十三 挿話(トランスポゾン/Transposon)

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十三 挿話(トランスポゾン/Transposon)

時として、思わぬところに知人はいる。 真夜中だというのに、中央区は本当に騒がしい。『マルテの手記』で、窓を開けたままだと”電車がベルを鳴らして部屋を走り抜けた”とか”車が私を轢いていく”という表現があったが、ここも似たような場所なのだろうと思う。私は2年目の営業であるが、どうして私の人生がこんなことになったのか、よくわからない。いくつかのありがたいことは、神保町の古本屋が近いこと、毎週のようにどこかしらの美術館に行くことができること――他に何かあるだろうか? とにかく、騒がしさと落ち着かなさを押し付けられた代わりに、ささやかな芸術の場を頂戴できている。戦争中の軍人も四六時中、音に敏感だったろうから、カロッサの『ルーマニア日記』を読んでいると『よくもまあ、こんな極限状態で幻想的な夢を見たり、詩を読めたりしたものだ』と驚いてしまう。寝付けないで時計を見ると2時30分を少し過ぎている。疲れがとれないまま明日(今日?)も出勤するのはつらいことだ。学生の頃は(ただ学問のことだけを自分のペースで管理できた学生の頃は)、夜中に目を覚ましたら、読書を始めたものだが、今はとにかく体を休めなくては。……眠いのだけれど、頭は眠くない。身体は完全に疲れ切っているのに。自分では手綱を牽けない落ち着きのなさが、ずっと眠りを妨げている。明日もオフィスに出勤し、いかつい顔の部長のご機嫌を取りながら、きっと店舗巡回に出てゆく――出てゆく? 『出てゆく』。それは、目的のない旅行であればどんなに気が楽だろう。緑を楽しみ、空に視線をうつし、代官山のお洒落な空間を散歩したり、あるいは横浜の港を眺めて、コーヒーを飲む。だが『出てゆく』のは管理されたルートの上、"若森薫"という名刺を差し出し、数字にうるさいお客をなだめ、身内の工場と折衝し、帰ってくるなり係長に小言を言われ――もうたくさんだ。私の人生は――信じられない。アンナ・カヴァンが書いていたように、こんな機械的な反復のために私の、万華鏡のように煌びやかだった幼年が費やされたなどと信じられない。少し目を瞑って、『休め、身体よ休め』と念じていると、4時ごろになった。この時間になるともはや、私の時間は失われて、機械(レディーメード)に身を任せてしまった方が気楽だと考える。低血圧な我が身をゆっくり動かし、ベッドの上でぼうっと15分程度過ごす。やがてシャワーを浴び、身支度を整え、朝のニュースをスマホで調べると、心身ともに完全に覚醒した状態となる。5時40分ごろに冷蔵庫からサンドウィッチを取り出し、コーヒーを飲み、精神安定剤を服用すると、ふらふらした足取りで玄関を出た。こんな朝早くでも都会は機能していて、すでにあちこちの電気は点いているし、車も走っている。6時前にオフィスに到着し、上長のデスクを掃除し、各担当のスケジュールボードを確認し、新聞掛けの朝刊を本日のものに取り換え、ようやく自分のデスクに座った。6時30分ごろ、後輩が出勤し、挨拶をすると、私と同じように自分のグループの上長のデスクをのろのろと掃除し、スケジュールボードを確認していた。彼は、朝刊が新しくなっていることに気が付き、私に謝罪したが、「いいよ、気にしなくて」と軽く告げた。7時になると多くの平社員が出勤してきて、皆同様に自分のグループの島の掃除を――当番表に従って、ある者は灰皿の掃除をし、ある者は来客用のコーヒーのドリップをセットし、ある者はこっそりPCの電源を入れた。こんな朝からPCが起動していることが本社の監査室にばれたらお小言を言われるわけだが、それでも間に合わせなければいけない業務はあり、タイムカードはあって無きもののように改ざんされてゆく。