんな」
透は僕の髪を触りながらうらやましがった。
真一郎(小声)「そう? よくわからない」
透(小声)「触ってみろよ、俺の髪!」
言われるがままに彼の前髪を少し触ったが、他人の髪の毛のさわり心地などなんともわからなかった。
透(小声)「ほら、かたいだろ!?」
どうしようもなかったので僕は笑ってごまかした。
真一郎「そろそろお茶飲みに行こうか」
レモンティーを飲みながら、僕は子供の頃の話をした。
真一郎「小学生の頃、帰宅の通学路でキリスト教の紙芝居が待ち受けてたことがあってさ」
透「新興宗教?」
真一郎「わからない。伝統的な、熱心な人だったのかもわからないし、
怪しいお金儲けだったのかもわからない。
紙芝居の中身は適切なものに思えた。
ただ、何でも信じちゃう子供に対して、
ああいうのやるのは効果的だと思った。
僕はそのせいで、一時期本当にあの世というのがあると信じたから」
透は宗教が嫌いだったから、その後少しつまらないやりとりになった。
日曜日
僕は――上條透は、昨日、真一郎とつまらないことで少し言い合いになった。内容を思い出せないくらい些細なことだったが、真一郎の気分を害したことは分かったし、今日、どうやって接すればいいかわからない。珍しく、ケンカというやつだ。
学習室で勉強していると、まもなく真一郎がやってきたが、僕はこそこそ隠れるように席を移動して見つからないようにした。お昼の時間、普段なら真一郎と一緒に出掛けるのに、これもまたこそこそ隠れるようにして葉山君と食べた。真一郎は秋山君たちと食べに行ったらしい。
月曜日になれば、弓道場に行くだろうし、いや、そもそも教室では席が固定されているから絶対に顔を合わせるだろうし、この気まずい感覚をどうにかしなくてはいけないのだけれど、どうしたらいいものか。まるで失恋した乙女が想い人から逃げ回るような情けない感じだ。
普段ならティー・ブレイクになるころ、真一郎が僕を見つけて、猛然と近寄ってきた。さすがにもう逃げられなかった。
真一郎(冷たい声)「お茶、行かない? 話したいんだけど」
透(動揺と諦め)「……ああ、うん」
自販機で珍しくコーヒーを買って、学習室近くの階段に座り込んだら真一郎が口火を切った。
真一郎「いや、本当、ごめん。
ちょっと昨日は無神経で、透ちゃんの気持ちを考えないで」
透「え? いやいやいや、違うって、違うよ、キミじゃないって。
僕が悪いんだよ。僕が君の気分を害することを言ったと思って」
真一郎「え?」
透「キミは何にも悪くなくて、
むしろこうして話し合いの時間を設けてくれたことは、
ありがたくて、昨日は僕が失言したんだよ。で、キミが機嫌悪くして」
真一郎「え? 僕は何にも? ただ、空気読めなくて、
透ちゃんの気分害したと思って、
親しき中にも礼儀ありって言うし。
でも、なんか、もし透ちゃんが許してくれるならありがたいけど」
透「いやいや、……悪いのは僕なんだけど、そうか。
キミの方が気にしてたのか。でも、ありがとう」
変な仲直りだ。僕は自分が悪いと思っていたのに、真一郎は彼自身が悪いと思っていたらしい。
透「話題変わるんだけどさ。妹が、今度の文化祭誘ってくれてるんだよ」
真一郎がどうにも表現できない、期待だか、驚きだか、素直な喜びではない不思議な表情をした。
真一郎「ぜひ同行させてください」
透「なんで敬語なんだよ」(笑)
真一郎「女子高ってだけで緊張する」
透「いや、普段、弓道場で一緒じゃん」
日曜日、学習室にて
昨日、透が本当に些細なことで――宗教の信者を全面的に否定したから、僕は少しくらい聞く耳持って欲しいと、しつこく話を続けた。僕とて宗教を信じる人間ではないけれど、存在そのものを完全に否定しなくても、その人が幸せならいいじゃないかという想いもあったし――
真一郎「別に何かを売りつけられたわけじゃないし」
透「すべての宗教の話は聞きたくない。時間の無駄だ。
そういうところからだまされるんだぞ?
あいつらの思うつぼだから、興味を持つのをやめろ」
やや沈んだ気持ちで透と分かれてしまったので、とりあえず謝罪したくなった。
――僕がしつこかったな。
しかし、今日は透が見当たらない。やがて食事時になった。食事も普段なら透と一緒に食べに行くのに。偶然、秋山君が食事に出かけるところだったから一緒に出かけた。
秋山「萩原君みたいに、賞を獲ってみたいけれど、僕は全部落ちてるよ」
真一郎「数撃ちゃ当たるんじゃないです?
それに、楽しければいいじゃないかな。
書くことが目的であって、賞を獲ることが目的じゃないでしょう?」
秋山君は「え?」と目を丸くして、その後、僕とは分かり合えないという感じの表情になった。
秋山「しかし、僕はプロになるつもりでいるし、
そのためには先に賞を獲っておきたい」
学習室に戻り、しばらくして透を見つけた。彼がそっぽを向いて立ち上がろうとしたので急いで迫って、声をかけた。
真一郎(緊張気味の声) 「お茶、行かない? 話したいんだけど」
透(冷たい声)「……ああ、うん」
自販機でいつも通りの紅茶を買って、学習室近くの階段に座り込んだ。沈黙は気まずい。ぎこちない感じで、僕は謝罪を申し出た。
真一郎「いや、本当、ごめん。
ちょっと昨日は無神経で、透ちゃんの気持ちを考えないで」
透「え? いやいやいや、違うって」
真一郎「え? どういうこと?」
透「昨日は僕が失言したんだよ。で、キミが機嫌悪くして」
真一郎「え? 僕は何にも?
でも、なんか、もし透ちゃんが許してくれるならありがたいけど」
透「いやいや、……悪いのは僕なんだけど、そうか。
キミの方が気にしてたのか。でも、ありがとう」
変な仲直りだ。僕の方こそ悪いと思っていたのに、透は自分が悪いと思っていたらしい。
透「話題変わるんだけどさ。妹が、今度の文化祭誘ってくれてるんだよ」
瞬間。僕の中に亜弓の姿が想起された。中学校の時のライバル。いや、ライバルなどというのは烏滸がましい。手の届かない、太陽のようなもの。
――おまえには無理だよ
ずっと手を伸ばしたいと思っていたのに、しかし、そんなことが。
真一郎「ぜひ同行させてください」
透「なんで敬語なんだよ」(笑)
それはもちろん、透だって知らないだろう。僕の気持ちの中の一番深いところにしまってある、何重にも鍵のかけられた心の機密書類。僕自身、認めたくないのだ。太陽というものを。
真一郎「女子高ってだけで緊張する」
透「いや、普段、弓道場で一緒じゃん。中学の時の友達とかもいるでしょ?」
伊澄ちゃんに対する後ろめたさと、不思議な感情が氾濫して、もう何も言えなくなっていた。
真一郎「とにかく、行きたいと思ってるよ」
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