十六 アポトーシス/Apoptosis

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十六 アポトーシス/Apoptosis

片山沙耶香は弓道場で練習に打ち込んでいる―― 気紛れで竹弓を使わせてもらったら、想定以上に的中するようになった。『射形が美しいことが大事』だとか、『会の長さを保て』とかいろいろ言われても、実際に数字が見えると嬉しくなってしまうものだ。あたしはそこで満足していれば良かったのだと思う。この日、射会が終わった後に、次の三人立ちの大会のメンバーが発表された。 先生「次回の大会の第1チームメンバーは……」 主将と副主将の名が挙げられた。当然だと思う。彼女らがどれほどのカリスマ性を持ち、どれだけ練習を重ねているかあたしたちは知っているし、期待に応えてくれることも容易に予測できる。あたしは多分第5チームくらいだろうから、まだまだ呼ばれない。ひょっとしたら最近、調子が良いから第4チームに呼ばれるかもしれない。でも、第4チームの『落ち(3人立ちでは最後の位置、最もプレッシャーがかかる)』を任されることになったら、緊張してつぶれてしまうかもしれないから、そのくらいならば第5チームでいつも程度の成績が出せた方が良いかもしれない。 先生「……で、片山」 一瞬、周囲が黙り込んだ後、わあという歓声と拍手がなされた。 ――あたし? 先輩、学友が良かったねと、最近調子良いもんねと一斉に声をかけてくれる。同時に嫉妬の空気を感じる。声には出さないけれど「あたしの方が頑張っているのに」「最近、調子よいだけなんじゃない?」「先生が無謀な博打をした」という心の非難が渦巻いているのが聴こえる。今呼ばれたのは間違いなく第1チームのメンバー。考えてもみなかった、あたしが第1チーム? 全員の名が呼ばれた後で先生に確認してみた。 片山「あたしで……いいんですか?」 先生「うん。最近の的中率から考えた末だ」 誰も反論しない。誰か、反論したっていいのに。 ――どうしよう、誰かが気付かなかったのかしら。あたしは、数字だけ見たら、確かにあたしは最近、よく的中(あ)たるようになった。けど、まさか第1チームメンバーに選ばれるなんて…… 問題点がある。あたしはこの期待に応えられない可能性がある。理由は知っている。あたしは心が負けている。あたしは本番で醜態をさらすリスクがある。最近のあたしの的中の内訳をよく観察すればわかることだ。射会にて私だけ、「必ず」皆中(かいちゅう)できてないのに。こんな致命的なことに、主将も副主将も、先生も、いえ、同級生の誰も気付かなかったの? 皆中できないのはあたしの自信の無さの表れだと、無意識は教える。あたしは「必ず」最後の一本を外すか、最初の一本を外してしまう。今日だって最後の1本を外した。昨日の射会で、最後の1本が的中(あ)たったのは、最初に外して気が楽になっていたから。無理だ。あたしは期待に応えられない。 ――帰宅して、夜、なかなか寝付けずにいたけれど、いつの間にかあたしは砂の妖精に眼を閉ざされていた。夢を見た。一人だけで的前に立っている。でも、審査員と観客はたくさんいて、あたしの射る様子をじろじろ見ている。弓を持つ手が震える。あまりにも震えすぎて、引き分ける途中で矢の筈が外れてポロリと落ちる。全てが台無しになってしまう。気がついたら、あたしの足元には何十本もの矢が落ちて床に刺さっている。もちろん、実際にこんなに多くの矢が落ちているはずはない、夢だからだ。実際の矢は四本しか持たないし、落とした矢が床に刺さりっこない――目が覚めた。夢で良かった。学校へ行く。お化粧する時間なんてない。社会に出たら必須だと聞いたことがあるけれど、だいたい、お化粧の方法なんてどこで勉強するんだろう。義務教育にはないんだけどな……部活へ行く。共学校の後輩、香水でもつけてるのかな……良い匂いさせてた。村井君が何となく避けてるような気がして逃げてしまう。夕方の射会、今日も最後の一本が的中(あ)たらなかったのに、総合点だけ見て、みんなあたしが絶好調だと信じている……誰かが、あたしの弱点に気付いて指摘してくれたら、メンバーから外されるかも、その方が学校全体の戦績のためには良いかも……でも、あたしだって、もしかしたら直前までに精神的な課題を克服して、皆中するようになるかもしれないじゃない。今日だって、あと少しで皆中だったのだし、これはあたしの悪意じゃない、隠してたんじゃない。 時間は一方向に確実に進むのだ。大会当日は、どんなに嫌がってもやって来た。練習中に、皆中はとうとうできなかった。 三人立ちの御前は副主将が務めた。確実に的中(あ)てて流れを作る定石だ。私は中で、最もプレッシャーのかからない位置。副主将が流れを作ってくれるし、もし、私が外したとしても落ちの主将が流れを元に戻してくれる。私たち三人は厳かに入場し、形式にのっとって構え始めた。副主将はその美しい射形を崩すことなく、見事に的の中央に的中(あ)てた。とは言え、少しは緊張しているようで、心の震えのようなものが何となく伝わってきた。 ――あたしが上手く的中(あ)てられれば、彼女のプレッシャーもやわらぐんだ! そう、自分に言い聞かせて、精一杯の射を放とうとした。 信じられないくらいに弓が重い。これは本当にあたしの弓だろうか? 他の弓と間違えてしまったのではないか――そんなことはない。