十五 挿話(プロフェイジ/Prophage)

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十五 挿話(プロフェイジ/Prophage)

真一郎が秋山君と話をしていた。弓道場に行くのにどうしようかと思い、話は長引くのか、問いかけようとしたら突然、真一郎は秋山君に叫ぶように言った。 真一郎「ごめんなさい! もう行かないといけないから! 急いでて!」 劇的に真一郎は僕の方に目で合図してきた。早く逃げたい、助けてくれと言った感じだ。わけがわからないまま速足で階段を駆け下り、自転車場へ向かって、何を急ぐのか全然心当たりがないまま一緒に自転車をこぎだした。路上を走りながらしばらくして、話しかけてみた。 透「今日って急がないといけないんだっけ?」 真一郎「いや、そうじゃないんだけどさ、そろそろいいかな……」 真一郎は辺りを素早く見渡した。 真一郎「秋山君がさあ、作文のことで絡んできて、別に彼は嫌いじゃないし、     適度な距離感で接する分には面白いんだけど、     ちょっとジェラシー持たれてるっぽいんだよね」 透「ああ」 それはそうだろう。彼以外にも妬んでいる人間は多いけれど、まあ知らないでいるほうが幸せだろう。 秋山健治は帰宅途中―― 歸宅途中の電車内にて沛然たる驟雨あり、餘りの音の激しさに一抹の不安を覺えた。吾人(わたくし)は同窗の萩原君に對し、樣々な觀點で複雜な想ひを抱いてゐる事を說明する必要があらう。第一に文藝の賞について。吾人は中學校の時分より、作文に由りて先生諸氏から稱贊される機會に惠まれた。吾人は己に文藝の才覺ありと信じ、高等學校に於ても同樣の評價を獲られるものと考へ、幾つかの賞に應募してみたが、何れ一つとして思ひ通りの成果は上げなかつた。一方、彼は其の詩が評價された。此れは吾人にとつて甚だしい嫉妬の情を掻き起した。吾人は國語の試驗に於て、凡そ拾番以内の成績を、英語の試驗に於て參拾番以内の成績ををさめた。一方、彼は國語の試驗に於て凡そ參拾番以内の成績を、英語の試驗に於ては平均程度の成績ををさめた。此れは若干、吾人の溜飮を下げる口實となつた。此のやうに吾人と彼とは文藝を志す仲閒ではあるが、競爭相手と云う氣持ちもあつた。 真一郎「大学でも賞を目指して応募するとして、     文芸の新人として賞を目指して名が売れたとして、     次には太宰でさえ獲れなかった芥川賞が欲しいと言い出し、     最後にはノーベル文学賞が欲しいと言い出し、     死ぬまで満足しないんじゃないですか?     だから僕は文芸で身を立てようとは思わないんです」 秋山「そういう大きな賞ということではなくて、    実績を残したいという意味で……」 真一郎「あ、ごめんなさい! もう行かなくちゃ!     もう行けないといけないから!」 吾人は明治の文學を讀み、大正の文學を讀み、何らかの選考に際しては選考委員の趣向を調べて内容も吟味した作品を送付けたが、何れ一つとして評價はされ無かつた。彼は殆どの作品が評價された。 繁華街を抜けて、閑静な住宅街に差し掛かるころには大体の事情がわかった。ふとした疑問、つまり、真一郎はプロの詩人である父上にアドバイスを求めているのか気になった。 透「キミはさ、作品創った時にお父上に見てもらうの?」 真一郎「見せはするよ。でも、特に得られる意見は無いね。     だって『読んだ』と言った次に     『この作品を解するには誰それと、      誰それの著作に関する教養が必要だ』     で、その後が     『ところで漱石の”文学論”は読んだか?』と聞くから     『漱石の小説は全て読んだつもりですが、文学論は読んでいません』     と応えた。     『あれはただの文学論ではないから、      食わず嫌いしないで読んでみると良い』     続いて     『伊藤整の”小説の方法”、      萩原朔太郎の”詩の原理”はもちろんとして、      世阿弥の”風姿花伝”は読んでいるか?』と聞くから     『まだです。でも、萩原朔太郎の詩集は読みましたし、      アリストテレスの”詩学”も読みました』と応えた。     でも、後は頷くだけで     『もし今後も日本語で作品を書くなら』     ……父上はさ、     国文学の古典好きだからもともと信念が違うんだよね。     『とりあえず、その辺を読んでからかな』で、     『回答になっただろうか?』だもの。     特に意見やアドバイスはもらえなかった」 透「なんかすげえ言葉がたくさん出てきたな   ……その、挙げられた本は読んだの?」 真一郎「いやー、俺、国文学と相性よくないんだよね」 透「え?」 真一郎「なんか、求めてる方向性が違う」 透「意味が分からない」 真一郎「悔しいから、大学行ったら真面目にドイツ語勉強して     ドイツ語で詩を書く」 透「いや、その前に英語勉強しろよ」 真一郎「うん。……それは言えてる。シャインにも試験返されたときに     『キミは詩が好きなら、エリオットとか原書で読んでみない?      “The Waste Land”とか調べてみると良いよ』って諭された」 透「……ちょっと待って、あの、撃沈した試験? 英語の?」 僕の顔がニヤニヤしてしまっていたのだろう。真一郎は気まずそうな、かわいい怒り方をした。少し空が怪しくなってきた。 