十七 スプライシング/Splicing

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十七 スプライシング/Splicing

上條透は夏期講習でいつも通りに登校している―― 自転車をこいでいると蝉時雨が僕の耳に降り注ぐ。電車内と学校は冷房が効いているから良いとして、駅から高校までの道のりは日差しが痛い。教室へ入ると、既に真一郎は登校していて、イディオムの参考書を眺めていた。 透「早いな」 真一郎は待ってましたという風に参考書を閉じた。 真一郎「なんかさあ。夏休みって感じしないね。去年もそう思ったけど」 透「俺はペースメーカーになるからいいと思うけどな」 真一郎「まあねえ。どうせ勉強するわけだし」 透「ところで我が心の友よ、聞いてくれ」 真一郎「ん? 俺にできる範囲であれば」 こいつの『できる範囲であれば』というのはどうやら法律家の父親の教育によるところであるらしい。時折、妙に言葉に拘ることがあって、普通の人が「絶対」と言うところでなるべく「絶対」を避けるとか、俺以外の人間に対して「わかっている」というところを「認識している」とか、例を挙げれば枚挙にいとまがない。 透「二階から目薬ってあるじゃん」 真一郎「うん」 透「あれってさぁ。二階の点眼者と、受け手の距離を仮に7mとしてさ。   手首の角度が±(1/8)πrad(パイラジアン)くらいとすると……」 真一郎「ぶ(笑)……そういう話か。     それって、押しだす力の強さとか、     点眼者と眼をあけて上を向いてる人の     xy座標のずれも考慮するよね?」 透「そうだなあ。うん。思ったより変数が多くなるな」 真一郎「いやいや、何? 目的は確率を求めること?     それとも点眼できればいいの?」 透「本当は確率を求めることだけど、   二階から確実に目薬を点せる方法があればよいとする。   やっぱロングレンジのピペットみたいな目薬作るのが早いのかな?」 真一郎「そんなことしなくても、バケツにいっぱいつめてさあ。     ターゲットの顔面目掛けて20リットルくらい投げつければ     解決だよ」 透「ええー」 真一郎「ベクトルも確率も手振れ補正も必要ない。シンプルでいいじゃん」 透「点される側の立場になれよ、   お前、バケツいっぱいの目薬浴びせられるってなんの罰ゲームだよ」 真一郎「目的のためには生命倫理が棚上げされることは、     残念ながらこの分野ではあることなのです……」 透「生命倫理か……生物やってるとそういうのもやるの?」 真一郎「いや。やらないよ。でも、時々グロテスクな実験とか出てくる。     例えば……」 透「いや! いい! やめろ、わかった。   キミがグロいと認識する内容を俺は耐えられん」 真一郎「(笑) 透ちゃん、遠藤周作の『海と毒薬』とか読めないね」 透「読んだことないけど、今の君の台詞で読まない方が良いと確信した。   そうか。俺は、じゃあ、読まない。『海と毒薬』だな。よし、覚えたぞ」 真一郎「ところで何で急に二階から目薬とか考えたの?」 透「いや、そろそろクイズ大会だからさあ。   変則的な問題も考えられるようにしておこうと思って」 真一郎「ああ(笑) 水に浮くコインの種類とか、     年代別の建築物の高さとか、南極の生き物とかのお勉強ね」 透「服部君も吉川君も俺の言うこと信用しないで反論して、   結局不正解で予選落ちなんて去年みたいなのは不本意だ」 真一郎「生物と文学の問題以外なら、     俺は全面的に透ちゃんの言い分を信じるよ」 透「キミ一人が応援してくれても、   残りのメンバーが反対すると多数決になるからな……」 やがて英語の教師が入ってきたので僕は席に戻った。 課外授業の1コマ目を終えて、真一郎はシャイン(*英語の教師、真一郎のクラス担任)に声をかけられた―― 教師「どう? 今年は何作品出すとか、予定あるの?」 真一郎「とりあえず三つ創ったので、今週中にあと二つ創って、     全部で五つ出そうと思います」 教師「それは頼もしいね。……去年みたいに受賞できるといいね?」 真一郎「県のコンクールに関しては、選考委員の好みがわかっているので……     都のコンクールはどうなるかわからないです」 教師「へぇー、そこまでわかるんだ。    うん。あとは、英語も頑張ってね?」 穏やかに笑ってシャインは教室を出て行った。 流れ作業みたいに作品を創っていると思われるのは遺憾だ。ただ、僕は自分の言葉が溢れ出してしまうから書きつけておくだけで、”感情”をモノみたいに胸から取り出して”言語”の形で記録しておきたいだけなのだ。生きていた痕跡になるように。 翌日、夢を見た。原稿用紙が足りなくて、自分の用意している言葉が書けなくて、仕方ないから壁に象形文字を書いて、書いて、壁中をインクまみれにする夢だった。 ――ちょっとはプレッシャーになってるのかな? 詩を書くことは、愉しむことが目的でありたいのだけれど。 起きてみると、時間は5時で、二度寝するには微妙な時間だった。僕はノートを広げて最新作を書き始めた。前から一葉さんの作風を真似したいと思っていたので、それに挑戦してみよう。 