こうまでして、私達は何を欲しているのだろう。空しい。このむなしさはどこまで続くのだろう。私の脳裏に『プロゼルピーナ』の一節が蘇る。“空しい。永遠に空しいのだ” 8時になり、私のグループの次長が出勤し、グループメンバー全員がそろった。次長は全員を一瞥し、PCが起動されていないことを確認すると、着席し、係長と相談を始めた。 「T社、生意気なこと言ってるらしいな。どうする?」 「はい。昨日夜にもう一度クレームを入れて、今日からでも150にしろと強く言っています」 「ああ、メールは読んだ。本当に納得するか?」 「150にしない場合には、取引中止と言いたいところですが、どうでしょうか」 「いいよ。もしもの時は、俺が電話する。念のため、今朝、朝イチで電話入れてやれ。『上も厳しい態度を考えてる』って言ってやれ」 「ありがとうございます。……それとMですが……」 「……うん。それは良いと思った。Yに先を越されないうちに、な」 一通り話が済むと、係長は私に声をかけた。 「若森、話、聞いてたな? Tの件、150だ。絶対だ。ダメなら次長が電話する。それと、Mの準備しておけ」 私は内容をメモすると、頷き、そのまま今日の予定を係長に伝えた。やがて始業時刻になった。あちこちでキーボードをガタガタ叩く音と、電話の音と、コピー機、FAXが地獄のように回転を始め、私は電話越しに大声を張り上げ、メールを打ち、万事報告を済ませると外回りのために荷物をまとめた。ホワイトボードに行き先を書きにゆくと、部長がじろりと私を見て 「おう、若森、今日はどこだ?」と訊ねた。もちろん社内システムにスケジュールは登録されているから、私に落ち度はないはずだと、冷や汗をかきながら 「川崎へ行ってまいります」と応えた。 「そうか」とだけ返事をすると、部長は興味なさそうに自分のPCの画面に向き直った。単純な好奇心だったのだろう。わざわざ私のスケジュールなど見ていないということだ。直後、私は部長の、第三者への怒鳴り声で硬直した。 「おい! 富永! お前、これどういうことだ!?」 私ではない。私が何か失敗したわけではない。しかし私含め、事務所内は一瞬で恐怖に支配され、全ての人間が彫刻のように動かなくなった。怒鳴られた彼女は必死の表情で、事情を説明したが、部長は聞く耳持たず、机をバンバン叩きながら怒鳴り続けた。ごくり、と自分の唾を飲み込むのが自覚された。あと3分早く外出していれば良かったと後悔した。誰も動けないまま、部長の怒号が響き渡り、富永さんは涙目になりながら、言うべきことを釈明していた。部長の怒りは収まる気配がなかったが、オフィスが機能停止していることに気が付くと、さすがは管理職、隣の島の、本来のグループ長に始末をつけさせた。一時停止の解除された動画のように、各メンバーは再び動き出した。私はようやくオフィスを出た。電車の乗り換えをしている最中に、バイヤーから電話がかかってきた。 「いや、うちも苦しいんですよ。こんな時勢だし、それにあんた達だって、この前は……」 「そうは言っても、私もこの件に関して権限があるわけじゃなくて、もうどうしようもないんです。すみません、11時にもう一度折り返しでも良いですか? ちょっとお待たせしてるお客様があって」 乱暴に電話が切られた。どんよりした気持ちになりながら、満員電車を乗り継いで、取引先のビルに到着した。商談はあっけなかった。メールの添付資料と同じ内容を一通り繰り返し、先方も『万事わかっている』といったていで、虚しく時間が過ぎた。自社にとって厳しい取引条件だったが、私の力ではこれが限界だった。メールで内容を係長に報告し、11時、バイヤーに電話をかけ直した。 「話は、わかりました……まあ、今後ともよろしくお願いします」 開口一番、先方は諦めの挨拶をかましてきた。