これは私が、散々練習で使った竹弓、間違えようもない。全く馬手(めて)が動かない。たまらず、会を伸ばす余裕もなく矢が放たれた。矢は的一つ分後ろ(左側)に離れた安土に無様に刺さった。こんなに大きく外したのは久しぶりだった。私の心のざわめきは主将と副主将に感染した。 私の背後で、主将が外した。 ――あり得ない。何事もなければ四本とも的の中央に的中(あ)てるはずの彼女が、まさか外すなんてあり得ない。 副主将の二射目は、かろうじて的の端に的中(あ)たった。せっかく流れを戻そうとしてくれている副主将の努力を流してしまうことはできない。 ――怖い。ダメだ。負けちゃダメだ。変なこと考えてちゃダメだ。 あたしの二本目の矢は的に届く前に地面にあたり、跳ね返って安土に刺さった。 主将の二本目の矢もつられるように、外れた。 ――あたしのせいだ。 嫌な汗が体中から流れているのを感じる。 副主将の三本目の矢はとうとう外れた。 あたしの三本目の矢は的の上の安土に刺さった。 主将の三本目の矢は、中央ではないが、ようやく的中(あ)たった。 副主将の最後の矢は的の枠ギリギリで外れた。 あたしの最後の矢はマト枠に当たって、判定上は当たりとされた。『射(しゃ)!』という応援の叫びが必要以上に大きく聴こえ、あたしの恥を糾弾しているみたいだ。 主将の最後の矢は、的の中央に的中(あ)たった。 的前から出ると先生が驚いた顔で私たちに問いかけた。 先生「どうしたんだ!? 全員、身体固すぎて動きがガクガクだぞ?」 主将「すみません。私が流れを悪くしてしまいました」 そうじゃない! 流れを悪くしたのはあたしなのに―― 次の立ちも語るような内容でなかった。 主将と副主将はそれでも、次の立ちで三本ずつ的中(あ)てた(普段の彼女らの的中率から考えれば、決して良い成績ではない)。あたしはまた一本だけ的中(あ)たった。総合成績では第2チームと第3チームがそれなりの成績を修めたため、学校としては平常通りの戦績となった。でも、あたしはあの二人に恥を掻かせた。あたしは自分の弱さに気付いていたのに黙っていたのが全部悪いんだ―― その日、残って何本も何本も一人で弓を射た。大会の成績など知らないと言わんばかりに、馬鹿みたいに矢が的中した。顔を真っ赤にしながら、泣きはらしたような顔で記録をつけると、竹弓を返上した。 次の日、学校で知らない人たちが通り過ぎざまに誰かの陰口をたたいていた。 「あいつホント使えない。マジ外したいんだけど」 あたしは廊下を走るように逃げ出した。 ――あたしのことじゃない! 知らない人のことだ! あたしのことじゃない! でもそれはあたしのことだ。ああ怖い! 助けて! 許して! なんだかわからないけれど背筋に悪寒が走る。黒い亡霊が背中に取り憑いているみたい。あたしが悪かったから、もう許して! わかっていたのに。もっと練習していれば良かったのかもしれないもっともっともっと。辞退していれば良かったのかもしれない。他の誰かならこんな無様なことにはならなかった。あたしが全部悪いんだやるなら自信を持てるくらいにやれば良かったのに何だって中途半端中途半端中途半端!  逃げている途中、期末テストの成績優秀者のリストが掲示されていて、混雑に巻き込まれてあたしは立ち止まった。河原さん、成績良いな……点数張り出されてた。主将、副主将、すみませんでした。あたし、何も、何も何一つ取り柄なんか無い。今回だけは何かができるなんて勝手に勘違いしてたバカだった。結局あたしには何も無いんだ。だから村井君にも愛想を尽かされたんだ。どうしてこんなに惨めな気持ちしかしないんだろう。 あたしはこうして誰かが慰めてくれるのを待ってるだけだ、卑怯者だ、何もしないで。 あまりに悲し気に立ち尽くしていたせいか、有井さんが声をかけてくれた。「大したことじゃないんだけど、あたしって本当に何にもできないんだなって思っちゃって」と話し始めた。有井さんはあたしのつまらない愚痴を聞いてくれた。中学校の頃から、いつだって正論で、正義の味方。 理奈「練習、サボらなかったんでしょ?    なら、それは悪くないよね?    練習試合では、周囲が認めてくれたんでしょ?    他の人が認めたなら、それは 沙耶香ちゃんのせいじゃないよね?    何も悪くないよ?    むしろ、第1チームに選ばれたことを誇っていいんじゃない?」 弓道場にて―― 真一郎「チラッと聞いた感じだと、村井君     彼女から距離置かれててめちゃ凹んでるらしい」 透「なんかやらかしたんか?」 真一郎「いや、心当たりがないから困ってるみたい」 透「はぁ、あいつ、直接聞いてみれば良いのに。   なんで弓道やサッカーではあんなアグレッシブなのに   彼女相手にはそんなデリケートなんだよ。   ギャップありすぎてギャップ萌えか!」 真一郎「しかもな……たぶんなんだけど、村井君が何かしたわけでもなく、     彼女さんが何かしたわけでもなく、     お互いに気を遣い過ぎてギクシャクしてる可能性が     あるみたいなんだよな」 透「……なんつー馬鹿馬鹿しい話だ。誰か助けてやれよ」 真一郎「透ちゃんが言うように、     村井君がいつものエネルギーで突っ込んでいけば     解決だと思うんだよねぇ」
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