真一郎「しょうがないじゃん!     英語できなくってもドイツ語できるようになるかもしれないじゃん!     あー、でも一つ役に立ったこともあった。     父上、僕の作品が耽美主義に陥りがちという指摘をしてた」 透「その、それはどういう問題があるんだ?」 真一郎「ホラティウスの言葉を借りると、     美しいものをつぎはぎにしても     でき上ったものが美しいとは限らないってこと。     適当にキラキラした言葉だけ集めてもそれは     芸術作品にならないって」 そんなものだろうか? 適当にキラキラした言葉をつなげていればいいんじゃないかと思ったけれど、当事者が『違う』と思っているなら、僕の口をはさむ内容ではない。 真一郎「あ、それはそうと昨日の夜、     弓道場の帰り一人になっちゃってからさ、     ナンパされたんだけど? ちょー怖かった」 透「は?」 真一郎「いや、なんか大学生っぽい人らが歩いてて、     ねえちょっと彼女―みたいなこと声かけられて、道塞がれて。     仕方なく立ち止まったら『ち、男じゃねーか!』     って悪態吐かれて怖かった。     ナンパとかストーカーされるの怖いって女の子の気持ちがわかった。     国はただちに規制を強めることを検討するべき」 透「お前はナンパしてもらえない全世界の非モテを敵に回したぞ?」 真一郎「いやさ、つーか、マジで怖いよ? 想像してみ?     自分よりガタイいいやつが、行く手を塞ぐんだよ? 犯罪だって」 透「……ううん。まあな。   真面目に言うと、俺だって、妹のこと考えればわかるよ」 真一郎「それに、透ちゃん、     全世界を敵に回しても味方でいてくれるんでしょ?」 透「あー、くそ! そうだよ! くそー、つまんねーことを覚えてるなあ!」 二人して笑いながら、弓道場に向かっていった。弓道場について間もなく、激しい夕立に襲われた。道着に着替えたものの、雨の吹込みを防ぐために的前は閉鎖された。 透「ゲリラ豪雨だってよ」 真一郎「道場着いてからで良かったね」 透「ああ」 真一郎「素引(すび)きでもする?」 僕は頷いて自分の弓を取った。 部活から帰宅し、萩原真一郎は創作しようという気持ちになりペンを執る―― 僕の父の書斎はある種の要塞だった。入口右手の壁全体を覆う巨大な本棚に古典文学全集が並び、下の方には芥川龍之介全集が、一つ奥の本棚には鴎外や中島敦、萩原朔太郎、中村真一郎、福永武彦のハードカバーが占め、二つ奥の本棚の上の段には父の主催した同人誌集と、何やらわからないファイルの類が陳列されていた。二つ奥の本棚の下の段には大きな辞書と漢和辞典とが鎮座していた。反対側、左手の壁の本棚には法律の専門書が並んでおり、この部屋の本はどれも子供が持つには重く、なかなか親しみにくかった。キッチンに置かれた母の本棚は魅惑の庭園といった風情で、ギリシア神話、モンゴメリ、トゥウェイン、シェイクスピア、マキャベリ集などが並び、時折日本古典の文庫や何冊かの洋書が並んでいた。内容の難しさは似たようなものだったかもしれないが、文庫は子供が持つのに丁度よい重さであり、母の本棚の方が近寄りやすかったために、僕は子供の頃から海外文学の方に親しみを感じた。また、ほとんど多くの作家が大人を主人公として物語を紡ぐのに対して、ヘッセやカロッサは学生を描写していたので、感情移入しやすかった。僕自身の本棚には本はほとんどなかった。教科書とノート、参考書の他には宮沢賢治、テグジュペリ、エンデなどの児童書がわずかにあるばかりだった。僕の読書の多くは公立の図書館で借り、学校の図書室で借り、母の本棚から借りた世界で構成されていた。借りたものは返却しなくてはならないから、期日までに読み切るようにひたすら乱読した。気に入ったものだけを選び取り、メモしては繰り返し読んだ。僕の記憶の読書棚はそのため大いにデコボコになり、”マルテの手記”のクリスティアン四世の下りや、”星の王子様”のヘビとの対話は諳んじることができるのに、中村真一郎の小説の一節を朗読されてもそれと気付かないこともあった。 去年は――高校を知りたての一年生の頃は、血の流れるような深みを感じる作品が好きだった。よその高校の上級生で(恐らく樋口一葉にあやかったのだと考えているのだけれど)、一葉というペンネームの詩人がいた。僕はその人の作品にとても心を動かされた。彼女は多くの作品を応募していたけれど、いくつかの作品が入選か、最終候補の段階で選から漏れてしまっていて、僕はそれを残念に思った。あの作品はもっと評価されるべきだった。佳作に僕の作品が入っていて、彼女の作品が選から漏れていた時など、それは正当な評価がなされていないとさえ思った。彼女の作品はとても陰鬱で、残酷で、人が悶え死に、苦悩の塊りを吐き出してぶつけてくるような迫力があった。ただ、僕は化石を夜空に浮かべたような大人しい作品を出した。 今の僕は――去年より将来への不安が視えてきた僕は、グロテスクな作品を受け取る能力が衰えてしまった。刃物も針も怖くて、マルテの母親のようだ。今年も彼女の作品を読めるかもしれないけれど、それは去年よりも怖いことのような気がした。一葉、あなたはいったいどういう人なのか? その手首はひょっとして傷だらけなのではないか――僕の親友の手首のように。
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