どうも、係長から先に電話が入っていたらしい。私はメールが入っていることに気が付いていなかった。係長に連絡を取ると『もっと毅然とした態度で挑め』と叱責された。軽食のチェーン店で昼ご飯を手早く済ませると、担当している地区の店舗巡回に向かった。大型量販店の、消費者心理を計算しつくされた内装(レイアウト)をさっと眺め、自社製品の位置を確認し、他社製品の値段を確認し、帰りの電車内では日報を書いていた。嵐のような一日だと思い、ようやくオフィスに戻ると、係長から恐ろしい指摘をされた。 「お前、Hのレポートどうした?」 私は頭の中が真っ白になった。いや、正確には真っ白にしたかったのだが、忘れていたことに対する言い訳、いかにして取り返しを図るか、自分にとって最も不利益を被らない合理的な説明、あらゆる思考が蜃気楼のように過ぎ去り、今度は今朝の富永さんのように私がサクリファイスされるのだと自覚した。気分が悪くなり視界が明滅する。なぜ忘れていたのか、他に重要な案件があり過ぎた、私は別にサボっていたわけではない―― 「申し訳ありません。間に合っておらず、進捗報告の相談も忘れておりました」 言い訳などしたところで何もならない。正直に、好きなように処刑してくれと、やけ気味で答えてしまった。私の態度は不誠実に映ったらしく、係長を激怒させてしまった。 「――」 恐ろしい罵倒の言葉が繰り出され、私は完全に消沈してしまった。一通り係長が怒りを吐き出すと、次長が『気をつけろよ』と簡単に締めくくった。次長の一声で、係長のギアはフォローに切り替わった。 「いいか。お前が遅れればお前が損するだけなんだぞ? 俺のチェックの時間が短くなって、そのフィードバックはお前に返ってくるんだからな? 少しでも良くしたければ、今から1秒でも早く仕上げて出せ」言われるまでもなく、私は中途になっていたレポートを再開した。だいたい7割くらいはできていたのだ。ただ、重い案件が頭を占拠していて――とにかく締切りを過ぎてしまったものを、もはやどうにもならない。頭も回らない。欠陥だらけなレポートであると認めつつも、係長にレポートを送付し、お伺いを立てることとした。 「とりあえず、今日はもう俺もチェックする時間ないから、あがれ」 係長が嘘をついているのはわかったが、精神的にも疲れていたし、『ありがとうございます。お先に失礼します』と言うと、私は退社した。――係長はきっと残業して、私のレポートをチェックしてくれているだろう。そういう人だ。悪い人ではない。しかし恐ろしい人だ。家路にて、公園で高校生らしい連中がたむろしていた。――ふん。いまに、今に恐ろしいことになるとも知らないで…… 料理などする気にもなれなかったから、コンビニで夕食を調達した。帰宅し、総菜パンをかじりながら栄養ドリンクを飲み、朝と同じ精神安定剤を服用した。会社に持たされている端末が、いつ臨時の呼び出しを告げるかと思うと、自宅にいてもちっとも心が休まらなかった。 「どうせなら、明日にでも」――世界が滅んでしまえば良い。メフィストフェレスも言っていたし、福永武彦の『世界の終り』でも書かれていたことだ。”どうせ世界はいつか滅びるのだし、それが今だってもっと先だって大した違いはない”のだ。プライベートの端末にメッセージが入っていた。大学の同期だ。“今度どっかで会えるといいね”――涙が枯れ果てていなければきっと私は大泣きしていただろう、そのメッセージを見詰めながら、私は言葉を失って、じっと画面を見つめ続けていた。 目が覚めた。3時。いつの間にか眠っていたらしい。それでも久しぶりに深い眠りにありつけたと思い、再度寝ようとする――嫌、友人にメッセージを返したい。 目が覚めた。5時10分。がばっと跳ね起きて、心臓がどきどきするままシャワーを浴び、身支度を始めた。もちろん、遅刻になどなるはずもない。間に合う、十分に時間に余裕はあるのだけれど――まだメッセージの返事を書いていない。 