『螺旋階段』 真夜中、私は塔の螺旋階段を昇り続けている。屋上に出て、飛び降りて破裂するために。もう二百段以上昇っている。暗い静謐な塔の中を、孤独に昇り続けている。屋上まで辿り着いたら、花が咲くように、シャボン玉が割れるように、花火が炸裂するように、私を完成させたいと思っている。屋上にはなかなか辿り着かない。もう三百段以上昇っている。誰もいない夜のうちに全てを済ませたい。誰にも決して見つからないように。私は螺旋階段を昇り続けている。不思議と疲れを知らず、無限に歩んでいける気がする。もう四百段以上昇っている。屋上まで辿り着いたら、鳥が羽ばたくように、虹が差すように、月が飛ぶように、私の人生を完結させたいと願っている。屋上はまだ辿り着かない。階段は無限に続いている。もう五百段以上昇っている。私はこの夜の支配者だから、全く足が疲れない、息も切れない、屋上は視えない。「真に深き水底は、濁っているためではなく、その深さのために、澄み切っているにもかかわらず視えることはない」とツァラトゥストラも語っている。屋上に出たら、私は完成する。真夜中、私は螺旋階段を昇り続けている。もう六百段以上昇っている。最後の段を昇りきったら、砂漠に描いた絵のように、海辺の蜃気楼のように、儚くあっけなく、私の過程を完了したい。屋上はまだ辿り着かない。私の足が疲れを知らないように、螺旋階段も無限の距離を私に問いかける。誰もいないのに、私は呼び声を聴く――まだか、夜が明けてしまう、早く――もう七百段以上昇っている。塔の屋上は視えてこない。螺旋階段が永久に続いている。もう八百段以上昇っている。真夜中、私は自分の王国たる塔の中を昇っている。屋上に辿り着いたら、モルフォ蝶がさなぎから抜け出すように、画家が作品にサインを落とすように、氷柱が砕け散るように、私を完成させたいと思っている。過程の修了、何者かになり、そうではなくなること。私は無限の螺旋階段を昇っている。もう九百段以上昇っている。塔の屋上は視えてこない。私の足は疲れを知らない。だって、まだ私は若いのだもの。「あ」と気付いた。そうだ、だから屋上に辿り着けるはずなどなかったのに。しかし今更引き返すわけにもいかない。私は螺旋階段を昇り続ける。どうせ同じことなのだ。早く夜のうちに決着をつけてしまおう。屋上の時計の針を止めてしまえ、メフィストフェレスのように。深く、ユーディットの刃のように、止めてしまえ、世界を、どうせ滅びる、螺旋階段、私は昇っている、もう千段以上昇っている。屋上に辿り着いたら、月が支配している夜のうちに辿り着いたら、私は軽やかに魂を放り投げる。 ――うん。背伸びした感じはするけど、今までの作品(萩原朔太郎の『青猫』のオマージュや、単純に若さを売りにした作品)より正直な気持ちを書けた気がする。これは一葉さんも出しているコンクールに出してみようかな? そうしたら、入選しなくても、ひょっとしたら応募作品集の中から探して読んでくれるかもしれない。 夕方、父が帰宅して一息ついてから、僕は五つの作品を持って書斎に入って行った。 真一郎「お時間があるときで構わないのですけれど、どれをどこに出すかと、     講評がいただければありがたいのですが」 父「うん。今、読む」 父は素早く作品に眼を通すと「これは誰先生のところへ、これはどこそこへ」と言い、4つの作品についてはいつも通りの簡単な講評をくれた。 父「この作品は君らしくないね。誰かの作風を真似した?」 真一郎「……大学のコンテストに応募していた、     一葉さんという方の作風を真似しました」 父「これで書くためにはまず今昔物語のどこそこの段と、雨月物語と、   ボードレールの何それとを先に読んでおいた方が良い。   それと、折角だからその大学のコンテストに出してみよう。   でも、これに関しては入選しない気がする。   別のを作ったらどうかと思う」 僕に対して、普段よりやや酷評と感じたのか、付け足した。 父「とはいえ、新しい作風に挑戦したことは面白いと思うし、   読む物の幅も広がって良いことだと思う。さて、回答になっただろうか」 僕は「はい」と応えてお礼を言うと退室した。 翌日、夏期講習の休み時間に透に話しかけた。 真一郎「ところでさあ。村井君、無事に彼女と仲直り? できたらしいよ」 透「あいつめ……裏切りやがって。せっかく独り身が増えると思ったのに」 真一郎「いいじゃん」 透「いいけどさあ。   でも、あいつが勇気を振り絞ってってのは想像しにくいな」 真一郎「そりゃそうだよ。だって、周囲の女子が彼女さんを応援して、     彼女さんが思い切って村井君に話しかけたらしいもの」 透「何だよー、あいつ、人間関係、本当恵まれてるなー」 真一郎「透ちゃん、俺がいるからいいじゃん」 透「ぶ(笑)! ああ、いいよ。いいさ。……キミ、裏切るなよ   ……っていうか、キミも彼女いるんだろ?」 真一郎「んー。説明しにくい、非常に微妙な関係なので、何とも」 透が冗談半分でにらんだので、はいはいと手を振って、僕は席に戻った。
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