飽きもせず同じ味のサンドウィッチをほおばり、コーヒーを一気飲みし、精神安定剤を服用し、玄関を出た。世界はすでに動き始めている。オフィスに到着するなり、私は自分のデスクの上に、プリントされ、赤字でびっしり書き込みのあるレポートを見て、ぎくりとした。係長はやはり昨晩の内にケリをつけたのだ。つけてくれた、というべきなのだろうか。――まだ友人に返事をしていない。 私は上長のデスクを掃除し、スケジュール表を確認し、朝刊を更新すると、着席し、ぼんやりとレポートを眺めていた。細部にわたって私の至らぬ点が指摘されており、どの内容も何も言い返せるものでない。どうにも惨めな気持ちでいると、いつの間にか係長も出勤してきたので、挨拶とお礼を述べたが「Mの準備は絶対忘れるなよ」とくぎを刺された。それこそ私のタスクの忘却の要因であって、忘れるはずもない。 ようやくの休日――都内の心療内科は予約でいっぱいだったので、私は地元の、昔お世話になっていた内科をはるばる訪れた。郷愁を感じるというよりは、落人のような惨めさを胸にしまい込み、こそこそと待合室に入った。若い、女の子が一人、高校生くらいだろうか、ひどく憂鬱そうな表情で窓の外を見詰めていた。その子はガラスのような透明感があり、私が高校生の頃に好きだった歌手に似ているなとぼんやり思った。互いに特に挨拶もせずにいると、受付がその子を呼んだ。 ――ハギワラシンイチロウさん 女の子だと思ったその子が、その名前に反応して受付へ歩いて行った。ハッとしてこの医院に入るタイミング、入り口近くに留めてあった自転車に、知っている高校のシールが貼られていたことを思い出した。――もしかして、同じ中学校を卒業しているかもしれない。注意散漫だったと考えているうちに、私も先生に呼ばれて診察室へ入って行った。 ――前回から、良くなっているとは思えないし、どうしても嫌でなければ、近所になりますが、紹介状を書きます。そちらの専門家に診ていただいた方が良いと思います。僕も、気休め程度の戦神安定剤は出せるけれど、これ以上は…… ――ありがとうございます。そうですね……紹介状をお願いしても良いでしょうか。実は、もう、私も自分でダメだと思って、都内の心療内科を探したのですが、紹介状がないと受け付けてくれないようで、混みすぎていて…… ――では、この内容で一つ作成します。 ひとしきり話が済んだところで、他人のプライバシーとは思いつつも、先ほど気になった子のことを話題にしてみた。 ――さっき、母校の後輩らしき子と待合室ですれ違ったんですよ。まさかと思って ――お知合いですか? 奇遇ですね。同窓会が開けそうだな。 ――いえ、知り合いじゃなかったんですが、自転車の…… ちょっと先走ったと思ったのか、医師は話題を変えてしまった。 ――ハギワラシンイチロウか……ハギワラ、は萩原かな? シンイチロウは信一郎? 慎一郎? 真一郎? どんな気持ちでご両親は名付けたのだろう。萩原朔太郎と何か関係……あるわけないか。考えすぎだろう。それにしても、あんなに若いのに、なんと気怠そうな容貌だったろう! 一昨日見た高校生たちのように、楽しく生きている子たちもいるのに……! あれでは折角の水晶のような若さを、指の隙間からポロポロとりこぼしてしまう。 帰りの電車の中で、私は”彼”に対する感想がそのまま自分に跳ね返ってくることを感じた。私もまだ若く、生命に溢れているのに、こんなに暗く、夜闇の中の黒檀のような内面を抱えて……そんなに勿体ないことがあるだろうか? この黒檀を磨き直してみたい。もしかしたら、ひょっとしたら、内側の宝石がもう一度輝きだすような気がして。 ――どうか私に人生(オーダーメイド)を。
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